今、地球の生態系が危機的な状況に陥っている(写真:yamato/PIXTA)

近年、徐々に関心が高まっている「自然資本」や「生物多様性・生態系」。経済界も「脱炭素」に続くテーマとして注目し始めている。この背景には何があるのか。『科学と資本主義の未来──〈せめぎ合いの時代〉を超えて』の著者で、一貫して「定常型社会=持続可能な福祉社会」を提唱してきた広井良典氏が解説する。今回は、全2回の前編をお届けする。

「自然資本」への関心の高まり

昨今、「自然資本」や「生物多様性、生態系」をめぐるテーマへの関心が高まっている。


しかも、一見これらの話題からは遠い場所にいるように見える企業あるいは経済界もこうしたテーマへの取り組みを強化しつつあるのが近年の特徴であり、たとえば先般ドバイで開催されたCOP28(気候変動枠組条約締約国会議)では、「G7ネイチャーポジティブ経済アライアンス(G7ANPE)」主催のイベントに経団連自然保護協議会が共催する形で参加し、日本の関連企業が報告を行うなどしている。

つまり、これまでは地球規模の環境問題というと圧倒的に「気候変動、温暖化」ひいてはそれへの対応としての“脱炭素(ないしカーボン・ニュートラル)”が主たる関心事だったわけだが、最近では「生物多様性」「生態系」をめぐるテーマがそれと同等の注目を集めるようになっているわけである。

こうした展開について私自身は、昨年(2023年)3月に策定された「生物多様性国家戦略2023−2030」に関し、環境省の中央環境審議会に設けられた生物多様性国家戦略小委員会に委員として参加し、その前身の次期生物多様性国家戦略研究会を含め、およそ3年にわたり上記国家戦略の作成の過程にささやかながら関わる機会をもった。

加えてこれらの話題は、昨年刊行した拙著『科学と資本主義の未来』で示したような、近代科学の展開やその自然観、そして資本主義のあり方と今後の展望といった大きな視座の中で議論されていくべきテーマであり、以下こうした点について幅広い角度から考えてみよう。

昨年3月策定の上記「生物多様性国家戦略」では、前年12月に採択された「昆明・モントリオール生物多様性枠組」でも提示された「ネイチャーポジティブ」というコンセプトが戦略の重要な柱に位置づけられた。「ネイチャーポジティブ」にはさしあたり「自然再興」という訳語があてられているが、要は「自然」あるいは生態系がもつ積極的な価値を新たな視点で再評価していこうという趣旨のものだ。

また、これも3年半ほどにわたって委員として参加する機会があったのだが、国土審議会での議論を踏まえて昨年7月に閣議決定された「第三次国土形成計画」においても、「自然資本」や「グリーン国土」といった言葉ないしコンセプトが重要な理念として掲げられた。国土計画あるいは国土交通というと一般には社会インフラないし「人工資本」、“開発”といったイメージがなお強いが、そうした文脈でも「自然資本」や生態系の保全というテーマが重要な意味をもつようになっているわけである。

露わになった「生物多様性や生態系の危機」

ではこのように「ネイチャーポジティブ」「自然資本」といった概念とともに、生物多様性や生態系をめぐるテーマへの関心が近年特に高まっている背景は何か。

端的に言えば、地球の生態系が危機的な状況に陥っていることが基本にあると言えるだろう。

たとえば、スウェーデンの研究者ヨハン・ロックストロームらが2009年に公表し、現在では広く認知されるに至っている「プラネタリー・バウンダリー」の研究では、地球環境に関わる9つの領域が抽出され各領域の現在の地球の状況が定量的に示されているが、その危機の度合いがもっとも大きく“赤信号”になっているのは「遺伝的多様性」と「(窒素やリンの)生化学的フロー」である。つまり生物多様性や生態系に関する状況が、(気候変動やオゾン層破壊などよりも)深刻なものになっているのである。

この場合、「生物多様性や生態系の危機」といってもなかなか実感がわかないという人も多いと思われるが、実はこのことを私たちにもっとも明瞭な形で突きつけたのは、他でもなく2020年からの新型コロナ・パンデミックだったと言えるだろう。

ここで「生態系の危機」と「新型コロナ」という二者はにわかには結びつかないかもしれないが、新型コロナを含む「人獣共通感染症」(人と動物に共通の感染症)が近時増加していることの背景には、実は森林の減少が要因として働いていることが近年の研究によって示されるようになった。要するに、森林が減少することでウイルスを保有する動物の密度が増加し、さらにそれがいわば森林から溢れ出し人間に感染してパンデミックに至るということだ。

