この店に来れば何か知的なものに触れられる…鳥取の定有堂書店が「本屋の聖地」になったワケ
■大きな書店よりは小さな本屋がいい
定有堂という本屋について、理論的に考えたことは、ありません。本が好き、本屋が好き、本屋が好きな人が好き、これだけだったかと思います。また、「身の丈」という言葉も好んで用いてきましたが、この三つが「本屋の身の丈」の中身だったと思います。
あるときから本屋は小さい方がいいと思うようになりました。そして往来にあり、袖が触れ合うような関係で普通に成り立つ、町の本屋を意識するようになりました。大きな書店よりは小さな本屋がいい、前者は空間本位、後者は人本位という意味で「本屋は人だ」と同義的に使ってきました。
ミニコミ出版、自分の工夫で本を集める、そして集めた本が読者の目に留まり、その工夫が発見されること、そうした本屋の中の本にはじまる小さな「驚き」、それを称して「本屋の青空」とも呼んできました。本にはじまるところのなにかが開ける「驚き」は、語り合ってみたいという絆を生み出します。読書会のはじまりはそんな「本の力」にあったかと思います。
■大学院生と7時間近く話し合った結果
できたこと、できなかったこと、そもそも何をやりたかったのか、この43年の振り返りはまだ自分のなかでうまく形をなしていません。でもそういうことが今この場で求められているのではないかと思います。
定有堂のミニコミ出版物『音信不通』の最新号(第83号)にある大学院生が「定有堂を知らない子どもたち」というタイトルでエッセイを寄稿しています。今年一年の間休学に入りゲストハウスを中心に旅しているときに、繰り返し「定有堂が閉店した」とささやかれるのを耳にし、自分の目で確かめようと読書会に参加したのです。
しかしすでに店舗は閉店しており、ある意味「間に合わなかった」「遅れてきた」青年だったのです。この青年の求めに応じて読書会の翌日2人で7時間近く話し合いました。そして寄稿したエッセイの文末が、「定有堂は初めて、外部に直面している」という心に刺さる結びの言葉でした。
■「外部」と出会わなければならなくなった
「身の丈」「ビオトープ(※)」とか縮小・縮減が定有堂の生息域・テリトリーでした。定有堂の身の丈の世界には「青空」があり、「ここから何かをはじめよう」という呼びかけはじつに簡明な響きだったのですが、青空は生成変化の中へ流動し、つまり本がなくなり「定有堂を知らない子どもたち」に語りかけるにも、もう残されたのは言葉だけになりました。身の丈の話ですから小さな声でしか語られないものです。
※編集部註:ビオトープとは、元々は生物学の用語で「生物群集の生息空間」を示す
定有堂の刊行物『伝えたいこと』には「小さな声を外部のものが解釈すると別のものになる」という(これは定有堂の心情ですが)キャッチコピーをつけています。でもこれからは「外部」と出会い始めていくのかもしれません。
閉店は現実のものであり、唐突に「外部」と出会わなければならないものでした。この外部とどう向き合えばいいのかわからずメディアの取材はすべてお断りしました。小さな声と大きな声の通路が見つからなかったのです。幸いご理解をいただき、静観してあたたかく見守られる中での閉店が実現できました。しかし「外部」はそんな思い悩みとは関係なしにやはり存在しました。
■閉店を知らせる1枚のチラシが全国に拡散
このフォーラム(※)の案内を、実行委員の齋藤明彦元図書館長さんがSNSでしていました。「四月に閉じた定有堂の検証のお知らせ」とテーマを簡潔にまとめておられました。なるほど「検証」かと、指針と方向性に気づかせていただきました。
※編集部註:2023年6月25日に鳥取県立図書館が主催したフォーラム「定有堂書店『読む会』の展開」
「検証」というと事件の現場検証とか、仮説の検証とかものものしい感じがしますが、たぶん「記憶の整理」ということかと解釈しました。齋藤さんはかつて「棚卸し」という言葉をよくお使いになっていました。いらないものは整理し捨て去り、使えるものは整頓し役立てる、という現実主義的な行動原理であったかと思います。
戸惑いの中で外部には閉店の告知を避けていたのですが、店内レジ横に来店客向けに「閉店お知らせのチラシ」を最初に貼ったのとほぼ同時に、詩人の白井明大さんがSNSで簡潔に事実だけ告知されました。
