(写真:GLP/PIXTA)

戦国大名の織田信長は、有名な割に豊臣秀吉ほど女性関係がどうだったのかあまり知られていない。数少ない史料からわかったこととは――。東京大学史料編纂所の本郷和人教授の著書『愛憎の日本史』より一部抜粋・再構成してお届けします。

実態が謎に包まれている信長の妻たち

有名な戦国大名であればあるほどに、その女性関係は後世に知られているものです。たとえば、武田信玄は何人もの女性と関係を持っていたし、毛利元就は一人の女性を深く愛し、亡くなるまで大切にしました(その後、何人かの側室をもつ)。このように有力大名であればどんな家の娘をそばに置いたかはある程度わかっているのですが、戦国大名として最も有名な織田信長の女性関係については、実はほとんど知られていません。

一般的には冷酷無比なイメージがある織田信長ですが、案外女性に優しいイメージを抱いている方も少なくないでしょう。その最大の理由は、秀吉の妻である北政所、通称・おねへの手紙です。

豊臣秀吉は非常に女遊びが激しい人だったので、おねは信長に秀吉の女癖の悪さを愚痴ったようです。すると、信長は彼女に宛てた手紙で、「あなたはこの間会ったときよりも十倍も二十倍も美しくなった」「秀吉はあなたほどの女性にこの先もう二度と出会うことはないだろう」と、おねの気持ちを解きほぐすような細やかな心遣いを感じる文面をしたためています。

この文章を見ると、確かに信長には女性に優しい一面があったのかもと思わざるを得ない。しかし、当の本人である信長が、実際には誰を愛していたのかは謎に包まれています。

信長の最愛の人は、本当に濃姫だったのか?

まず、よく名前が上がるのは、美濃の戦国大名・斎藤道三の娘だった濃姫です。彼女は信長の正室です。

近年、木村拓哉さんと綾瀬はるかさんが主演する映画『レジェンド&バタフライ』でも、その恋愛模様が描かれていたので、御存じの方も多いかもしれません。なお、映画のタイトルが『レジェンド&バタフライ』になったのは、濃姫の名前が「帰蝶」だったからです(もっとも、濃姫が「帰蝶」という名前だったかはいまだ確証はありません)。

通説では最愛の人と言われる濃姫ですが、それが真実かはいまだよくわかっていません。

なぜなら、史料上では、信長が義父の治める美濃国を攻め取った後、濃姫の消息がぱたっと消えているからです。作家の司馬遼太郎は『国盗り物語』の中で、信長が濃姫を本能寺に連れてきていたため、明智光秀による「本能寺の変」が起きた際は、濃姫も一緒に戦って死んだというストーリーを描いていますが、あれはあくまでフィクションです。その後、信長と濃姫がどこでどのように生活をしていたのかなどは、まったく知られていません。

江戸時代に入ってから、織田信長の弟である長益と息子の信雄の子孫たち四家が、二万石の大名として生き残ります。現在でも織田家は存続しており、その子孫を束ねているのが第十八代当主・織田信孝さんです。

この方の話によれば、信雄の家で濃姫の面倒を見ていたという話が伝わっているそうで、いまだに彼女の供養などを続けているそうです。仮にその話が真実ならば、濃姫は本能寺の変の後も生き続け、天寿をまっとうしたとの推論は成り立ちます。

一方で、信長が濃姫に対して、本当に深い愛情があったのかは、やはりよくわかりません。

例えば、秀吉の場合は、あれだけの遊び人にもかかわらず、身分が低い時代から自分を支え続けてくれた妻・おねをずっと大切にし続けました。どんなに若い妻を娶ろうとも、最後の最後まで数いる妻の中で、ずっと彼女を一番高い地位に置き続けたからこそ、おねは周囲から尊敬を受けることもできました。これは、秀吉が北政所に対して、深い愛情を抱いていたことの表れでしょう。

では、信長の正室である濃姫が、織田信長に愛されていた女性たちの間で一番の座にいたのか。わかりません。信長が秀吉の妻である北政所には優しい手紙を書く一方で、自分の正室である濃姫に対して優しい言葉をかける手紙などは残っていません。

