松本人志さんの報道をきっかけに、彼が過去に出演してきた番組やその芸風に対して、嫌悪感を示すSNS投稿が相次いでいる(写真:INSTARimages/アフロ)

「実は、ずっと嫌いだった」「あの芸風が、苦手だった」ーー。

ダウンタウン・松本人志さんの報道をきっかけに、彼が過去に出演してきた番組やその芸風に対して、嫌悪感を示すSNS投稿が相次いでいる。

一方で、こうした投稿に対して、「なぜ今さら」「都合がよすぎる」と対抗する発言も。そもそもどうして、わざわざ「嫌い」と表明するのか。そして、その発言に反発が起きるのか。

背景を考察してみると、時代に応じた「空気」の変化が見えてくる。

「昔から嫌いだった」と今言い出すのはダメなこと?

いまさら説明するまでもないが、今回の騒動をサラッと振り返ってみよう。『週刊文春』が松本さんのスキャンダルを報じたのは、2023年12月末のこと。所属事務所の吉本興業は2024年1月8日、裁判に注力するために松本さんが活動休止すると発表。

本人も同日、X(旧Twitter)で「事実無根なので闘いまーす」として、かつてのレギュラー番組である「ワイドナショー」(フジテレビ系)へのゲスト出演に意欲を見せた。しかし世間の反発も強く、結果的に「古巣」への凱旋は実現しなかった。

これから司法判断に持ち込まれる以上、ここでは事実か否かについては踏み込まないが、一連の騒動をウォッチしていて気になったのが、SNS上で「ダウンタウンのごっつええ感じ」(フジ系、1991〜1997年)などを引き合いに出し、その芸風を「昔から嫌いだった」と批判する声が相次いでいることだ。

これに対して、反対に「今になって言うな」「カリスマが弱ったときにだけバッシングするのは都合がよすぎる」といった投稿も散見される。なかには「お笑い好きでもないくせに」などと、マウントをとるケースもある。

平成テレビでは「イジる」のは珍しくなかったが…

現在、30代なかばの筆者が物心ついた頃には、すでにダウンタウンは数多くの番組を抱える「時代の寵児」だった。松本さんの『遺書』ブームと、相方である浜田雅功さんの音楽活動は、小学生になるかならないかの幼い記憶ながら残っている。おそらく「ごっつ」もリアルタイムで見ているはずだが、それほど記憶に残っていないということは、あまり好みではなかったのかもしれない。

しかしながら、「HEY!HEY!HEY!」(フジ系、1994〜2012年)は見ていたし、いまでも「水曜日のダウンタウン」(TBS系)を毎週楽しみにしている。とくに嫌悪感もなく、とはいえ神格化しているわけでもない、あくまでフラットな立場だ。

そのスタンスから、なぜ今になって「嫌いだった」との告白が相次いでいるのかを考えてみると、そこには「時代による『空気』の変化」があるように感じる。

思い起こせば、平成期のバラエティー番組は、視聴者との共犯関係を築くことで、人気を集めるものが多かった。それなりのポジションにある芸人が、後輩や女性タレントらを「イジる」構図は、「ごっつ」に限らず、十数年前まで決して珍しくなかった。むしろ、2000年代末期の「おバカタレント」ブームあたりまで、高視聴率をたたき出す、テレビ局としても魅力的なコンテンツだった。

当時を振り返って、古きよき時代と捉えるか、昔でもダメなものはダメと切り捨てるかは、人それぞれだ。また、イジりの対象になった芸能人も、活躍の幅が広がることにより「オイシイ」、いわばWin-Winの関係になっていた側面もあるだろう。

しかし、そうしたコンテンツは、現実として、次第に受け入れられなくなっていった。それとともに、「イジる系」の笑いを好まない人々によりマッチした内容へと、少しずつ変化してきていたのだ。

他方、松本さんやダウンタウンをめぐる「空気」が変化した背景には、メディアの影響も、おそらくある。「KY(空気を読め/空気が読めない)」がユーキャン新語・流行語大賞にノミネートされたのは2007年。その翌年のiPhone上陸により、スマートフォンが日本に普及し始める。

エンタメ受信機が「一家に一台」から「ひとり一台」になったうえ、ターゲティング技術が進歩して、それぞれに最適化された「あなたへのオススメ」が表示されるようになると、「みんなが見ている番組」は減り、その興味も細分化されていった。