驚いたことにこの一報で全国に情報が拡散しました。「なぜ? どうして?」という問い合わせが殺到するのが予測されたので、もう少し詳細な情報が必要なのではないかと、後追いで齋藤さんがチラシの画像付きで告知してくださいました。
この二つだけで「外部」に十分に情報が伝わりました。定有堂と深くかかわりのあった43年の間の知人が訪れてくれました。
■「後継者はいないのか?」への回答
ところで定有堂の小さな内向きの声は「外部」に伝わりにくいと思っていたのですが、いまだ戸惑いの中にあるわたしよりも「記憶の整理」がなされているという事実におどろきました。これはありがたい振り返りの指針でした。まずはこの外部の「記憶の整理」をたどっていきたいと思います。外部の三つの声です。
その一
まず最初に目に留まったのは、3月15日の「地方・小出版流通センター通信」で川上賢一社長が「後継者はいないのか?」という反復される問いに答えて、コメントしてくださっていました。
「元書店員だった友人は言います。『あれだけメッセージ性の強いお店を作ると、それはもう個性さえも通り越していて、おそらく誰もがあの枠に入ることは不可能というか、そもそも誰かに……と考えることが不毛です。奈良さんに始まり、奈良さんで気持ちよく終わるのが宿命かと思います』と」
最大の贈る言葉だと感謝しています。
■定有堂とは「メッセージ性が強いお店」
定有堂の刊行物に『伝えたいこと』という書物があります。1998年刊行で著者は濱崎洋三先生、県立図書館の二代目の館長さんでもありました。定有堂教室「読む会」の創設者です。この本は川上社長のご厚意で現在も流通の中で生命を保っています。温かいお気持ちに、そして先ほどの言葉を拾い掲載してくださったことに感謝しています。
ここで心に刺さったのは「メッセージ性の強い」という言葉です。気になります。そしてここに定有堂にとって大事な何事かがあると思われました。「検証」という面で、定有堂が何であったか、この「メッセージ性が強い」という一言が入り口なのかなと思われました。
その二
本屋開業を志す人たちが、定有堂を訪れるきっかけになったことの一つに、1994年発売の『物語のある本屋』(アルメディア)があります。定有堂について長岡義幸さんがレポートしてくださっています。反響を呼んだ本です。その長岡さんが4月20日の「web論座」に定有堂閉店に寄せて記事をお書きになっています。
■小さな本屋という空間的な制約を突破する方法
まとめてみますと、「個性」の五つのことがらです。
(1)小さな本屋という空間的な制約を突破しようとした。
(2)その手立てのひとつとして「人文書でおともだち」というキャッチフレーズを掲げながら「ミニコミをつくるような気持ちで本屋をつくってきた」ことにある。
(3)本屋をミニコミに見立て、お客と書店という関係を超える「物語」を一緒につくっていこうと考えた。
(4)物理的に限界のある書店という空間を、ミニコミ的場として解放することで空間的な制約を突破しようとした。
(5)いや、実際に紙のミニコミ誌をお客とともに作り、店頭で配ってきた。「人文書でおともだち」というのは、イメージ戦略的なキャッチコピーではなく、実態としてまったくその通りのものだった。
このとりまとめも「メッセージ性」の中身を紹介するものだと思います。こんなふうに理解してくださっていたことに驚いています。
■地方の町でも書店が文化の拠点になる
その三
これは岩田直樹さんに教えてもらい後追いの「聴き逃し」で聞いたのですが、閉店について荻窪の「本屋Title」のご主人辻山良雄さんが「ラジオ深夜便」で5月21日に紹介してくださっていました。
全国放送で、定有堂を全く知らない人たちを含めて幅広く閉店を告知してくださったので「記憶」という面では大きなとりまとめかと思いました。少し長くなりますが、ご紹介したいと思います。
《陳列方法などだけではなく、人口が少ない地方の町でも、書店がその町の中で、文化の拠点になりうることを証明した店だと思います。例えば、いま全国の多くの書店で行われているような読書会や、店内で発行しているフリーペーパーという活動も、長年続けていらっしゃいました。