実際、国連の機関である国連環境計画(UNEP)は、2020年に出した文書において、「人獣共通感染症が発生する原動力となるのは、たいていの場合人間活動の結果として生まれる、環境の変化である」と指摘している(“Six Nature Facts related to Coronaviruses”)。さらに同機関は、『次のパンデミックを防ぐ――人獣共通感染症そしていかに伝播の連鎖を断ち切るか』という詳細な報告書を公表し、生物多様性ないし生態系の危機と新型コロナとの関連性や対応のあり方についてさまざまな角度から論じているのである。 

新型コロナはすでに収束した“過去”の出来事のように思われているが、同感染症による死者は世界全体で実に696万人に達した(2023年12月26日時点。最大はアメリカの119万人で、ブラジル、インドが続く)。

人獣共通感染症の増加に関する上記のような認識を踏まえれば、それは“生態系あるいは生物多様性の危機が「人間の健康と生命」にまで影響を及ぼすに至った”ことを意味している。

しかも、新型コロナの背景に森林減少などの生態系の劣化があるとすれば、生態系や生物多様性をめぐる状況が改善されない限り、(あまりそうは考えたくないが)新型コロナのようなパンデミックは今後も繰り返し起こることになる。言い換えれば、「リスク管理」あるいはリスクの未然防止という観点からも、生態系の保全そして「自然資本」の重要性というテーマが浮上しているのである。

「自然資本」というコンセプトはいつ生まれたのか

以上のように生態系や生物多様性への関心の高まりの中で、「自然資本」というテーマがさまざまな形で論じられるに至っているわけだが、ではこうした「自然資本」という考え方はいつ頃から唱えられるようになったのか。

「自然資本」という言葉ないしコンセプトを先駆的に提起した人物として、著書『スモール・イズ・ビューティフル』が日本でも広く知られる、ドイツ出身(やがてイギリスの国籍取得)の経済学者シューマッハー(1911−1977)が挙げられる。

すなわち1973年に刊行された同書の中で、シューマッハーは「自然資本(Natural Capital)」という概念を提起し、それは「人間には造れず、単に発見できるだけの資本、それがないと人間はなにもできない、代替物のない資本のことである」とした。

そして、「実業家ならば、会社が資本をどんどん食いつぶしているのを見れば、生産の問題が解決ずみで、会社は軌道に乗っているなどとは考えまい」(強調引用者)と論じ、現代の私たちが、自然という「資本」が劣化していることに十分な関心を向けず、経済や生産活動は順調に動いていると錯覚していることに警鐘を鳴らしたのである。さらにシューマッハーは次のように述べる。

「なぜこの重大な事実が見逃されたかといえば、われわれが現実から遊離し、自分の手で造りだしたもの以外は、すべて無価値なものとして扱ったからである。偉大なマルクスも、いわゆる「労働価値説」を定式化したとき、この重大な誤りをおかしている」

資本の大部分は自然からもらうのであって、人間が造りだすのではない。ところが、人はそれを資本と認めようとさえしない。そして、この自然という資本が今日驚くべき勢いで使い捨てられている」(前掲書、強調引用者)

経済社会の「価値」の源泉は「自然」

私たちの経済社会の「価値」の源泉は究極的には「自然」にあるという把握であり、ある意味で「自然資本」というコンセプトをめぐる本質的なポイントは、こうしたシューマッハーの議論の中で大方示されていると言ってよいだろう。

シューマッハーに関してもう1点付け加えておきたいのは、彼は以上のような話題を「生命」というテーマにもつなげて考えていた点だ。たとえばシューマッハーの文章の中に次のような印象的な一節がある。

「われわれが所得だから浪費していいと信じこんでいる『自然という資本』の中で、化石燃料はその一部にすぎず、いちばん重要なものでもない。それを使いつくしてしまえば、文明の存続が危うくなる。だが、われわれを取り巻く生きた自然という資本を無駄遣いすると、危機に瀕するのは生命そのものである」(前掲書、強調引用者)

先ほど、森林の減少など生態系の劣化が新型コロナ・パンデミックの背景にあり、それは生態系の危機が人間の健康や生命の危機に至ったことを意味すると述べたが、シューマッハーはこうした点をすでに洞察していたとも言えるだろう(ちなみに以上のようなシューマッハーの考え方はイギリスに拠点を置く「ニューエコノミックス財団」や「シューマッハーカレッジ」において継承され展開している)。

