大河ドラマで藤原為時を演じる岸谷五朗さん(写真:NHK公式動画より引用)

NHK大河ドラマ「光る君へ」がスタートして、平安時代にスポットライトがあたることになりそうだ。世界最古の長編物語の一つである『源氏物語』の作者として知られる、紫式部。誰もがその名を知りながらも、どんな人生を送ったかは意外と知られていない。紫式部が『源氏物語』を書くきっかけをつくったのが、藤原道長である。紫式部と藤原道長、そして二人を取り巻く人間関係はどのようなものだったのか。平安時代を生きる人々の暮らしや価値観なども合わせて、この連載で解説を行っていきたい。連載第3回は宮中人事に不満を抱いた、紫式部の父・藤原為時のある仰天行動について紹介する。

著者フォローをすると、連載の新しい記事が公開されたときにお知らせメールが届きます。

偉人の名言は夜明けの前に放たれる

ついに、ここから自分の人生は好転するのではないか?

挫折した人間ほど、人生の転機に敏感だ。歴史に名を残す偉人たちは、その躍進の瞬間を巧みに表現する。作家の芥川龍之介もそうだった。

今でこそ名作として読み継がれる『羅生門』だが、最初に同人誌に発表したときは、目立った反応が得られなかった。労作だっただけに、失望も大きかったらしい。それでも書くことをやめず、芥川は『鼻』という作品で、夏目漱石から高く評価されることになる。

そのときの心情を、芥川は自身の生涯を振り返った『或阿呆の一生』で、こんなふうに表現している。

「夜は次第に明けて行った。彼はいつか或町の角に広い市場を見渡していた。市場に群がった人々や車はいずれも薔薇色に染まり出した」

その後、芥川が文壇で躍進することを思えば、このときに抱いた人生への期待は見当違いなものではなかった。

映画界で「喜劇王」として名を馳せたチャールズ・チャップリンも、学校にも通えない屋根裏暮らしの極貧生活から這い上がるとき、こんな言葉を口にした。

「私に必要なのは、チャンスだけです」

年齢をごまかしてまで劇団に潜り込み、17歳で重要な役に抜擢されたチャップリン。「やれるか?」と聞かれたときに自然に出た意気込みである。

同じく不遇な少年時代をすごしたフランスの英雄ナポレオンは、母からの「不運にめげないのが、立派で、高貴なことなのです」という手紙に励まされながら、26歳のときにチャンスをつかむ。イタリア遠征軍総司令官として従える兵たちに、こんな檄を飛ばした。

「みんながふるさとに帰って『オレは勝利のイタリア遠征軍に加わっていたんだぜ!』と誇らかに言えるようにしたい」

まるで自分に向けたような言葉だ。「人生がここから動き出す」、そんな期待に満ちあふれている。夜明けを迎えようとするときの偉人の言葉は、停滞期に苦しむときほど、心に響く。

藤原為時が明るい未来を見通した和歌

紫式部の父、藤原為時もまさにそんな気持ちだったに違いない。

為時は、文章生(もんじょうしょう)出身の学者で、高い教養を持ちながらも、なかなか官職を得られなかった。

しかし、永観2(984)年に花山天皇が即位すると、式部丞(しきぶじょう)・蔵人(くろうど)に任命されることとなった。

式部丞とは、文官の人事や教育などを担う「式部省」の役人のこと。いわば、文部科学省のようなところで、為時は六位蔵人の職につけたのである。

為時の娘、紫式部は生まれもはっきりせずに、本名も明らかではないことはすでに書いた(記事「聡明な紫式部に父が口にした「忘れられない一言」」参照)。後世で「紫式部」と呼ばれるのは、為時が「式部省」の役人を務めていたからである。

出世のきっかけは、7年前の貞元2(977)年にあった。のちに花山天皇となる東宮の御読書始において、為時が「副侍読」についていたことが幸いしたようだ。


花山天皇が葬られている京都市の紙屋川上陵(写真:クロチャン / PIXTA)