「この店に来れば何か知的なものに触れることができる」ということを感じていた人も、近所には多かったのではないでしょうか。
奈良さんは、「本のビオトープ」という言葉をよくインタビューで語ったり、文章に書かれてこられました。ビオトープとは多種多様なものたちが、その中で生息できるような空間のこと。本は一冊一冊すべてその内容は異なりますが、それぞれの本を書く人、それに携わった人の思いを含みながら、書店という空間の中であたらしい芽をはぐくんでいこうという土壌づくりを、わたしはこの言葉から感じました。》
■書店が43年続いたということの意義
辻山さんは「ラジオ深夜便」で、じつは2回にわたって定有堂のことを取り上げてくださいました。4月16日、5月21日の2回です。伝えたかったことをまとめると四つの事柄だったと思います。
(1)人口が少ない地方の町でも、書店がその町の中で、文化の拠点になりうることを証明した。
(2)種をまいた。「この店に来れば何か知的なものに触れることができる」という種です。
(3)読書会の開催、フリーペーパーの発行。
(4)ビオトープの提唱(「本のビオトープ」は冊子『音信不通』の副題です)。書店という空間の中であたらしい芽をはぐくんでいこうという土壌づくり。
自分ではまだ気持ちの整理ができないのですが、1980年に自分で創業し、2023年に役割を終え、無事閉店したという時間の長さを皆さんのコメントの中に感じることができました。「長く続いたということの意義」を考え始めています。
本屋づくりの方法論としては、よく「商店十年説」ということを口にしてきました。どこかで耳にした話だとは思うのですが、もう引用元もわからず、自分の解釈になってしまっています。
■10年を超えて持続するために必要なこと
「初発衝動」の強さというものが小さな本屋では大事です。「やりたいからやる」という「情念」です。本とか人とか、この「情念」に共鳴してくるものがあり、本屋が形成されます。身の丈を超えなければ往来、町角での共鳴が凝縮して「町の本屋」というものが誕生します。この共鳴を育むものが「物語のある本屋」です。本屋には「物語」が必要だと思います。この生成を外部から見ると「個性的本屋」ということになります。
ところでこの「個性」には賞味期限があり、ほぼ十年だろうというのが「商店十年説」です。十年を過ぎると持続するためには「個性」を超えたものになる必要があります。
さきほどの外部の「記憶のとりまとめ」はわかりやすい話だったと思うのですが、自分で「記憶」を整理しようとしはじめると、どうもだんだんわかりにくい話になってしまい、申し訳なく思います。
十年たった個性、そこでどうするかですが、賞味期限のきた「個性」に継ぎ足し継ぎ足しすると、何か別のものになってしまうのではないか、という気がしました。個性の肥大ですね。雑貨、カフェとかはやはり継ぎ足しに思えました。何を自分の初発衝動の達成と考えるか、何を成功と自分でジャッジするか、ですね。
■お客さんの「薪」によって燃え続ける「焚き火」
賞味期限が来ているのですから、変わるしかありません。十年ごとに個性を変えるわけです。でもそれは「本」という「身の丈」の世界の中での出来事だと考えました。本を集め本を並べ、目に留めたお客さんが発見する、この狭い中での変化だと考えました。「カフェで読む本」「遅れて読む本」「暮らしを考える本」「哲学する本」こういう切り口が展開されました。「本」を超えた人との付き合いは必要と考えなかったのです。
本屋を営む「個性」は何度も変わらなければなりません。ただしすべては本屋の中での「物語」です。集めた本を人が発見できるか、発見し尽くされたら集め方を変える。集め方には限界があります。自分の個性が集めるからです。
しかし、集めた本を組み替えさせるような出来事があります。それは人との出会いです。一冊の未知の本を一人の人が、焚き火に継ぎ足すようにもたらす場合があります。町の本屋って「焚き火」なんですね。集めた本が作り出す世界、本屋の青空は焚き火のようなものです。通りすがりの人が何かぬくもりを感じて立ち寄る。集めた本を発見してくれる人がいないと、この火は頼りのないものになります。