テレビ局が推す「万人向けのオモシロ」ではなく、アルゴリズムが推す「あなた宛てのオモシロ」に触れていくにつれて、かつて触れたコンテンツに「そういえば、面白かったのかな?」と懐疑的な見方を示しても不思議ではない。

旧ジャニーズ事務所をめぐっても、似たような側面がある。ジャニー喜多川氏の性加害問題が話題になったことで、「そういえば……」と、これまで気にしなかった違和感が浮かび、それをSNSで共有したくなる。

つまり「カリスマの失脚」に乗じて嫌悪感を示し始めたわけではなく、時代の変遷による変化や、テレビへの接し方の変化などが重なったうえで、長年のモヤモヤにひとつの答えが出たのが、今だったというだけなのではないか。

昭和が終わり、平成も終わり、テレビの地位が相対的に低下した。そのうえで、視聴方法も変化し、個人に最適化されるようになり、令和になって数年が経過した。大衆が変化するのにも、十分な時間があった……そう考えても、おかしくはないだろう。

ファンによる「嫌なら見るな」も考えものな理由

今回の件に限らず、SNS上では「嫌いだった」といった反対側に、しばしば「嫌なら見るな」といった主張が見られる。

だが、この主張自体が考えものなのかもしれない。というのも、ナインティナインの岡村隆史さんが、テレビ番組について同様の趣旨の発言をし、大きなバッシングを受けているからだ。

当該の発言がなされたのは、2011年夏のこと。振り返ると、ちょうどその頃は、まさに空気が変わる節目だった。東日本大震災を経て、SNSの存在感が増すなかで、岡村さんの発言は「テレビ業界の傲慢さ」と受け取られ、民放各局が低迷していく転換点となった。

ただ、そうした経緯も踏まえつつ、「嫌なら見るな」の根源を考えてみると、「自分が好きなコンテンツを守りたい」という純粋な思いが見えてくる。たとえ他人から、ただのノスタルジーだなどと言われても、コンテンツと過ごした時間は実際にあり、それを否定されることは、居場所を奪われるのと同じだ……と感じるのではないか。

幼き日のノスタルジーを否定されたくない。育ってきた環境を否定されたくない。そんな心情が、異なる意見の排除につながる。防衛本能に身をまかせて、反射的に「見るな」と投稿してしまう人も相当数いるはずだ。

時代は否応なしに変化していくもの

多様性やら、ダイバーシティやら、声高に言われている昨今だが、ことコンテンツに対する価値観は、こだわりがぶつかりやすい。「嫌いだ」「嫌なら見るな」と正面から対立するのではなく、互いに尊重し合える術はないものか。

皮肉にも、先にあげた、アルゴリズムによる「あなた宛のオモシロ」の普及は、ひとつの着地点になり得るだろう。自動的に「嫌」が排除されれば、思わず出くわしてしまう機会も減る。これからAI(人工知能)の技術が、さらに発展すれば、好き嫌いを判断するコンシェルジュ役としても、有能になってくるだろう。

とはいえ、好きなものばかりに触れるのは、それはそれで問題だ。また、いざ向き合ってみないと、好き嫌いの判断もできない。「マズい、もう一杯!」という青汁のCMではないが、苦手だとわかっていても、あえて血肉になるからと接することもあるはずだ。

また、どれだけ技術が進歩しても、興味が個人ベースに細分化されつつある時代においては、センスや「ツボ」までは判断しにくい。「嫌い」の機械的な排除は、思わぬ「好き」との出会いを妨げるおそれと表裏一体だ。AI開発の主軸になっているビッグデータ解析だけでなく、ありとあらゆる、その人独自の特性を収集し、情報をレコメンドするまでには、技術的にも費用面でも、まだまだ時間を要するだろう。

では、そこまでの生存戦略として、どうすべきかといえば、極めて簡単な話だ。「言いたいヤツには言わせとけ」。自分の価値観を貫きつつ、こういう考えもあるのねと、いったん受け止める。自分との違いを冷静に判断できれば、なおいいだろう。

そうすれば、「実は昔から嫌いだった、苦手だった」系の投稿に、過剰に反応することもなくなるのではないか。もし、あなたの価値観のほうが時代に合っているのなら、いつしか反対意見はフェードアウトしていくのだから。

(城戸 譲 : ネットメディア研究家・コラムニスト・炎上ウォッチャー)