38歳という年齢にして、ようやくエリートへの道が見えてきた為時。喜びをこんな歌に込めている。

「遅れても 咲くべき花は さきにけり 身を限りとも 思ひけるかな」

咲き遅れても咲くはずの花は必ず咲くものだ――。

自分の頑張りを見てくれている人は、必ずどこかにいる。前述した偉人たちのごとく、為時の人生がこれから好転するかに見えた。

ところが、為時の場合は、そううまくはいかなかった。自分を引き上げてくれた花山天皇が出家してしまい、再び不遇の日々を過ごすことになったのである。

期待が裏切られたときほど、人生で苦しい時期もないだろう。花山天皇が突然、出家したのは寛和2(986)年。紫式部が16〜19歳頃のことだ。

懸命に役職に就こうとはするものの、何かと人生がうまくいかない父。その背中を、娘としてどんな思いで見つめていたのだろうか。残念ながら、紫式部がどんな少女時代を送ったのかはよくわかっていない。

ただ、残された和歌をみると、孤独でふさぎ込んでいたということでは、どうやらなさそうである。

「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲隠れにし 夜半の月影」

小倉百人一首の57番として収録されているので、耳にしたことはあるかもしれない。『新古今和歌集』では、この歌を詠んだ背景として、紫式部がこう振り返っている。

「はやうより童友だちなりし人に、年ごろ経て行きあひたるが、ほのかにて、七月十日のほど、月にきほひて帰りにければ」

(かねての幼友達と、長い時を経て、偶然出会ったが、確かにそうだとはっきり見分けもつかないうちに、陰暦の七月十日ごろ、夜半の月と競いあうようにして帰ってしまったので)

このように、和歌や俳句の前書きとして、その作品の動機・主題・成立事情などを記したものを「詞書き」(ことばがき)という。

議論がなされてきた「童友だち」

この「童友だち」とは誰なのか。いち早く『源氏物語』の現代語訳に挑んだ歌人の与謝野晶子も含めて、さまざまな論者による議論がなされてきているが、はっきりとしていない。

ただ、心を許した幼友達や、相談を持ちかけられるような間柄の友人がいた様子は、紫式部が詠んだとされる和歌から読み取ることができる。

もっとも、早くに母を亡くし、父の仕事もままならない境遇を考えれば、紫式部のほうこそ、友人に相談したいことだらけだったに違いない。

しかし、為時が空しく職を失ってから10年後の長徳2(996)年、人生は動く。ついに待望のポストが与えられることになったのだ。

為時は、宮中の人事が行われる際に「受領になりたい」と希望を出していたが、その願いが受け入れられることになる。受領とは、地方官である国司のなかで、現地の支配を行う最高責任者のことだ。

だが、当初、為時が任じられたのは、淡路国だった。国司が赴任する国は大国、上国、中国、下国の4つにランク分けされており、淡路国は下国にあたる。

そこで為時は勝負に出る。『今昔物語集』によると、こんな漢詩を天皇に提出したのだという。

「苦学寒夜紅涙霑襟 除目後朝蒼天在眼」(苦学の寒夜、紅涙が襟をうるおす 除目の後朝、蒼天眼)

意味は「寒い夜の苦学の甲斐もなく希望した地位につけずに、血の涙にむせいでいます」。この悲痛な漢詩が認められ、為時の任地は変更される。大国である越前国守への就任が成し遂げられることとなった。

為時の人生が動いて紫式部もあとに続く

越前への赴任には、20代半ばの紫式部も同行することになるが、1年ほどで都へ帰還。そこからいよいよ、紫式部は激動の人生を過ごすことになる。

偉人の多くは、不遇な前半生をバネにして高く跳ぶ。紫式部もまた『源氏物語』を書き上げるまでに、多くの経験を積んでいる。父の報われない人生と、漢詩による逆転劇も、紫式部の心に深く刻まれたことだろう。

【参考文献】
山本利達校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 紫式部日記 紫式部集』(新潮社)
倉本一宏編『現代語訳 小右記』(吉川弘文館)
今井源衛『紫式部』(吉川弘文館)
倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)
関幸彦『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』 (朝日新書)
佐佐木信綱 『新訂 新古今和歌集』 (岩波文庫)
真山知幸『偉人名言迷言事典』(笠間書院)

(真山 知幸 : 著述家)