トラックの荷台に積み込まれる、丹念に整備された車いす(2023年12月、筆者撮影)

「車いすが不足しています。中古でもいいから送ってほしい」。2022年10月、私はウクライナの慈善団体からSOSを受けた。これを機に妻の史子(62歳)と手探りで始めた車いす緊急支援プロジェクトは全国に支援の輪が広がり、2023年12月、一連の支援活動の最終便となる第5便280台を出荷して当初計画の2倍以上となる1095台を達成した。このリポートは、私がかかわったウクライナ支援の一部始終である。

日本の中古車いすを集めて整備・清掃し、ウクライナに届ける「ジャパン・ホイールチェア・プロジェクト・フォー・ウクライナ」の取りまとめ役を務めたNPO法人「希望の車いす」(東京都練馬区)。2023年12月19日、同NPO法人の作業所では、ボランティアの人たちが忙しそうに作業に当たっていた。

1台1台丹念に整備されてビニールで包装された車いす40台がトラックの荷台に積み込まれた時、ボランティアにすがすがしい笑顔が広がった。

第5便の車いすは東京、広島、北海道、愛知、愛媛のボランティアと工業高校の生徒が整備・清掃した。募金活動は史子の故郷・徳島や岩手でも行われた。

ウクライナの現状を考えると、とても十分とは言えないものの、現地に届けられた車いすを使っている人々の笑顔を思い浮かべると、私自身、自然と感謝の気持ちがこみ上げてきた。日本の皆さん、本当にありがとう。

呼びかけに応えてくれたボランティアの人たち

全国の団体を調整する大役を終えた「希望の車いす」の谷雅史理事長は、支援の意義を次のように語った。

「車いすが不足している国はたくさんある。それなのに日本ではまだ使える車いすが捨てられている。これからも車いすを整備・清掃し、協力できる場合は一緒にウクライナや多くの国々へ届けていこうと話し合っている」

谷さんは私の呼びかけに賛同してくれたボランティア団体のメンバーだ。

プロジェクトに加わったNPO法人「飛んでけ! 車いす」の会(北海道)の吉田三千代・前代表理事は、「1台の車いすは整備班 4人の温かい手で丁寧に整備・調整しました。心を込めた車いすを使ってください」と話した。


日本の車いすが届けられ、笑顔を見せるローマンさん(中央)。左が筆者、右が妻の史子(2023年5月、キーウ近郊イバンキフ村で撮影)

NPO法人さくら車いすプロジェクトの斎藤省前代表は、「日本人の思いをのせた1000台を超える車いすが生活の助けになることを心から願っています」と語った。

日本国内での中古車いすの回収・整備・清掃・検品・包装・出荷は、NPO法人、工業高校、ライオンズクラブ、障害者の自立生活センターが引き受けた。ポーランドの港までの輸送は日本郵船、株式会社三協(横浜市)、商船三井が無償支援を申し出た。ウクライナ国内への輸送・配送はウクライナの慈善団体「フューチャー・フォー・ウクライナ」(FFU)が担当した。

コンテナ価格は1週間で倍以上にハネ上がった

2023年9月に第4便305台が届けられた北東部ハルキウ市は、ロシア軍の攻撃を受けた前線に近い都市の一つだ。街の人々は「自分たちは鉄とコンクリートでできている」と胸を張るが、届け先のサルチフスキー区社会サービス地域センターだけでも「車いすを必要とする人が最大1500人いる」と聞かされ、気が遠くなった。それがこの戦争の現実だ。

イスラエル・ハマス戦争で親イラン武装組織フーシ派がイエメン沖で27隻の船舶を無差別攻撃したため、第5便は南アフリカ喜望峰回りとなり、ポーランド・グディニャ港着は2週間遅れの2024年2月16日の予定。アジア・北欧航路のコンテナ価格は1週間で115%上昇した。

