今季限りでユニホームを脱いだ太田。現役時代に意識していたポイントは?写真:梅月智史(サッカーダイジェスト写真部)

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 攻守の重要局面となる「バイタルエリア」で輝く選手たちのサッカー観に迫る連載インタビューシリーズ「バイタルエリアの仕事人」。第32回は、愛するFC町田ゼルビアのJ1昇格を花道に、今季限りで18年間のプロ生活に終止符を打った太田宏介だ。

 前編では黒田剛監督が率いる町田の快進撃の理由、気になるセカンドキャリアについて訊いた。後編ではまず、攻守の要であるバイタルエリアでの意識を語ってもらった。

【バイタルエリアの仕事人】vol.35 太田宏介|「理想よりも現実」黒田ゼルビア躍進の背景に美徳度外視のリスク回避。気になるセカンドキャリアは…

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 僕は攻撃が好きなので、攻撃におけるバイタルエリアでの工夫、アイデアはすごく意識してやっていました。クロッサーとしては、バイタルエリアに入る前に一撃でクロスを上げられるように、精度、質は求めながらやってきました。

 バイタルエリアを制するチームがその試合を制すと思っています。そこの攻略に関しては、今年のFC町田ゼルビアはなかなか攻撃のバリエーションを増やせなかった課題があります。
 
 あと僕実は、ポゼッション、バイタルエリア、くさびとかはプロに入って知った言葉です。でも2012、13くらいのFC東京で(ランコ・)ポポヴィッチ監督は結構足もとで繋ぐサッカーをして、それこそサイドバックがくさびを入れて、バイタルエリアのフォワードに対して入れるとか。それを使った時のメリットや、そこを使うことでこういう攻撃が次に生まれるよっていうのを練習しながら学ばせてもらいました。なかなか理解するのが難しかったですけどね。

 僕は結構、守備的な監督のもとでプレーする機会が多かったので。今年の黒田さんもそうだし、マッシモ・フィッカデンティさんや長谷川健太さんも。守って守って堅守速攻のチームが多かったので、バイタルエリアの攻略を練習で突き詰めるのは、あまりキャリアの中でなかったんですよ。

 僕自身のプレースタイルは大外で張って、高い位置でも低い位置でもボールをもらって、ファーストタッチでまず中を向いて、バイタルエリアは無視してでも、キーパーとディフェンスの間に入れて、アシストするみたいな。それを理想としていたので、あまりバイタルエリアに固執したことはなかったです。

 高校まではMFでプレーするも、プロでは正確無比な左足を武器に左SBとして活躍した36歳は、一時は日本代表でポジションを争った長友佑都への想いも吐露。1歳上のライバルはバケモノのように映ったようだ。

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 高校ではサイドハーフで、負けていたらトップ下をやったり、フォワードをやったりしていました。攻撃的な選手だったので、ミッドフィルダー登録だろうなと思っていたんです。だけど、横浜FCの入団会見で舞台に上がった時に、ネームプレートを見たら「DF太田宏介」って書いてあって。そこで初めて気付きました。「俺、ディフェンスなんだ」って。

 多分サイドバックとして取ってもらったとは思うんですけど、そういう事前の話や、仮契約の時の話も緊張で覚えていなくて。だからすごく驚いた記憶があります。

 高校の国体選抜の時は、サイドバックをやっていたので、少なからず経験はあったんですけど、プロの世界に入って大きな壁にぶち当たって、ポジションに関係なく、練習自体が怖くなったり、パスを受けるのが怖くなったり、そもそもプロのレベルに全くついていけなかった。
 
 ただ2年目に怪我人が相次いで、センターバックとしてJ1の舞台に出させてもらったんです。もちろんプレーのクオリティはものすごく低かったですけど、試合に出られた事実がとても自信になりました。

 でも、今後のサッカー人生、センターバックで勝負は絶対できないと思ったので、3年目に(監督として)来た都並(敏史)さんとの出会いが大きな転機となりましたね。(その出会いがなければ)絶対に今はなかったと思います。

 同じ左サイドバックですごさを感じたのは…長友佑都君です。まずは運動量ですよね。あれだけチームのために攻撃も守備も…すごいのはずっと理解していたし、分かっていたけど、代表に入って初めて目の前で、対戦相手としてではなくて、同じチームメイトとして目の前で走り続ける佑都君を見た時に「この人やばいな」と感じたのを覚えています。

 もちろん僕とは全然違った特徴ですけど、「ここから佑都君を超えていかなきゃいけない」なかで、実際超えられなかったっていうのは…僕にとっては大きな壁でした。

 太田は2010年1月に当時の岡田武史監督から初招集を受け、日本代表デビュー。その後、しばらく声が掛からなかったが、14年から16年にかけてハビエル・アギーレ体制とヴァイッド・ハリルホジッチ体制でも日の丸を背負った。

 結局、7キャップで代表定着は果たせず、ワールドカップへの出場も叶わなかったものの、「後悔は全然ない」と断言する。

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 そもそも自分は、僕が入る前はJ2でビリから2番目だった横浜FCの同期4人の中でも、1番評価や年俸も低かったし、本当に底辺中の底辺からスタートしたキャリアだったので。代表に行けたことがミラクルすぎるし、そこで佑都君と比較されたりすることさえも…僕はそれだけでも幸せでした。

 ワールドカップには行けなかったですが、ただ、それが僕の実力だったのかなと思うし、毎日毎日ベストを尽くしてきたので、そこに対しての悔しさや未練は全くないです。
 
 今の森保ジャパンに関して言えば、やっぱり前の選手が強烈で、ほとんどトップリーグでプレーして自信も持っていますし、海外選手との試合経験というか、慣れですよね。普段のリーグからそういうところで戦っている分、本当に対等に戦う姿を見て、すごいなって思っています。あとは追加招集で呼ばれた選手とか、すぐ使ってくれていいなって。その1キャップって超大事ですからね。

 今は森保さんが招集した選手を、たくさん使ってくれますけど、ハリルさんやアギーレさんはメンバーをほぼ固定して、招集した選手を全員使うような監督ではなかったので。親善試合ですら出られなかったですからね。

 気になる選手は、やっぱり一緒にやった選手。(久保)建英や、伊藤洋輝も名古屋で一緒ですし。洋輝は磐田からローンで来ていましたが、全然試合に出られなくて。ただ持っているものはすごかったし、身体もできていた。

 洋輝は当時からずっと「ヨーロッパ行きたい。ヨーロッパ行きたい」って言っていて。あいつ、洋輝のひろって「洋」、ヨーロッパじゃないですか。「ヨーロッパで輝く」と書いて洋輝なんですよ。「ヨーロッパで輝かなきゃいけないのに、なんで名古屋でくすぶっているんだ」みたいな会話をふざけてよく話していました。どんどん、どんどんキャリアを伸ばしていったから、「すみません、洋輝さん」って感じですけど(笑)。

※このシリーズ了

取材・構成●有園僚真(サッカーダイジェストWeb編集部)