東海大黄金世代は今 第1回・關颯人(東海大学→SGホールディングス)後編

東海大黄金世代――。2016年、この年の新入生には都大路1区の上位選手、關颯人、羽生拓矢、舘澤亨次ら、全国区の選手が多く集まり、東海大は黄金世代を迎えた。そして2019年、彼らが3年生になると悲願の箱根駅伝総合優勝を飾った。そんな黄金世代の大学時代の活躍、そして実業団に入ってからの競技生活を紐解いていく。第1回目は關颯人(SGホールディングス)。


2024年ニューイヤー駅伝を走る關颯人 Photo by Yohei Osada/AFLO SPORT

 東海大4年時の箱根駅伝、關颯人は半月板の故障でエントリーから外れた。

 病院で診察を受けると、想像以上によくないことが分かり、手術か、保存療法の選択を迫られた。
 
「保存による自然治癒だと、治すのにはかなり時間がかかる。手術すると、これも復帰するのに時間がかかるし、感覚に違和感が出てしまうこともある。診察してもらった先生からも『膝はできればメスを入れない方がいい』と言われて、自然治癒にしたんです。結果的に治るまで半年ぐらいかかりました」

 2020年4月、SGホールディングス陸上部に入社後、5月ぐらいからゆっくりと走り始め、11月、1年2カ月ぶりのレースとなった日体大記録会の5000mで13分56秒87をマーク。70%ぐらいまで戻ってきた感覚があった。

 翌2021年のニューイヤー駅伝では1区に出走し、結果(32位)は今ひとつだったが、「とりあえず走れるようになった」と、今後に手応えを感じた。
 
 だが、そこから足を故障し、關が再び記録会に姿を見せたのは10月の日体大記録会5000m(14分25秒31)だった。ニューイヤー駅伝以来のレースになったが、そこから11月(14分05秒18)、12月(13分53秒74)と3カ月連続でレースに出て、調子を上げていった。しかし、目標のニューイヤー駅伝には出走できなかった。
 
 關が次にレースに姿を見せたのは、2022年7月のホクレン・ディスタンスチャレンジ千歳大会だった。5000mに出場し、タイム(14分49秒31)はまだまだだったが「ここから少しずつ上がっていければ」と語っていた。
 
 だが、それ以降、關はまた表舞台から姿を消した。

「実業団2年目、3年目は、ずっとケガをしていました。大学時代にケガした半月板は、100%完治はしないと言われたのですが、痛みが出ることはなかったです。でも、この2年間は、記憶がないぐらいいろんなケガで苦しみました。やっぱり競技がうまく回らないと、生活のリズムもうまく回らないんですよ。走れないとテンションが下がって、他のことをやる気がなくなってしまって......。そういう意味では、僕の人生は走ることを中心に回っているんだなというのを改めて感じました」

 チームメイトが結果を出していくなか、關はケガと復帰を繰り返していた。そんな悪循環に長くハマっていると、鬱に近い状態になった。動きたくなくなり、シャワーを浴びることさえ面倒になって部屋に閉じこもる時間が増えた。それでも關が精神的に踏ん張れたのは、人とのコミュニケーションを遮断しなかったからだ。外出は億劫になっていたが、「人に会っていたい」と思い、人と話をすることで深刻にならずに済んだ。その苦しい「空白の2年間」、陸上をやめようと思ったことはなかったのだろうか。

「たぶん、僕は走ること、そんなに好きじゃないんですよ。でも、自分からやめることは考えなかったです。会社をクビになるんだったら仕方ないですが......。今もそうなんですけど、その時もしっかりと練習できたら絶対に走れると自分を信じることができていた。そう思えているのに、ここでやめたら後悔すると思ったんです」

 振り返れば佐久長聖高時代、そして東海大に入学して2年目までは、走って練習を積むことで土台作りがうまく進み、個人種目や駅伝で結果を出すことができた。練習という裏付けがあって、關は自分の走りに自信を持ち、それをレースにぶつけて結果を出していったのだ。だが、ケガが關の勝利の方程式を奪い、復帰を急ぎ過ぎたため、ケガを繰り返して負のスパイラルに陥った。そこから抜け出すことができれば、まだ走れる。高校時代から世代でトップクラスを走って来たプライドもあった。

