プロ野球選手の甲子園奮戦記(3)〜杉内俊哉(元巨人ほか)

 リベンジ──杉内俊哉の甲子園への道をたどるうえで、欠かせないキーワードである。

 鹿児島実の2年生エースとして初めて甲子園のマウンドに立った1997年夏は、たった1球が命運を分けた結果となった。

 浜松工との初戦。6回まで2安打、無失点と完璧に近いピッチングをしていながら、2対0で迎えた7回、1アウトから「ストライクだ」と自信を持って投じた1球がボールと判定されたことでリズムを崩し、その回に4失点と炎上してしまったことを悔やんだ。

「あの試合はもう、メンタルの弱さしかありませんでしたね。自分のせいで負けたと思っていますし、情けなかったです」


1998年夏の甲子園で史上21人目のノーヒット・ノーランを達成した鹿児島実業の杉内俊哉 photo by Sankei Visual

【ライバル・木佐貫洋との激闘】

 ストレートの最速は130キロ台後半を計測し、なにより、しなやかに振った左腕から繰り出されるドロップのような落差のあるカーブは、監督の久保克之も絶賛するほどのウイニングショットだった。

 その杉内が、高校時代に「最大のライバル」と強烈に意識していたのが同じ鹿児島の川内高校・木佐貫洋である。秋と春、この140キロ台後半のストレートを武器としたプロ注目の右腕と投げ合った杉内は、いずれも敗れていた。

 監督の久保から「史上最弱世代」と尻を叩かれながら迎えた3年夏。決勝戦で宿敵に投げ勝ち「3度目の正直」で甲子園を決めた。この試合、「木佐貫に勝って優勝できたことが本当にうれしかった」と杉内は言った。

 大きなリベンジを果たし、2度目の甲子園となった1998年夏。杉内のマウンドでの身上は、高校入学当時から一貫していた。

「まずは完全試合を狙う。ランナーを出したらノーヒット・ノーラン。ヒットを打たれた完封。点を取られたら完投」

 八戸工大一との初戦でそれを体現する。初回を3者連続三振で勢いに乗ると、圧巻の奪三振ショー。終わってみれば、八戸工大一打線から16個の三振を奪った。それどころか、6回に与えたフォアボール以外はひとりのランナーも許さない"準完全試合"となる史上21人目のノーヒット・ノーランを達成。前年夏の借りを返した。

 じつはもうひとつ、特別なご褒美もあった。

「記録を達成できたことはうれしいんですけど、この試合の日って母親の誕生日でもあったんですね。少しは恩返しができてよかったです」

【優勝候補・横浜と中盤まで互角】

 この杉内の快投は、次の対戦相手である優勝候補筆頭の横浜にも強烈な警戒心を与えた。ある主力選手は「あのカーブは打てない」と脱帽していたほどだった。

 杉内と投げ合うのは横浜の絶対的エース・松坂大輔。戦前から「左右のナンバーワン対決」と注目を浴びていた試合で、杉内はこのように覚悟を決めていたという。

「僕がなんとか0点で抑えて、味方が1点だけでも取ってくれれば勝つ可能性が出てくるかな? という気持ちでしたね。だから、初回から飛ばしましたよ。あんなに飛ばしたことがないって言うくらい飛ばしましたね」

 0対0で迎えた6回。先頭バッターにフォアボールを許し、送りバントと盗塁で1アウト三塁とピンチを広げ、後藤武敏に先取点となる犠牲フライを打たれた時点で限界だった。

 そして8回、横浜に3点を追加され、最後は松坂にとどめの2ランホームランを浴び万事休す。

「もうカーブは高く浮いていたし、ボールの抑えが利きませんでしたね。完全に疲労です。暑かったし」

 ライバル対決を制して出場した大舞台で快挙を達成し、横綱相手に真っ向勝負を挑んだ。杉内の甲子園は、じつに濃密だった。


杉内俊哉(すぎうち・としや)/1980年10月30日、福岡県生まれ。鹿児島実業から三菱重工長崎を経て、2002年ドラフト3巡目でダイエー(現・ソフトバンク)に入団。03年に日本シリーズMVPに輝き、05年にはパ・リーグMVPと沢村賞を受賞した。11年オフにFAで巨人へ移籍し、12年に奪三振王に輝く。15年7月に右股関節痛を発症し、その後、一軍登板のないまま18年限りで現役を引退した。00年シドニー五輪、08年北京五輪、WBCで3度(06年、09年、13年)日本代表となる。19年から巨人のコーチに就任し、後進の指導にあたっている