本を買ってくれる人は「薪」を一本置いていってくれる人です。昨日あったように今日も焚き火が続きます。ある日珍しい「薪」を一本置いていく人が登場します。焚き火の炎が変わります。43年、そのようにして定有堂という町の本屋の焚き火が消えることなく、それだけでなく輝きに磨きをかける日々が続きました。
■「変わるもの」の中に「変わらないもの」がある
2023年の1月に一つの歌を知りました。ますます、わかりにくい話になって申し訳ありません。
《淡雪(あはゆき)の中に顕(たち)たる三千大千世界またその中に沫雪ぞ降る》
三千大千世界は世間一般の意味です。若い歌人の友人に尋ねたら、「三千世界の烏を殺し、ぬしと朝寝がしてみたい」、の三千世界だと教えてくれました。
良寛の歌です。淡雪と沫雪、字は違いますが、読みは同じです。正しい解釈はわかりません。入れ子構造になった世界の現前というのに心惹かれました。「変わるもの」の中に「変わらないもの」がある。これも入れ子構造です。
本屋の持続のためには自分の個性は取り替えのきくものと思ってきました。持続のためには役割の終えたものは脱ぎ捨てていって、できるだけシンプルにしていく、縮小、縮減する。43年過ぎて淡雪と沫雪の光景を目にしたとき、淡雪が消えて沫雪が残るという個性の果てに気づきました。
■35年続いた「読む会」、そして新たな会も
数年前から「読書」に追い越されるということを口にしてきました。追い越されるものは「本屋」です。淡雪の中で沫雪が存在感を増していったのです。
物語のある本屋というのは読者と本屋の出会いのことです。出会うことによって定有堂では「読む会」をはじめたくさんのサークルが生成しました。最初の「心理学講座」の講師であった鳥取大学の先生は「町の寺子屋」だね、といい、サークル全体を「定有堂教室」と名付けました。「読む会」が一番長く35年続いています。
最近は「ドゥルーズを読む会」、そして関西で「読書室」という「読書」の可能性を追求している三砂慶明さんに啓発されて、便乗した形で「読書室ビオトープ」という小説を中心に読んでいく会も立ち上げています。はじめて外部の影響を明らかにしたサークルです。先日の会では課題本をレポートする人の話を聞いて「小説って、こんな風に読むんだ」と心身が震える体験をしました。
そして、出版物小冊子『音信不通』があります。月一回の刊行で83回です。約7年です。副題に「本のビオトープ」とつけています。
■「本屋」が消え、「本が好きな人」が残る
本屋の中に入れ子構造的にあったサークル、そしてミニコミ誌というのは一体何だったんだろうと思います。淡雪と沫雪にたとえられるような光景だったのかなと思います。
淡雪は消え、沫雪は残りました。雪ですから、いつかは消えるのかもしれません。しかし「記憶」からは消えません。消えないように今日県立図書館さんが「記憶」の整理整頓を行う機会を与えてくださっているのだと思います。
閉店後もサークルそして『音信不通』は継続しています。何一つ変わりません。『音信不通』の副題もそのまま「本のビオトープ」ですが、もう一つ付け加わりました。それは、「学びあう人々のために」です。
最後に残った「沫雪」また「結晶」が、この「学びあう人々のために」かと思います。「本のビオトープ」と「学びあう人々のために」という言葉に未来へ手渡す「記憶」があるとすれば、それは「読書と思索」ということかと思います。
忘れられない記憶の一つなのですが、定有堂が開店する直前、ある新聞社の方が見出しに「本が好きな人が本屋を始める」と書いてくださいました。この一言は大きな舵取りでした。この一言が地域の人たちとのご縁を開いてくれました。
いま本屋が閉じました。43年前に時計のネジが巻き戻されるような気がします。「本屋」が消え、残ったのは「本が好きな人」です。でも巻き戻されたネジが今度は「読書と思索」という結晶へ向かって解き放たれて行くのに、ある種解放感を感じています。
----------
奈良 敏行(なら・としゆき)
定有堂書店店主
1948年生まれ。1972年早稲田大学第一文学部卒。1980年鳥取にて、定有堂書店を開業。共著書に、『街の本屋はねむらない』(アルメディア)、三砂慶明編『本屋という仕事』(世界思想社)など。
----------
(定有堂書店店主 奈良 敏行)