コロナ禍で暴騰したコンテナ価格はその後、10分の1以下に下落。その間に車いすの大半を送ることができたのは幸運だった。

ウクライナの状況は2023年6月開始の反攻が不発に終わり、冬になって次第に厳しさを増している。

慈善団体FFUで車いすプロジェクトを担当するカリーナ・カピタニュークさんから第5便の出荷直前、妻の史子宛てに電子メールが届いた。

「長い間連絡できなくて本当にごめんなさい。メールに問題があって、昨日ようやくすべて復旧しました。ですので、たくさんたまっている手紙に少しずつ返事をしています」


カリーナ・カピタニュークさん(FFUのフェイスブックより)

ウクライナの首都キーウでは空襲が増え、カリーナさんの自宅から1キロメートルのところで爆発があり、破片で多くの家や通信手段が被害を受けたという。幸いなことにカリーナさんも家族も無事だった。

「12月はいつも私にとって待ち遠しい月です。2人の祖母と母の誕生日、聖ニコラウスの日にクリスマス。そしてニューイヤーがやって来ます」(カリーナさん)

しかし、ロシアによる電力インフラへの攻撃が続いた2022年12月がどのようなものだったかを思い出し、カリーナさんは不安な気持ちで2023年の12月を迎えた。

キーウへの空襲が絶えず、突然、電気が止まる。計画停電ではない。水道が止まることもある。停電になると、電気ストーブと電気湯沸かし器は役に立たない。1、2食分の食事を常備しておくようになったというカリーナさんはこう語った。

「冷めても食べやすいものを用意します。魔法瓶にお湯や温かいお茶を入れておくと、停電の時でも温かい飲み物を口にすることができます。この12月はつらいです。外はつねに曇っていて空気が張り詰めています。家を出る前に空襲の状況を見ておかなければなりません。ミサイルの脅威がある間は公共交通機関が動かないので、出退勤に大きな支障を来します」

空襲警報が鳴る前に爆発音がとどろく

弾道ミサイル攻撃では、空襲警報が鳴る前に爆発音がとどろく。カリーナさんは2023年12月13日未明、大きな爆発音で目が覚めた。壁の強度が他の場所より期待できる廊下に隠れた。それでもミサイルが直撃すれば命の保証はない。さらに数回の爆発音が聞こえた。何が起きたのか、スマホの空襲警報アプリを確認したが、警報はまだ鳴っていなかった。

「弾道ミサイルの攻撃だとすぐにわかりました。午前3時ごろで、その夜はもう眠れませんでした。不安とストレスで全身が震えました。とても大きな音だったのでミサイルが着弾したか、破片がすぐ近くに落ちてきたかのどちらかだと思いました」(カリーナさん)

ウクライナ空軍司令部によると、キーウを狙う弾道ミサイル10発はすべて対空ミサイル部隊によって撃墜された。

弾道ミサイルはカリーナさんの自宅近くの上空で迎撃され、大きな破片の一つが自宅から約1キロメートルのところに落下したことが朝になってわかった。午前中、後片付けをするため近くの道路はすべて封鎖された。死傷者も出た。多くの住宅の窓ガラスが割れ、カリーナさんが通っていた学校も被害に遭った。

「空襲が未明で、子どもたちが学校にいなかったのが不幸中の幸いでした。一緒に住んでいる祖母は落ち着いていました。翌日もキーウへの空襲は5回あり、爆発がありました。私たちはオフィスから防空壕へ行ったり来たりするばかりで仕事どころではありませんでした。しかし私たちは首都に住んでいるので、まだ空爆から守られています」。カリーナさんはそう語った。


空襲の被害を受けたカリーナさんの母校(カリーナさん提供)

「私たちは奇妙な時代を生きています。空爆にも慣らされました。空襲警報後のニュースを読めば防空壕に隠れるべきか否か、敵が何を発射したのかわかります。時に恐怖におびえながら、マンションを改装し、遊びに出かける。こんなに明暗の激しい生活を送ることになるとは想像もしていませんでした。しかし人は何事にも慣れるものです」(カリーナさん)

