第二次世界大戦後の米国では「マッカーシズム」と呼ばれる共産主義者への弾圧が行われていた。上院議員ジョセフ・マッカーシーが「国務省には大量の共産主義者がいる。私はそのリストをもっている」と発言したことが発端だ。佐藤優監修『米ロ対立100年史』の一部を紹介しよう――。

※本稿は、佐藤優監修『米ロ対立100年史』(宝島社)の一部を再編集したものです。

■地図にない町でつくられたソ連の原爆

中央アジアで現在のカザフスタン北東部にある小都市のクルチャトフは、ソ連時代にはセミパラチンスクと呼ばれ、地図にない町だった。秘密の原爆開発施設が築かれたので、都市の存在ごと隠されていたのだ。1949年8月、同地でソ連は初の原爆実験に成功した。かくして、ソ連はアメリカに拮抗する核大国となる。

アメリカ側は、戦後の早い段階で、ソ連の諜報機関が原爆に関する機密を盗んでいたことに気付いていた。1945年9月、カナダの首都オタワにあるソ連大使館の職員イーゴリ・グーゼンコが、カナダ当局に驚きの情報を暴露する。ソ連はすでに戦時中から幅広いスパイ網を築き、カナダのモントリオールで原子力の研究に従事していたイギリスの物理学者アラン・ナン・メイらが、ソ連に原爆の情報を流していたというのだ。アメリカの軍上層部は、ソ連の原爆保有はもはや時間の問題と考えていた。

ソ連は、こうして秘密裏に行なわれたスパイ活動と原爆開発に並行して、アメリカのトルーマン=ドクトリンに対抗したさまざまな動きを進める。1947年9月、共産主義勢力の国際協力を図るため、コミンフォルム(共産党情報局)が結成された。ソ連と東欧各国の共産主義政党のみならず、フランス共産党、イタリア共産党も参加している。ただし、ユーゴスラヴィア共産党の指導者ティトーが指示に従わずに独自路線を採ろうとすると、スターリンは「ティトーは民族主義者の分派だ」と激怒し、1948年6月にコミンフォルムから追放した。

写真=iStock.com/HUNG CHIN LIU
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/HUNG CHIN LIU

■西側諸国でも共産主義者は急速に勢力を伸ばしていた

さらに、マーシャル=プランの下でアメリカ、イギリス、フランス、イタリアなどの西欧諸国が経済的な結束を高めるのに対して、1949年1月にはソ連を中心とした経済相互援助会議(COMECON、コメコン)が結成された。ユーゴスラヴィアを除く東欧の共産主義諸国が参加し、後年にはモンゴル、キューバ、ベトナムも加盟する。なお、西欧諸国は、1958年1月にCOMECONと対をなすヨーロッパ経済共同体(EEC)を結成し、これがのちの欧州連合(EU)に発展していく。

アメリカと西欧諸国は、1949年4月に軍事同盟の北大西洋条約機構(NATO)を結成したが、ソ連は東欧諸国と個別に同盟条約を結んでいた。だが、1955年5月に西ドイツのNATO加盟と再軍備が認められると、これに対抗する形で同月にソ連と東ドイツを含む東欧の8カ国は、軍事同盟のワルシャワ条約機構を結成する。

一方、自由主義陣営の西側諸国でも、ソ連を支持する共産主義者が急速に勢力を伸ばしていた。西ドイツやフランスなど、旧枢軸国とその占領地域だった国では、戦時下でファシズムに抵抗した共産党が復権し、イギリスほかの旧連合国でも大戦による国力の衰えから国民の生活は苦しく、政府への非難や労働運動が激化した。

■日本でも多くの高学歴層の学生が共産党に入党

これは敗戦によって旧来の権威が解体された日本も同じだった。終戦直後には、戦時中に逮捕・拘束されていた共産党員が釈放されて政治活動が自由度を増し、選挙では日本共産党が議席を伸ばした。当時は多くの高学歴層の学生が共産党に入党している。後年の読売新聞オーナーの渡邉恒雄、西武グループ代表の堤清二、日本テレビ社長の氏家齊一郎、小説家の小松左京などもそうだ。

