シリコンバレーの歴史をひもときます(写真:gettyimages)

IT産業の集積地であるアメリカのシリコンバレーはどのように生まれたのか。その理由について、ワシントン大学の歴史学教授マーガレット・オメーラ氏が5年におよぶ取材の末に書き上げた著書『The CODE シリコンバレー全史 20世紀のフロンティアとアメリカの再興』から一部抜粋・再構成してお届けします。

かつては知っている人がほとんどいなかった

スマートフォン30億台。ソーシャルメディアの利用者20億人。1兆ドル規模の企業2社。サンフランシスコ最大の高層ビル、シアトル最大の雇用者、地球上で最も高価な企業キャンパス4つ。人類史上最高の金持ちたち。

21世紀最初の20年の末にアメリカ最大のハイテク企業が達成したベンチマークは想像を絶するものだ。ハイテク業界の通称ビッグファイブ――アップル、アマゾン、フェイスブック、グーグル/アルファベット、マイクロソフト――の時価総額を合わせると、イギリス経済の全体よりも大きくなる。

ハイテク界の大立て者たちは、名高いメディアブランドを買収し、世界を変える慈善組織を創設して、文字通り天に昇る勢いだ。何十年にもわたり、国の政治に対する気後れを表明してきた後で、西海岸のオフィス区画でハックされたエレガントなコードが、政治システムの隅々にまで入り込み、オンライン広告のターゲティングと同じくらい有効に政治的な分断の種をまいている。

1971年初頭に、業界誌のジャーナリストが気の利いたニックネームをつけようと思いつくまで、「シリコンバレー」だのそこに集うエレクトロニクス企業だのを知っている人はほとんどいなかった。アメリカの製造業や金融、政治の中心地は、5000キロ近く離れた反対側の海岸にあった。資金の調達金額でも、支配している市場の規模でも、メディアの注目でも、ボストンのほうが北カリフォルニアより格が上だった。

その後10年たって、パーソナルコンピュータがオフィスのデスクに大量発生するようになり、ジョブズやゲイツといった姓の天才少年起業家たちが世間の想像力をつかみ取るようになってからでさえ、シリコンバレー自体は大きな動きの中で脇役のままにとどまっていた。

風がまともに吹かないときには、黄土色のスモッグがその整然としたベッドタウン郊外地区には垂れ込めていた。こげ茶色のオフィスビルはどれも区別がつかない。そして夜8時半を過ぎたら、夕食を注文できるところは1つもない。あるイギリスからの訪問者はゾッとして、そこを「ポリエステルのホビット領」と呼んだ。

とんでもない高みに舞い上がり、そして墜落

その後シリコンバレーとその姉妹テクノポリスたるシアトルでは、ホビットたちは維持しつつ怠惰な雰囲気を失い、1990年代のドットコム時代にはとんでもない高みにまで舞い上がった――ベンチャー資本家ジョン・ドーアはそれを「地球上で目撃された中で、唯一最大の合法的な資産創造」と呼んだ――が、新千年紀がやってきて、NASDAQ暴落の音と共に地面に墜落して、かつては輝いていたインターネット企業の死骸がそこらじゅうに散乱する結果となった。

雑誌の特集記事は熱狂の終わりを宣言し、陰気な顔の証券アナリストたちは、「買い」推奨を「売り」に変え、ウォール街の注目は再び、もっと予想しやすいブルーチップ古参企業のリズムに戻っていった。アマゾンのロケットめいた台頭は熱にうかされた夢のように思え、アップルは製品アイデアが枯渇し、マイクロソフトは会社の分割を命じられ、グーグルはガレージ企業でトップたちは利潤をあげるよりバーニングマンにでかけるほうに興味があるようだった。何という変わりようだろう。

そして現在まで時計の針を進めると、シリコンバレーはもはや、北カリフォルニアの一地域ではなくなった。それはグローバルなネットワーク、ビジネス感覚、文化的な簡便記法、政治的ハックとなった。世界中の何百もの場所が改名して、シリコンなんとか――砂漠、森林、ラウンドアバウト、ステップ、ワジ――となり、そのオリジナルの魔法を多少なりとも捕らえようとしている。

シリコンバレーのリズムは、その他あらゆる産業の働きを左右する。人間のやりとり、学習、動員のあり方まで変えてしまう。権力構造をひっくりかえしたり、強化したりする。シリコンバレーの生み出した億万長者マーク・アンドリーセンが数年前に述べたように「ソフトウェアは世界を喰い尽くしている」。

『The CODE シリコンバレー全史』に書いたのは、私たちがどうやってそのソフトに喰い尽くされる世界にやってきたかという話だ。これは、カリフォルニア州の緑豊かな峡谷が、ビジネス成功のコードを解明し、時期尚早な死亡宣言を何度も克服して、次から次へとハイテク世代を生みだし、そして世界の実に多くの場所がいくらやっても真似られない場所へと変貌した、70年にわたる物語となっている。

それはまた、現代アメリカの歴史でもある。政治的な分断と集合行動の物語、驚異的な機会と息の詰まるような偏見の物語、工場閉鎖と証券取引所の大繁盛の物語、ワシントンの大理石の廊下から、ウォール街のコンクリートの谷間へと到る物語だ。というのもこれらは、シリコンバレーを可能にしてきた多くのものの一部であり、そして同時にこれらはシリコンバレーにより作り替えられてきたものだからだ。

反エスタブリッシュ的な比喩まみれ

シリコンバレーが一般的に意識されるようになった最初の瞬間から、それは革命的で反エスタブリッシュメント的な比喩まみれとなっていた。「自分だけの革命を始めよう――パーソナルコンピュータで」というのが、新生の1978年『パーソナルコンピューティング』誌の広告だった。「パーソナルコンピュータは、わが大陸が人類文明に対して行った最大の貢献であるアメリカ革命のあの遺物――起業家というものにとっての最後のチャンスなのだ」とハイテク業界紙『インフォワールド』は1980年に宣言した。