ハーマン・デイリーとエコロジー経済学

シューマッハーと並び、もっとも早い時期から「自然資本」の考え方を明確な形で提起した人物として、定常経済論(steady-state economy)で知られ、また「エコロジー経済学(ecological economics)」の体系化に努めたアメリカの経済学者であるハーマン・デイリー(1938−2022)が挙げられる。

エコロジー経済学と、“主流”の(新古典派的な)経済学とのもっとも大きな相違は次の点にある。すなわち後者が「市場経済」から出発し、さまざまな環境問題をいわゆる「外部性」の問題としてとらえるのに対し、デイリーが唱えるエコロジー経済学は、むしろ最初にあるのは「自然」であり市場経済はその一部分にすぎないととらえるのであり、ここには根本的な世界観ないし自然観の(“真逆”とも言える)違いがあると言える。

読者は、以上のような「自然」と「市場経済」に関する理解が、先ほどのシューマッハーの議論と同型のものであることに気づくだろう。思えば、シューマッハーの『スモール・イズ・ビューティフル』が刊行されたのは先述のように1973年であり、デイリーの最初の編著書である『定常状態の経済学に向けて(Toward a Steady-state Economy)』が刊行されたのも同じ1973年である。

昨今の「自然資本」や生態系保全への関心の高まりを見ると、ある意味で、「自然資本」をめぐる以上のような先駆的議論に、ようやく現実世界の動きが追いついてきているととらえてもよいかもしれない。

さてデイリーは「自然資本への投資のシフト」という興味深いアイデアを提起している。これはどういうことかと言うと、まず彼は基本認識として、「資本を減耗させずに維持するという条件は人工資本にのみ適用されてきた。というのは、過去においては自然資本が希少ではなかったので、それは捨象されたからだ」と述べる。ここまでは先ほどのシューマッハーと同様の認識と言える。

そのうえで、デイリーは次のように議論を進める。すなわち「世界は、人工資本が限定要因であった時代から、残された自然資本が限定要因になる時代へと移行しつつある。漁獲生産を現在制限しているのは残されている魚の個体群であって、漁船の数ではない。木材生産を制限しているのは残されている森林であって、製材所ではない。……われわれは、自然資本が相対的に豊かで、人口資本(と人間)が少ない世界から、後者が相対的に豊かで、前者が少ない世界に移行した」(『持続可能な発展の経済学』、強調原著者)。

つまり「世界における希少性のパターン」が変わったのであり、以前であれば「人工資本の収益を最大にし、人工資本に投資する」ことが経済の論理として求められたが、現在では人工資本は十分あり、逆に自然資本こそが不足してきているのだから、「われわれは今や自然資本の収益を最大にし、自然資本に投資しなければならない」(前掲書、強調引用者)ということになる。

これはある意味非常にわかりやすい内容であり、こうしたデイリーの議論は、あくまで“経済合理性”に依拠しつつ、経済のロジックからしても「自然資本」を重視することが求められること――逆に言えば、自然資本を重視しないような経済は皮肉にも経済そのものの破綻を招くこと――を説いている点で、シューマッハーの議論よりも現実的な説得力を持つと言えるかもしれない。

ハーマン・デイリーのピラミッド

ちなみにデイリーは、地球環境問題の解決のために優れた研究を行った人に与えられる「ブループラネット賞」を2014年に受賞しているが、その受賞インタビューにおいて“ハーマン・デイリーのピラミッド”とも呼ばれる枠組みを提示している。


この枠組みは、昨今関心の高い「ウェルビーイング(ないし幸福)」のテーマを「自然資本」や「持続可能性」と関連づけて示している点が興味深い(ただし、人間の幸福が最終目的で自然資本は究極の手段<meansとなっている点はいささか“人間中心主義的”な印象も残る)。

「自然資本」をめぐる議論の流れに戻ると、以上のようなシューマッハーやデイリーの先駆的議論が、いわば思想的あるいは理論的な次元を中心とするものであったのに対し、(地球環境をめぐる現実的状況が悪化をたどっていく中で、)それは次第により具体的あるいは実証的、政策的な議論や研究へと展開していった。

それらについて詳述する余裕や知見はないが、代表的な例としては、国連の「ミレニアム生態系評価」(2001年−2005年)の報告書Ecosystems and Human Well-being(邦訳:生態系サービスと人類の未来)や、イギリス政府から出されたThe Economics of Biodiversity: the Dasgupta Review(経済学者ダスグプタの名を冠したいわゆるダスグプタ・レビュー)が挙げられるだろう。こうした実証的・政策的な議論の流れが、近年における(ビジネスの領域を含む)「自然資本」への関心の高まりにつながっているのである。