この事実からも、実は信長は自分の妻には優しくなかったのではないか、と僕は思ってしまいます。

信長の長男、次男、三男を生んだ母親は誰だったのか

信長は子沢山で、二十人近くの子どもがいたと言われていますが、彼らを産んだ母親は誰だったのかも、確固たる史料は残っていません。

まず、跡取り息子である信忠の母親も、誰だか不明です。かろうじて「母親の可能性がある」として名前が挙がっていたのが、次男の信雄の母だろうと言われる生駒吉乃という女性です。

彼女は尾張生駒家の女性で、信長の本妻だったのではないかという説があります。なぜ、彼女が本妻だと思われたのかは、次男の信雄と三男の信孝の序列にありました。

信長の死後、清州会議では、織田の土地をどう分けるかが議論されました。実は、三男である信孝は次男の信雄よりも20日ほど先に生まれたものの、母親の身分が低かったので、信雄が兄として扱われたという説があるのです。

この場合、信雄の母親である生駒吉乃が名門の娘だということになりますが、実は生駒家はさほど立派な家ではありません。そうなると、重視されたのは、母親の家の格ではなくて、彼女が信長の正妻扱いされていたからではないか。加えて、信忠という長男を産んでいたからこそ、吉乃が信孝の生母よりも上に置かれたという話があってもおかしくありません。

ところが、長男の信忠と次男の信雄は母親が違うという話もあるので、吉乃がとくに信長に愛されていたという話の信憑性もどんどん薄くなってしまいます。

史料から読み解く、信長の女性関係

では、数少ない史料は、信長の女性関係についてどう言及しているのでしょうか。

信長を知る上で、一番基本的な史料は太田牛一が書いた『信長公記』です。織田家に仕えた武士だった太田牛一は、この時代には珍しくジャーナリストの資質を持った人物で、信長の実態を知るために、多くの人に取材をし、信長の一代記を書いています。だから史料としての信頼度はそれなりに高い。

ところが、この『信長公記』には、信長の妻についてはまったく書かれていません。現代の感覚でいえば、誰かの人物伝を書く場合、パートナーについては必ず言及するものでしょう。なぜなら、そのほうが人となりがよくわかるからです。でも、残念ながら、そうした記事は見当たらない。

『信長公記』が当てにならない以上、次の頼みの綱はキリスト教の宣教師たちが書いた史料です。信長は彼らとの交流が深かったので、その文章の中に信長が登場することがあります。ところが、こちらにしても、宣教師が美濃の岐阜城に信長を訪ねたときに、「信長の妻たちが居住しているスペースに」などと妻に関連する記述こそあれど、具体的な固有名詞が出てきません。

信長に妻が複数いたのは間違いないようですが、信長の愛を独占したような女性がいたのかは、まったくよくわかりません。まさに歴史研究者としては歯がゆい限りです。

信長は、女性に対する愛情が薄い人間だった?

これら史料の少なさを見ると、おそらく信長は、日頃から妻をいたわったり、妻を愛したりする人物ではなかったのではないかと思わざるを得ません。言い方は悪いですが、信長は、女性はあくまで子どもを作る道具のように扱っていたのではないでしょうか。


戦国時代から江戸時代にかけて登場した信長、秀吉、家康の三人の天下人を見ても、一番女性たちのサポートなどを必要としないのは信長だったのではないかと思います。秀吉は女性がいないとダメだし、家康についても女性との恋愛話は多々残っています。しかし、信長には一切それがありません。

信長の部下に対する扱いを見ていても、「使い捨て」が基本です。その感覚は妻にも通じるところがあったのかもしれない。

だから、信長は多くの妻を娶ったかもしれませんが、彼女たちの人格をきちんと認めていなかったのではないかとすら思ってしまいます。事実、自分の妹であるお市の方に対しても、夫の浅井長政を滅ぼした上、彼女が産んだとされる長政の男の子も殺しています。

仮に、信長に最愛の女性がいたのであれば、妻を複数人持っている以上、秀吉がおねに抱くような気遣いをするはずですが、信長に関する史料からは、その様子は一切見えません。冒頭でご紹介した、北政所にしたためた優しい手紙にしても、他人の妻には優しくとも、自分の妻には優しくしない。まさに、釣った魚には餌をやらない人物だったのではないでしょうか。

これについては、歴史的なアプローチだけではなく、精神医学の専門家などから意見を聞いてみるという試みも必要かもしれません。今後も、信長の恋愛関係やその傾向については、ひそかに探求を続けたいと思います。

(本郷 和人 : 東京大学史料編纂所教授)