その4年後、アップル社が新商品マッキントッシュ・コンピュータを世に問う準備を行う中で、同社の重役たちは「この製品の過激で革命的な性格」を強調した。その一つの結果が、史上最も名高いテレビ広告の一つだ。1984年スーパーボウルの間に何百万ものアメリカのリビングルームに、口をあんぐりさせるようなCMが放送されたのだ。精悍な若い女性が、物憂げな観客の間を走って、青い画面に投影されたビッグブラザーめいた映像にハンマーを投げつけて、それを粉砕するのだ。

これはきわめて露骨に、アップルの主要なライバルたるIBMに対するパンチとなっていたが、同時にマーケティング契約や広告スローガンを超えた、ハイテクおたくに流れるもっと広範な反エスタブリッシュメント感情を反映するものだった。

ジャーナリストのスティーブン・レヴィーが1984年に、コンピュータをパーソナルなものにするのに貢献したハードウェアやソフトウェアの技術おたくたちが作り上げる驚異的な新しいサブカルチャーを著すのに使った、「ハッカー倫理」なるものの1つの支柱は「権威を信用するな――分散化を促進せよ」というものだった。「権威」というのは、ビッグブルーことIBM、大企業、大きな政府のことだ。

これは当時として完璧なメッセージだった。10年以上も一貫して暗いビジネスニュース――工場閉鎖、ブルーカラー職が海外に奪われ、企業リーダーたちは不手際ばかり、アメリカのブランドは外国の競争に次々に敗れる――が続いたあとでハイテク企業はまばゆい、有望なコントラストを示していた。

くたびれた中間管理職や仏頂面の保守派とはちがって、タンデムコンピュータのジェームズ「ジミー・T」トレイビッグのように社員のために毎週ビール宴会を開いたり、会社のプールサイドで、アルフレスコ記者会見を開いたりする派手な重役がいた。

アドバンスド・マイクロデバイス(AMD)のジェリー・サンダースといったCEOは、週ごとにロールスロイスや最新鋭メルセデスを次々に買った。そしてもちろん、アップル社のスティーブ・ジョブズやマイクロソフト社のビル・ゲイツは、新種の企業リーダーの見本となっていた。若く、型にはまらず、とんでもなく金持ちなのだ。

旗振り役となったロナルド・レーガン

さらに時代の代名詞となった人物、ロナルド・レーガンがいた。大きな政府に対する救世主、規制緩和市場の擁護者、「起業家の時代」と自称したものの旗振り役だ。

この大いなるコミュニケーターにとっては、アメリカの自由な事業精神を何よりも表している場所や産業は、シリコンバレーだった。そして彼は特にその美徳を外国の聴衆に向けて自慢してみせるのに熱心だった。

1988年春の歴史的なソ連訪問に際し――これは14年ぶりのアメリカ大統領訪ソで、ほんの数年前にソ連を「悪の帝国」と呼んだ指導者としては驚くべき動きだった――レーガンはモスクワ国立大学の計算機科学の学生600人の前に立ち、アメリカ製マイクロチップの栄光をほめそやしてみせた。

巨大なウラジーミル・レーニンの銅像を背にした壇上で、大統領は群衆にこう語った。ハイテクのこうした奇跡は、アメリカ式民主主義が可能にするものの最高の表現なのだ。思考と情報の自由は、コンピュータチップとPCを生み出したイノベーションの波を可能にした。

ハイテク起業家たち(「君たちと年齢は同じくらいだぞ」、と彼は学生たちを戒めた)ほど、アメリカの自由な事業精神――特にレーガンが大好きな税金の低い規制の弱いもの――を実証しているものはない。彼らは郊外のガレージでいじるところから始めて、最後はすさまじい大成功をおさめたコンピュータ企業を率いることになる。

その日モスクワで、次の革命は技術的なものになる、とレーガンはさらに説明した。「その影響は平和的なものだが、根本的に世界を変え、古い思いこみを叩き潰し、生活を一変させる」。そしてそれを先導するのは、「専門家がバカにするようなアイデアを掲げて、それが人々の間で大人気を博するのを眺める」だけの勇気を奮い起こした若いテクノロジストたちなのだ。

ヒッピーとレーガンの意見が一致した場所

「パーソナルコンピュータ運動」と呼ぶものの現場にいた男女の多くは、60年代カウンターカルチャーの子供たちだった。その左派的な政治は、レーガンの保守主義からはこれ以上ないほど遠いものだった。


だがここに、ヒッピーとレーガンの意見が一致する場所があった。コンピュータ革命は自由市場の魂を持っている、というわけだ。

もちろん、革命の比喩は目新しいものではない。フランクリンとハミルトンの時代から、アメリカの発明家とその政治パトロンたちは、新技術が世界を変えるという大胆(かつ予言的)な主張を行ってきた。

19世紀の小説家ホレーショ・アルジャーからアンドリュー・カーネギーやヘンリー・フォードまで、政治家やジャーナリストは、才覚により成功する起業家という存在を、アメリカ人のできること、やるべきことの見本兼お手本として持ち上げてみせた。ボロから大金持ちにのし上がれるのはアメリカでだけだ。肩書きなど関係なく、能力だけで判断してもらえるのはアメリカでだけだ。

このお話の中で、シリコンバレーはまさに目下進行中のアメリカ革命の、最新にして最高の例に思えたのだった。(後編に続く

(訳:山形浩生・高須正和)

(マーガレット・オメーラ : ワシントン大学教授)