ちなみに私自身も関与している最近の動きとしては、京都大学に2022年に創設された「社会的共通資本と未来」寄附研究部門において、ソニー・コンピュータサイエンス研究所や日立製作所とも連携する形で、ここで論じている「自然資本」に関する新たな視点からの研究を進めている(昨年<2023年>9月に「自然資本と地域・人間・社会をつなぐ―社会的共通資本の新たな展望(京都大学 人と社会の未来研究院 社会的共通資本と未来寄附研究部門)」と題したセミナーを開催している)。

自然資本をめぐるテーマを考えるための視座

「自然資本」というコンセプトがどのような発想のもとで生まれ展開してきたかを概観したが、ではこれらを踏まえたうえで、私たちはこうしたテーマをどのような枠組みないし視座においてとらえたらよいのか。こうした点に関する私自身の考えを述べてみたい。

「市場経済・コミュニティ・自然をめぐる構造」と題した図をご覧いただきたい。これは私たち人間が生きる世界を把握するための基本的な構造を示したもので、ピラミッドの一番下の土台には「自然」――人間にとっては“環境”でもある――がある。そして人間については、もともと人間は“社会性”が高度に発達した生き物であり、個体単独では生きていけず、何らの「コミュニティ(共同体)」を作って生を営んでいるのであり、これがピラミッドの真ん中の層に対応している。


(出所:筆者作成)

しかし特に近代社会以降においては、コミュニティから個人が独立していくとともに自由な経済活動を広げていき、そこに「市場経済」の領域が大きく開けていった。これがピラミッドの一番上の次元であり、以上のように、私たちの生きる世界は「市場経済−コミュニティ−自然(環境)」の3層構造からなるものとして把握することができるだろう。

そして、先ほど言及したように、近代以降の社会においてはピラミッドの最上層の「市場経済」の領域が飛躍的に“拡大・成長”していったのであり、これがすなわち資本主義というシステムに他ならない。つまり資本主義とはイコール「市場経済プラス限りない拡大・成長を志向するシステム」なのである(この話題について詳しくは本稿の冒頭に示した拙著『科学と資本主義の未来』を参照されたい)。

この結果、「市場経済」の領域はその土台にある「コミュニティ」や「自然」からいわば“離陸”していき、しかもそれは(大規模な資源消費を伴いつつ)“限りなく拡大・成長”していったので、「コミュニティ」や「自然」の領域は大きく浸食され損なわれていった。「コミュニティ」の浸食は格差や分断として立ち現れ、「自然」の浸食は生態系の劣化や危機として立ち現れている。もっともシンプルに言えば、これが私たちがいま生きる世界の基本構造である。

したがって、まず純粋に論理として述べるならば、私たちにとっての課題は“着陸”の方向、すなわち市場経済の領域をその土台にある「コミュニティ」や「自然」にうまくつなぎ(あるいは“埋め込み”)、それらと調和するような経済社会システムを作っていくことにあるだろう。

「時間」という要素の重要性

実はこれは「時間」、あるいは時間軸の長短というテーマと深く関わる課題である。

つまり「市場経済」の領域はともかくスピードが速く、あるいはそれは“速度をめぐる競争”であり、株式市場などに象徴されるように、(超)短期の時間軸で物事の価値が評価される。これに対して「コミュニティ」の領域では時間はもっと“ゆっくり”と流れ、また、親から子、孫へという具合に、それは世代間の継承性という要素を含んでおり、そうした意味でも「長期」の時間軸に関わっている。さらに「自然」の領域になると、時間は一層ゆっくりと流れるとともに、生態系の変化、森林の遷移、生命の進化等々という具合に、「超長期」の時間軸が浮かび上がることになる。

慧眼の読者にはすでにお気づきの通り、「自然」あるいは「自然資本」、生態系、生物多様性といったテーマを市場経済(あるいはビジネス)の領域で扱う際の難しさは、まさにこの「時間」のスピードの違いあるいは「時間軸」の長短にあると言えるだろう。

つまり市場経済の領域はまず何より短期の利潤獲得を求めるので、長期的な視点と不可分である生態系の保全といったことには主たる関心が向かわず、またその「価値」についても、たとえば森林のもつ生態学的価値といった、長い時間の中で醸成され培われた価値は十分評価されず、短期的な効用によって評価されてしまうのである。