1947年の中頃から、占領軍はトルーマン=ドクトリンを反映して共産主義への締め付けを強めるが、労働争議の激化は収まらなかった。とくに、映画会社の東宝では経営陣と組合の衝突が繰り返され、1948年8月には、撮影所に立て籠もった組合労働者を排除するため、1800人もの武装警官に加え、占領軍の兵士50人および4台の戦車、航空機まで動員され、「来なかったのは軍艦だけ」といわれた。

終戦直後にソ連は、満州、南樺太(からふと)、千島列島にいた数十万人もの日本の軍人と民間人を捕らえてシベリアや中央アジアで強制労働に従事させていた。不十分な食料や劣悪な生活環境のため少なくとも6万人が死亡したと推定される。ソ連は1946年から段階的に日本人捕虜を帰国させたが、それらの人々は、抑留されていた間に徹底して共産主義を教育され、帰国後は共産党に入党したり、ソ連の宣伝に従事した者も少なくなかった。ソ連は武力ばかりでなく、ありとあらゆる手段を共産主義の拡大に利用したのだ。

■米国で吹き荒れた「赤狩り」の旋風

「国務省には大量の共産主義者がいる。私はそのリストをもっている」

1950年2月、アメリカの上院議員ジョセフ・マッカーシーは、ウェストバージニア州での共和党の集会でこう発言し、瞬く間に全米の注目を集めた。この爆弾発言に前後して、アメリカの政界、官界と文化人の間では、マッカーシー議員の名から「マッカーシズム」と呼ばれる共産主義者への弾圧(赤狩り)の旋風が吹き荒れる。

ジョセフ・マッカーシー(写真=United Press/PD US no notice/Wikimedia Commons)

アメリカの下院では戦前、反体制的な人物を取り締まる「非米活動委員会」が設置されており、共産主義者と疑われた人物はこの委員会で厳しく追及された。マッカーシー議員の登場に先立ち、1947年から映画界では多くの人物が非米活動委員の追及を受けている。『栄光への脱出』『ジョニーは戦場へ行った』などの作品で知られる脚本家ダルトン・トランボをはじめ、「ハリウッド・テン」と呼ばれる10人の映画監督と脚本家は、非米活動委員会での証言を拒否したため議会侮辱罪で投獄され、1960年代まで映画界での活動を制限された。1953年の映画『ローマの休日』はトランボの原作によるものだが、公開時にはその事実は伏せられていた。

■チャールズ・チャップリンは活動の場をヨーロッパに移した

ウォルト・ディズニー・スタジオの創設者ウォルト・ディズニー、後年にアメリカ大統領となった俳優のロナルド・レーガンなど、ハリウッドにおける赤狩りに協力した著名人は多い。一方では、俳優のグレゴリー・ペック、ヘンリー・フォンダなど、政府による映画界への介入に反発し、ハリウッド・テンを擁護した者も少なくなかった。喜劇界のスターだったチャールズ・チャップリンは、非米活動委員会の活動を批判したために非難を浴び、1952年にロンドンへ渡航して以降、活動の場をヨーロッパに移している。

写真=iStock.com/nicoletaionescu
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映画界に限らず、官庁、大学、出版社などでも次々と共産主義者が摘発された。すでに官界では、元共産党員のジャーナリストであるウィッテカー・チェンバーズによって、ローズヴェルト大統領の側近を務めた弁護士アルジャー・ヒスなどの政府関係者が、ソ連のスパイを務めていたことが暴露されていた。加えて、1949年9月に公表されたソ連の原爆保有、また1950年6月に起こった朝鮮戦争によって共産主義への警戒心はますます高まる。同年9月には、共産主義団体の政府への登録義務や、共産主義者の海外渡航禁止、入国拒否などを定めた国内治安維持法(マッカラン法)が成立した。