結束する「ならず者国家の枢軸」

アメリカ国家安全保障会議(NSC)のジョン・カービー戦略広報調整官は2024年1月4日の記者会見でこう発表した。

「年末年始の5日間、ロシアはウクライナに繰り返し空爆を行った。ドローン(無人航空機)やミサイルを使いウクライナ全土の都市や民間インフラを攻撃した。産科病院、ショッピングモール、住宅地が攻撃され、数十人が死亡、数百人が負傷した」

カービー氏によると、北朝鮮は最近、弾道ミサイル発射装置と数十発の弾道ミサイルをロシアに提供した。2023年12月30日、ロシアは少なくとも北朝鮮製の弾道ミサイル1発を発射し、ウクライナ南部ザポリージャ州の耕地に着弾。2024年1月2日には複数の北朝鮮製弾道ミサイルをウクライナに向け発射した。射程はいずれも約900キロメートルだという。

北朝鮮製弾道ミサイルで民間人に犠牲が出るのはもはや時間の問題だ。ロシアは早ければ今年春にイランからも短距離弾道ミサイルを入手するとの観測も流れる。

アメリカのシンクタンク「戦争研究所」(ISW)によると、ロシアが弾道ミサイルの国外調達を進めるのはウクライナの防空システムをくぐり抜けるのに弾道ミサイルが一番効果的だからだ。

「ならず者国家の枢軸」の結束でウクライナが追い込まれているのに対し、戦争に巻き込まれたくない西側の足並みは乱れる。急ごしらえのウクライナ軍が機甲師団による電撃戦に必要な大規模統合作戦を不得手とした面は否めないが、米欧による武器弾薬の供給が遅れたためロシア軍に分厚い地雷原を構築する余裕を与え、反攻の好機を逃してしまった。

前線は膠着状態に陥り、第1次世界大戦を彷彿とさせる悲惨な塹壕戦が繰り広げられる。

2023年4月、ウクライナ西部テルノピリ市にある2つの公立病院を訪れた時、病床はすでに負傷兵であふれ返り、“戦時病院”と化していた。病院の院長は「140床あるベッドの大半は負傷兵で埋まっている。入院患者の85%が負傷兵だ」と話した。


激戦地バフムートで撃たれ、右足を失ったセルヒーさん(2023年4月、筆者撮影)

ルハンスク州クレミンナで対戦車地雷を踏んで左足を吹き飛ばされたヴラディスラさん(当時21歳)は医療従事者の助けを借りてリハビリに取り組んでいた。戦前は大学で法律を学ぶ学生だった。

セルヒーさん(当時46歳、右写真)は東部ドネツク州の激戦地バフムートで撃たれ、右足を失った。動員される前は炭鉱会社に勤めていた。みんな、元は普通の市民だった。

テルノピリ州立病院では2022年4月〜2023年1月までの10カ月間で約6000人の患者に2万回の手術が行われた。1人で最高15回手術を受けた負傷兵もいた。米紙ウォール・ストリート・ジャーナル(2023年8月1日付)によると、ウクライナ戦争が始まって以来、手足を失ったウクライナ人は2万〜5万人と推定される。

一連の車いす支援は終了、新たな取り組みの可能性も

ウクライナ政府は手足を失った兵士に最高2万ユーロ(約318万円)を支給しているが、義肢は5万ユーロ(約794万円)以上するものもある。

FFUは車いす支援プロジェクトのほか、2022年9月からアメリカ・ワシントンとマルタのクリニックで12人のウクライナ人兵士に高品質の義肢装具提供を支援している。

ウクライナはまさに正念場だ。一連の支援活動は終了したが、NPO法人「海外に子ども用車椅子を送る会」(東京都福生市)の森田祐和会長は、「今後も条件さえ整えば単独で挑戦したい」と意気込む。筆者も史子も微力ながらお手伝いしたい。

(木村正人 : 国際ジャーナリスト)