時間をめぐる「市場の失敗」

あるいは、「未来」という視点で考えると、市場経済は基本的に“近い未来”(の利益)には関心を示すが“遠い未来”のことまでは通常あまり考えない。たとえば数十年度の将来世代がどのような世界を生きるかについて市場経済は無頓着であり、先ほどふれた世代間継承性(世代間のバトンタッチ)が「コミュニティ」の本質的な要素であることと対照的である。さらに“森林が数十年後に枯渇する”といったことや、100年先の地球あるいは自然環境に市場経済は大方無関心である。

私自身はこれまでの拙著の中で、こうした事態を“時間をめぐる「市場の失敗」”と呼んできた(拙著『ポスト資本主義』参照)。つまり経済学において「市場の失敗」という概念があり、それは市場が本来の「効率性」(=資源の最適な配分)を達成できない事態を指し、具体的には公共財の提供などの例が挙げられる。このテーマについて、「情報」という概念をそこに持ち込み、“情報の非対称性”から来る「市場の失敗」が存在することを示してノーベル経済学賞を受賞したのがスティグリッツやアカロフだった。

私がここで述べているのは、現状の経済学においてはここで述べているような「時間」の視点が欠落しており――それは「持続可能性(サステナビリティ)」というテーマともつながる――、しかしそこに“時間をめぐる「市場の失敗」”という発想を取り入れることで、自然資本あるいは生態系の保全等をめぐる課題への展望や対応方策が開けてくるのではないかという問題提起である。

ところで以上のような議論からは、そうした「市場の失敗」への対応として公的部門ないし政府の役割が重要ということになるが、もう一つの新たな発想として、そもそも「市場経済=短期」という前提から抜け出し、あるいは「市場経済」のあり方そのものを根本から見直し、市場経済(あるいは企業行動ないし消費者行動)それ自体の中に「長期」の視点を盛り込んでいくという道がありうるだろう。

これはさほど“浮き世離れ”した話をしているわけではない。というのも、実は日本における伝統的な経済倫理は、経済や経営を「長期」の視点でとらえる発想に親和的だったからである。すぐに思い浮かぶのは、しばしば取り上げられる近江商人の“三方よし”の考え方や、江戸期に活躍した二宮尊徳が唱えた“経済と道徳の一致”の論である(ちなみに二宮尊徳はある意味で誤解されている思想家であり、明治以降“国家に貢献する勤勉な人物”として描かれたが、実際には今風に言えばローカルな舞台で奮戦した「地域再生コンサルタント」と呼ぶべき存在だった)。

また、“日本資本主義の父”とも言われ『論語と算盤』で知られる渋沢栄一は、同書の中で「論語(=道徳ないし倫理)」と「算盤(=ビジネス)」を一致させなければ富は「永続」しないという議論を行っていた。これは現代風に言えば、「持続可能性という目標においては経済と倫理は融合する」という考えであり、やはり経済を「長期」の視点でとらえる発想がベースになっている。

「市場経済」と「コミュニティ」の融合

私はこうした経済のあり方を「コミュニティ経済」と呼んできた(拙著『人口減少社会という希望』『ポスト資本主義』参照)。つまりここでは「市場経済」と「コミュニティ」が融合しているのであり、先ほどの「市場経済・コミュニティ・自然をめぐる構造」の図で見ればピラミッドの最上層と真ん中の層が連続化していて、「(市場)経済」がより長期の時間軸を包含するものになっているのだ。このようなコミュニティ経済を発展させていくことが、「自然資本」や生態系の保全と調和するような経済のあり方につながるのではないか。これは同じく「市場経済・コミュニティ・自然をめぐる構造」の図の箇所で述べた、“市場経済をその土台にある「コミュニティ」や「自然」にうまくつなぎ、それらと調和する経済社会システムを作っていく”という方向とまさに重なっている。

以上、近年大いに関心が高まっている「自然資本」というテーマを考えていく際の基本的視点について述べたが、次回はより具体的なレベルで「自然資本」や生態系保全への対応について考えてみよう。

※「自然資本」や「ネイチャーポジティブ」と経済・企業の関わりについて私自身が接点をもつ展開として、東京や京都に拠点を置く「ロフトワーク」は、「生物多様性と経済」というシリーズ企画を進めており、それには私が報告を行った「多種共存の資本主義社会を予測する」という京都でのセッション(2023年7月)のほか、サーキュラーエコノミーとの関わり、「自然資本投資と評価指標」「生物多様性のデータ収集と価値化」といった具体的な話題が含まれている。

(広井 良典 : 京都大学人と社会の未来研究院教授)