■平和主義者、穏健なリベラル派、同性愛者も弾圧の対象に

マッカーシズムの下で弾圧の対象となったのは、明確な共産主義者だけではない。過去に反戦を唱えたことがある平和主義者や、穏健なリベラル派も追及された。また、同性愛者や、人種差別に反対する者も「反米的」と見なされている。マッカーシーは民主党から共和党に転じた議員で、一連の赤狩りには、かつての民主党によるニューディール政策に関与したリベラル派の議員や官僚を非難して、選挙戦で共和党を有利にする意図もあった。実際に1952年の大統領選挙では、第二次世界大戦中の連合国最高司令官だったドワイト・D・アイゼンハワーが、共和党から出馬して当選している。

この時期の有名なエピソードが「ローゼンバーグ事件」だ。戦時中、マンハッタン計画に参加していた技師のジュリアス・ローゼンバーグと妻のエセルは、ソ連に原爆の情報を流した容疑で逮捕され、1953年6月に処刑された。この事件は証拠がエセルの弟の自白しかなく、ローゼンバーグ夫妻は一貫して無実を訴えたため、国内外で「冤罪ではないか」と非難された。それから時は流れ、冷戦終結後の1990年代にソ連の暗号通信記録(ヴェノナ文書)が公開された結果、夫妻は本当にスパイだったことが明らかとなる。とはいえ、死刑に値するほどの罪を犯していたかについては見解が分かれている。スパイ容疑での民間人の処刑はアメリカ史上でもきわめて異例で、当時のアメリカがいかに共産主義者を敵視していたかを象徴している。

■マッカーシーは大酒飲み、リストの人数も言動もあやふやだった

原爆開発の中心人物だったオッペンハイマーも、親族に共産党員がいたことと、原爆に続く水素爆弾(水爆)の開発に異議を唱えたことから公職を追放された。ソ連と戦う諜報機関も疑われ、CIAの分析官ウィリアム・P・バンディは、ソ連のスパイだったアルジャー・ヒスの弁護活動に寄付したためにマッカーシーの標的となる。もっとも、バンディ自身がソ連のスパイという証拠は何も挙がらず、CIA長官のアレン・W・ダレスがバンディを擁護したので、やむなくマッカーシーは引き下がった。

佐藤優監修『米ロ対立100年史』(宝島社)

当時はアメリカでテレビが普及し始めた時期で、政治家の記者会見や赤狩りの対象となった人物の査問が放送されて多くの人々の耳目を集めた。こうした背景もあり、マッカーシズムは群集心理によって拡大し、公的な機関によるものばかりでなく、マスメディアやキリスト教系の民間団体などを通じて大衆の間にも広まった。

赤狩りを広めたマッカーシーは極度の大酒飲みで、所持している共産主義者のリストの人数も発言のたびに数字が大幅に変わり、言動にあやふやな点が多かった。こうした問題点に加えて、1953年12月にマッカーシーは陸軍内にもソ連のスパイがいると公言したが、十分な証拠がなかった。これは陸軍の猛反発を招き、陸軍元帥だったアイゼンハワーを敵に回すことになる。この頃には朝鮮戦争が休戦し、共産主義の脅威は落ち着いたと見なされ、ほかの政府関係者や議員も一転してマッカーシーを批判した。1954年12月には上院でマッカーシーを非難する決議が可決される。すっかり影響力を失ったマッカーシーは酒に溺れた生活を送り、それから3年後に病死した。

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佐藤 優(さとう・まさる)
作家・元外務省主任分析官
1960年、東京都生まれ。85年同志社大学大学院神学研究科修了。2005年に発表した『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』(新潮社)で第59回毎日出版文化賞特別賞受賞。『自壊する帝国』(新潮社)で新潮ドキュメント賞、大宅壮一ノンフィクション賞受賞。『獄中記』(岩波書店)、『交渉術』(文藝春秋)など著書多数。
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(作家・元外務省主任分析官 佐藤 優)