東海大黄金世代は今 第2回・館澤亨次(東海大学→DeNA)前編

東海大黄金世代――。2016年、この年の新入生には都大路1区の上位選手、關颯人、羽生拓矢、館澤亨次ら、全国区の選手が多く集まり、東海大は黄金期を迎えた。そして2019年、彼らが3年生になると悲願の箱根駅伝総合優勝を飾った。そんな黄金世代の大学時代の活躍、そして実業団に入ってからの競技生活を紐解いていく。第2回目は館澤亨次(DeNA)。


第96回箱根駅伝6区で区間新を出した館澤亨次 photo by MATSUO.K/AFLO SPORT

「高校3年の春かな、あとで黄金世代と呼ばれるみんなが東海大に入るというのを聞いた時は、ビビりました。その時点では、東海大に行くことを決めていなかったのですが、行ったら僕は駅伝とかに出られないんじゃないかっていう不安があったのです」

 館澤亨次は、東海大か、他大学か、迷っていたが7月に決断を下した。

「理由は、東海大がまだ箱根駅伝で総合優勝したことがないと聞いたので、最初の優勝メンバーになりたいと思ったからです。そうしたら大学に自分の名前が残ると思いました。あとはやっぱり同期となるメンバーですね。この人たちを敵に回したら箱根で優勝するのは難しいと思ったので、優勝できる可能性を考えたら東海大だなと思ったんです」

 1年の同期のなかでも館澤は早々に頭角を表した。さっそく出雲駅伝2区に起用され、区間2位の結果を残し、つづく全日本大学駅伝では3区区間賞を取った。

「練習とかでアピールがどのくらいできたのかわからないですし、僕と同じぐらいのレベルの選手がたくさんいたと思うんです。そのなかで、両角(速)監督が僕の可能性に期待して駅伝に出してくれたのが、すごく大きかったですね。出雲でつかんだチャンスを活かせたことが次の全日本に繋がったんだと思います」

 2つの駅伝で結果を出した館澤は、箱根駅伝に臨むことになるが、区間配置されたのは5区だった。入学した時から「5区を走りたい」を思い、5区の候補選手となり、夏合宿も山上り用に変えてもらった練習メニューを消化していった。

「その頃、5区を争う人は数名いて、一番のライバルは3年生の春日(千速)さんでした。僕が春日さんよりも走れるかどうかがポイントになったんですが、春日さんが故障明けで調子が戻りきっていない時に、練習で僕がアピールできたんです。そもそも春日さんは平地でも走れる力があるので、山を走れる選手がいるなら(春日さんは)他区間で走ってもらおうということになって5区に決まりました。実際、5区を走りましたけど地獄でしたね。体が全然動かない。もう2度と走りたくないと思いました(苦笑)」

 館澤にとっては、つらい箱根駅伝デビューになったが、結果的に4年連続で箱根を走り、出雲、全日本も3年までは皆勤賞だった。ちなみに箱根は1年時5区13位、2年時8区2位、3年時4区2位、4年時6区区間新だった。

【箱根の区間新はまさか】

 館澤が競技者として、監督やチームメイトから信頼を得て、多くの駅伝に出走できたのは、個人種目が1500mで箱根の20キロと大きな差があるなか、それでも文句ひとつ言うことなく、練習に取り組み、結果を出してきたからだ。実際、2、3年時の関東インカレ、日本選手権の1500mで2連覇を達成し、学生ながら中距離界のエースになった。ただ、1500mから20キロへの移行は、相当に苦しく、夏合宿の終わり頃は「ほんとキツいっす」と苦悶の表情を浮かべていた。

「両角監督は箱根1本ではなく、トラックも、箱根もという考えでした。それがチーム全体に浸透していたので、僕はすごくありがたい環境だと思っていました。これが箱根駅伝重視のチームで、1500mか箱根か、どちらかひとつに絞ることを求められたら、1500mは諦めざるをえなかったと思うんです。でも、1500mも箱根も追えるので、どちらも全力で取り組めました。ただ、1500mから20キロへの移行期は、本当に大変でした。8月に入ったら箱根モードにシフトしていくんですが、夏合宿での有酸素系のトレーニングがキツすぎて、ほんと大変でした。逆に、箱根が終わったあと、インドアの大会で1500mに出場したのですが、ぜんぜん体が動かないんですよね。スピードについていけないので落ち込むこともありましたが、トータルでみれば1500mから箱根は、やってよかったと思える挑戦だったと思います」

 箱根で館澤が日本中を沸かせたのは、3年時の優勝よりも4年時の6区だった。キャプテンとして鬼気迫る走りで坂を下り、歯を食いしばりながら激走して襷を繋ぎ、その場に倒れ伏した。全力を出しきっての区間新に、多くのファンが喝采を送った。館澤はどの学年での箱根が印象に残っているのだろうか。

