PL学園「最強世代」とも呼ばれた主将・今江敏晃たちの代は、戦わずして最後の夏を終えた「悲劇の世代」となった
プロ野球選手の甲子園奮戦記(12)〜今江敏晃(元ロッテほか)
高校時代、今江敏晃は「PLブランド」に誇りを持ちながらプレーしていた。PL学園は桑田真澄、清原和博の「KKコンビ」をはじめ多くのプロ野球選手を輩出し、全国制覇7度を誇る超名門。
PL学園2年夏に甲子園に出場した今江敏晃 photo by Kyodo News
今江がPL学園への入学を決意した中学3年の1998年、同校は松坂大輔(元西武ほか)を擁した横浜高と延長17回の激闘を繰り広げた、そして入学直前となる99年のセンバツではベスト4。いずれも今江の心のなかに鮮明に残っている。
甲子園でのハイレベルな戦いを目の当たりにした今江には、「負けるわけがない」という思いがあった。
「これまで先輩方が築いてくれた歴史によってPL学園があるので、自分たちがやっていることが一番だと思っていました」
とくに今江の世代は、中学時代に世界大会に出場経験のある朝井秀樹(元近鉄ほか)をはじめ、桜井広大(元阪神)、小斉祐輔(元ソフトバンクほか)と、のちにプロ入りする選手が4人もいたほど粒揃いだった。
そんな未来の「最強世代」において、中心的存在だったのが今江。
1年夏の大阪大会からベンチ入りし、秋の新チームからは主軸を担った。2年夏には4番打者として、大阪大会で23打数11安打(打率.478)、1本塁打、9打点と、4番の仕事をまっとうし、甲子園出場を果たす。
しかし、今江にとって初めて出場した2000年夏の甲子園は「いい思い出がない」と語る。
「2年生で4番を任されていたんで、『いい試合をしないといけない』とは思っていたんですけど、全然打てずに......」
札幌南(南北海道)との初戦こそ、2回にレフトへタイムリーを放つなど4打数2安打、2打点と4番の働きを見せた。ところが2回戦の明徳義塾(高知)との"名門対決"では、チームが16安打9得点と爆発するなか、今江は4打数1安打と存在感を示すことはできなかった。
そして今江が甲子園で最も悔いを残した試合こそ、3回戦の智辯和歌山戦である。
「事実上の決勝戦」と謳われた近畿の強豪同士の一戦は、壮絶な打ち合いとなった。1対9と大量リードを許した5回裏からPL学園が猛追。一時は2点差まで詰め寄る白熱したゲームを演じたが、結果的に7対11で敗れた。両チーム合わせて31安打の乱打戦だったが、今江は5打数無安打と沈黙した。
「あの試合は、かなり苦い思い出ですね。智辯和歌山戦は3回くらいチャンスがあったのに打てなくて......。そこで1回か2回でも僕が打てていれば、勝てていたと思うんですよね」
【新チームでは主将に任命されるも...】不完全燃焼の夏が終わり、今江はキャプテンとなった。新チームには、今江とともに甲子園メンバーだった朝井、桜井がいたためチーム力の高さは健在だったが、慢心があったと今江は語る。
「すごいメンバーが揃っていたから、自分らの代も甲子園に行けるやろうって」
秋は大阪大会準決勝で中村剛也(西武)や岩田稔(元阪神)、西岡剛(元ロッテほか)が主力を務める大阪桐蔭に敗れ、3位決定戦でも敗戦を喫し、センバツ出場が絶たれた。さらに春の大会でも大阪桐蔭に連敗。
そして夏の大会を目前に控えた6月、部内の暴力事件が明るみになったことで半年間の対外試合禁止処分を受けることとなり、今江たちは戦わずして高校野球を終えた。
「先輩たちが築いてくれたPL学園の名を汚してしまったこと、後輩たちにセンバツ出場のチャンスを消してしまったことが本当に申し訳なく思いました。自分らの代は、メンバーはすごかったけど、チームワークがなかったというか......。キャプテンとしてチームをまとめられなかった責任は感じています」
最強世代となりうるポテンシャルを秘めた今江たちは、「悲劇の世代」として名を残すことになった。
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今江敏晃(いまえ・としあき)/1983年8月26日、京都府出身。PL学園から2001年のドラフトでロッテから3巡目で指名され入団。05年、10年の日本シリーズでMVPに輝くなど、2度の日本一に貢献。06年には第1回WBCの日本代表メンバーに選ばれ世界一に貢献。16年から楽天でプレーし、19年に現役を引退。引退後は楽天の育成コーチ、打撃コーチなどを歴任し、24年から一軍監督に就任し、交流戦で優勝を果たした