グローバル経済は一時的なものだったと考える必要があります(写真:Mayucolor/PIXTA)

戦争の時代に足を踏み入れた今、国際経済の未来をどのように考えるべきなのか。

1919年、第一次世界大戦終戦直後に同様の問題に立ち向かった人物が、20世紀最高の経済学者とも称されるジョン・メイナード・ケインズである。

彼の国際経済観を描いた『平和の経済的帰結』(1919)は、二度の大戦の戦後処理と現代まで続く国際経済の枠組みの発端となった書であり、これからの世界秩序を考える、最良のバイブルとも言える。

本記事では、政治経済思想を専門とする評論家・中野剛志氏が、『新訳 平和の経済的帰結』(山形浩生訳・解説)の現代的意義を読み解く。

グローバリゼーションの終わり

ロンドンの住民は、ベッドの中で朝の紅茶をすすりながら、電話1本で世界中の各種産物を、いくらでも欲しいだけ注文できたし、その注文品はほぼ確実に、ほどなく自分の玄関にまで配達された。同時にそれと同じ手段によって、世界のどんな地域にある天然資源や新事業にでも、自分の資産を投資できたし、その将来的な果実や利得の分け前も、何の努力も手間もかけずに手に入った。(pp.11-12)


これは、現代のグローバリゼーションを描写したものではない。ジョン・メイナード・ケインズが1919年に発表した『平和の経済的帰結』の一節である。

ケインズは、1919年1月のパリ講和会議(第一次世界大戦の講和会議)に、弱冠35歳にしてイギリス大蔵省首席代表として参画した。しかし、ケインズは、講和会議の議論の方向性に大いに失望し、平和条約が締結される直前にその地位を辞した。そして、講和会議と平和条約を糾弾すべく、同年12月に、この『平和の経済的帰結』を発表したのである。

上記の引用は、同書の中で、1914年に勃発した第一次世界大戦より前の世界の様子を表現したものである。

あまり知られていないが、グローバリゼーションは過去から未来にかけて直線的に進んでいくのでもなければ、1990年代初頭からグローバリゼーションが始まったのでもない。19世紀後半にはすでにグローバリゼーションが起きていたのであり、それは第一次世界大戦の勃発によって途絶した。この約半世紀の期間は「第一次グローバリゼーション」と呼ばれている。1990年代以降のいわゆる「グローバリゼーション」は、「第二次」なのである。

そして、その「第二次グローバリゼーション」も、すでに終焉した。その終わりの始まりは2008年の世界金融危機(リーマン・ショック)である。それ以降、2010年代を通じて、保護主義の台頭、ポピュリズム、地政学的不安定化などにより、「脱グローバリゼーション」が進んだ。そして、2020年代初頭のウクライナ戦争をはじめとする地政学的危機の連鎖によって、第二次グローバリゼーションの息の根は完全に止められた(その経過については、『世界インフレと戦争』 を参照されたい)。

「歴史は繰り返さないが、韻を踏む」という言葉の通り、現代の政治経済的環境は、ケインズが『平和の経済的帰結』を書いた当時とよく似ているのだ。それだけでも、今、本書を読み返す理由としては十分である。

国際政治経済の問題は1つの娯楽でしかなかった

だが、100年前と似ているのは、政治経済的環境だけではない。その環境の変化に気づかない鈍さや見通しの甘さについても、当時と同じ韻を踏んでいるようだ。ケインズは、『平和の経済的帰結』の中で、次のように書いている。

だが何よりも重要な点として、人々はこの状態が普通で、確実で、永続的か、変わるにしてもさらに改善されるしかありえないと思っており、そこから少しでも逸脱があれば、それは異常なことであり、とんでもない話であり、回避できたはずだと思っていたのだ。
軍国主義や帝国主義、人種や文化の競合、独占、規制、排除の構想と政策は、この楽園における蛇の役割を果たすはずだった。だがそうしたものは、日々の新聞に載る娯楽の種でしかなく、社会経済の通常の方向性にはほとんど影響を与えないように思えた。社会経済の国際化は、実際問題としてはほぼ完成したと思われていたのだ。(pp.12-13)

『平和の経済的帰結』は、ドイツに対する過酷な戦争賠償が同国のハイパーインフレーションや過激な社会主義やナショナリズムの台頭、ひいてはヨーロッパ全体の破滅をもたらすと的確に予言したとして、高く評価されることがある。

そういった視点も重要であるが、筆者が興味を引かれたのは、ケインズが、第一次世界大戦以前の第一次グローバリゼーションの中に、すでに破滅をもたらす構造的な矛盾があったことを指摘していたことである。したがって、第一次グローバリゼーションは世界大戦という偶発的な事件によって終焉したというよりは、遅かれ早かれ、その構造的な矛盾によって、自滅的に終焉していたのである。

むしろ、世界大戦が第一次グローバリゼーションの構造的矛盾の結果だったという可能性すらあろう。しかし、上記の引用にあるように、当時の人びとは、第一次グローバリゼーションの矛盾に気づかず、その兆候が現れても、それを構造的なものではなく、一時的な事象としてしかとらえていなかったのである。

今までの生活は決してあたりまえではない

同じことは、現代でも言える。

例えば、2017年、アメリカにドナルド・トランプ大統領が登場し、保護主義や対中強硬策など、脱グローバリゼーションへと走った。当時、多くの人びとは、脱グローバリゼーションは、トランプという異形の大統領が引き起こした異常事態にすぎないのであり、トランプが去れば、アメリカは、元のグローバリゼーション路線へと回帰するものと期待していた。

要するに、第二次グローバリゼーションがはらんでいた構造的矛盾から目を逸らしていたのである。ケインズの表現を借りれば、彼らは、グローバリゼーションが「普通で、確実で、永続的か、変わるにしてもさらに改善されるしかありえないと思っており、そこから少しでも逸脱があれば、それは異常なことであり、とんでもない話であり、回避できたはずだと思っていた」のだ。しかし、実際には、トランプ政権を襲ったバイデン政権は、前政権の脱グローバリゼーション路線を実質的に引き継いだのである。そして、今年、再び大統領選がある。


第二次グローバリゼーションの30年間というものは、冷戦終結後のアメリカという覇権国家の一極体制という、極めて特異な国際環境の上に成り立っていたものであった。そのアメリカが衰退し、もはや世界秩序を支える覇権国家としての役割を果たせなくなったのであれば、その上部構造の第二次グローバリゼーションもまた終焉する(『富国と強兵――地政経済学序説』 を参照されたい)。

こんなことは、さして難しい話ではないようにも思われる。それにもかかわらず、なぜ、この政治経済学的構造が見逃されてしまったのであろうか。その答えは、『平和の経済的帰結』の冒頭に見事に書いてある。

人類の顕著な特徴として、自分を取り巻く環境をあたりまえのものと思ってしまうということがある。西ヨーロッパが過去半世紀にわたり頼ってきた経済的な仕組みが、きわめて異例で、不安定でややこしく、信頼できない、一時的なものでしかないということを、はっきり認識している人はほとんどいない。(p.2)

(中野 剛志 : 評論家)