 大学の同期の羽生拓矢(トヨタ紡織)ら、社会人になって結果を出している仲間からも刺激を受けた。チームでは結果が出ないなかでも自分がやりたい環境を整えてもらい、スタッフや大学時代の先輩の川端に話を聞いてもらった。
 
「いろんな人に支えられている自分が、簡単にやめるわけにはいかなかった」

 關が長いブランクから復帰を果たしたのが、昨年11月の日体大記録会だった。
 
 10000mに出走し、29分12秒44をマークした。「出来すぎのレース」と關は言ったが、その結果を裏付ける練習がしっかりと積めていたのだ。昨秋、チームは実業団駅伝に向けて強化合宿をしているなか、關は滋賀にある練習場を拠点にしていた。寮からそこまで8キロを走って行き、練習後、また走って帰った。週に1、2回は希望が丘文化公園内の芝生を走って足作りをした。
 
「それがよかったのかなと思います。僕はケガが多いので、練習に耐えられる体を走って作っていくことが必要だと改めて感じました」

 今年1月のニューイヤー駅伝には、3年ぶりの出走を果たした。7区21位と結果は今ひとつだったが、出走したことで「ニューイヤーはもっとしっかり走らないといけない」と来年度へのモチベーションを得ることができた。

 沿道からの声援も關にとって、大きな励みになった。

「正直、沿道で応援してくれている人は、僕のことなんか忘れているんじゃないかなと思っていました。大学時代にくらべて注目度も低いし、周囲から期待されることもあまりなかったので。でも、久しぶりに駅伝を走った時、応援してくださる方がまだいるんだなというのを感じました。うれしかったですし、頑張って、また自分が走る姿を見てほしいなと気持ちが強くなりました」

 苦しんだ時間が長かったが、卒業してからの今までは關にとって、どういう時間だったのだろうか。

「本当にケガが多くて走れなかったので、あまり中身がなかったです。それでも時間が経過するのが早くて、あっという間でした。年齢的には、一番走れる時期でしたし、そこで勝負できなかったのは本当に悔しいというか、もったいないというか、歯がゆい感じです。でも、まだ終わりじゃない。これからもっと頑張っていきたい。刺激をもらった仲間がいるので」

 刺激をもらったという仲間は、羽生だった。

「天才」と言われたが、大学時代は、1年時、全日本大学駅伝を駆けただけ。それ以降は箱根駅伝を含めて駅伝に絡むことはなく、卒業まで長い沈黙の時間がつづいた。だが、卒業後は、すでに引退した同期もいるなか、羽生は結果を出し、輝き続けている。
 
「僕たちの代(黄金世代)は、卒業後も競技を続けた選手が多かった。実業団に行くと本当の意味で競技に向き合って結果を残していかないといけない、厳しい環境にあるので、そういう意味では少しずつふるいに掛けられてきたのかなぁと思います。そのなかで大学時代、一緒に苦しんでいた羽生がすごく走れるようになったのは、僕にとって大きな刺激になりました。何回か会って食事したりしたんですが、改めて自分も練習を積めば、まだまだやれるので、頑張っていかないといけない。今シーズン、同期はもちろん、大学時代に競った仲間が走っている舞台に戻って、自分も戦っていきたいと思います」

 実業団は結果を残し、今後も戦力に足るという評価がなければ退社を余儀なくされる厳しい世界でもある。5年目のシーズン、ニューイヤー駅伝からのいい流れをうまくつなぐことができるか。

 關にとっては勝負の1年になる。
 
■Profile
關颯人(せきはやと)
1997年4月11日生まれ。佐久長聖高校では3年時に第66回全国高校駅伝の1区で区間賞を獲得。東海大学進学後、1年時からU20世界選手権10000mに出場するなど活躍し、3大駅伝デビューとなった出雲駅伝では3区区間賞を獲得した。2年時には1500mで大学記録を打ち立て、5000m、10000mでも自己ベストを更新するなど、好走を続け、出雲駅伝では6区区間賞を獲得し、10年ぶりの優勝に貢献した。3、4年時にはケガに悩まされ、欠場する大会が増えてしまったが、大学卒業後SGホールディングス陸上競技部に所属し、今年3年ぶりのニューイヤー駅伝を疾走した。