「個人の印象で言うと6区ですが、全体的な意味で考えると3年の箱根ですね。この時の箱根は、1、2年時と比べてまったく違う出来で、いけるなって自信を持って走ることができたんです。それって、4年間でこの時だけだったんですよ。相澤(晃・東洋大)選手が飛び抜けていたけど、僕もしっかりと100%出しきって、しかも総合優勝できた。4年の6区を走った際はケガの影響もあったので、区間新を出せたのはまさかという感じだったんです。この時、チームの目標である総合優勝には届かず、キャプテンとしてチームを優勝させることができなかったので、悔しさしか残っていないです」

 悔しさが大きかったのは、優勝の味を知っていたからでもある。箱根駅伝の特殊性や重みは、優勝してこそより実感できるものだった。

「箱根駅伝はやはり特別ですね。陸上って、日頃は野球やサッカーに比べると注目される機会が限られるけど、箱根駅伝の時は陸上選手がガツンと注目されるので、それは僕ら陸上選手にとってすごくありがたいことでした。しかも優勝すると、世間の皆さんからの注目もより一層大きくなりました。それは大学時代も感じましたが、卒業して、市民ランナーの方々にランニングを教える機会が増えるようになって、より実感しました」

 館澤は1500mを軸に競技をしているが、オフシーズンには市民ランナーやこれからマラソンに挑戦したい人にトレーニング方法を教えたり、一緒に走って楽しさを伝える活動をしている。

「イベントや練習会で、僕の肩書として『日本選手権1500m優勝ランナー』はちょっと弱いというか、みんな、知らないんです(苦笑)。でも、箱根駅伝優勝メンバーで、区間新を持っていますというと、僕の言葉に説得力が増しますし、みんな関心を持って聞いてくれます。4年間、箱根を頑張ってきた、実績を残してきたということでみんな、リスペクトしてくれるし、認めてくれる。がんばって箱根を走ってよかったなと思いましたし、この"箱根王者"という肩書を誇りにしたいと思っています」

【黄金世代と呼ばれるだけの結果は......】

 箱根王者は、まさに優勝したからこそ得られる称号だが、館澤が4年間で手にした駅伝のタイトルはわずかに3つだ。2年時の出雲駅伝、3年時の箱根駅伝、4年時の全日本大学駅伝だ。東海大への入学要素のひとつにあった黄金世代と称されるメンバーが揃ったにもかかわらず、なかなか勝てなかった。

「1、2年の時、主要区間を走っていた選手がケガをして3、4年になって走れなかったということがありました。僕はそれを含めて駅伝だと思っています。もし僕ら黄金世代と言われていた選手全員がケガなく走っていたら優勝できたのかというと、それもわからないのが駅伝だと思います。黄金世代と言われたメンバーがいても、毎回の駅伝にベストメンバーで望めたわけではなかったのは間違いないです」

 館澤たちは自分の世代に期待していた。実際、1年の出雲は6区間中3区間、全日本は7区間中4区間を黄金世代が占め、勢いを感じさせた。

「1、2年の時は、先輩たちを押しのけて、自分たちの代だけで駅伝を走ると言っていたこともありました。ハングリー精神が強かったですし、自分たちがチームを牽引したいという気持ちが強くありました。でも、3、4年になっていくと、調子を崩したり、ケガをしたりする選手が増えて......。そうして苦しみながら努力している選手に『ちゃんとやれよ』って言葉がけをするのは違うなって思っていたので、信じて待つしかなかったです。僕が思うに一番悔しい思いをしたのは、關(颯人)でしょう。1、2年の時はずっと目標にしていたライバルであり、エースだったので、最後は戻ってくるのを期待したけどケガで走れなかった。阪口(竜平)も最後の箱根を走れなかった。關と同じく期待された選手だったので、もうひと踏ん張りして走って欲しかったなと思いました」

 だが、急激に成長することでチームに貢献した同世代もいた。

「3、4年になった時、主力だった選手が駅伝で走れないなか、西川(雄一朗・住友電工)や小松(陽平・現役引退)、郡司(陽大・現役引退)らが一気に伸びてきたのは、すごくチームにプラスになりました。彼らが成長してくれたおかげで、強い東海をさらに加速できた。彼らがいなかったら優勝できなかったと思います」

 卒業後、4年が経過し、館澤を含め同期は5年目のシーズンを迎えている。時間が経過して、当時の自分たちの成績を冷静に見ると、館澤は「黄金世代」と言われることに対して複雑な感情が膨らんでいるという。

「みんなに"黄金世代"と言われるのは、僕はすごくうれしかった。高校時代、全国で注目されるほど強い選手じゃなかった僕が注目されるようになったので。でも、年月が経過し、自分たちの世代が、"黄金世代"と呼ばれるほどの結果を残せたのかと言われると、まだまだだったと感じます。あれだけの選手が集まり、注目されたなら3大駅伝3冠を達成し、2年連続3冠に挑戦した駒澤大のようになっていないといけなかった。注目されているわりには、結果が物足りなかったと思います」