平気で「無謀な登山」に挑む人たちが溺れる"快楽"
登山者の遭難や事故が過去最多となったのはなぜなのか(写真:yuuno177/PIXTA)
登山者の遭難や事故が後を絶たない。コロナ禍のアウトドア志向の高まりと、その後の登山人気が再燃したことが影響しているようだ。
昨年の山岳遭難は、発生件数が3015件(対前年比380件増)、遭難者3506人(対前年比431人増)となり、統計の残る1961年以降最多となったという(警察庁調べ)。
「危険だが快感を伴う行為」の危うさ
遭難者のうち40歳以上が8割弱で、60歳以上が過半数を占めているほか、年を追うごとに単独登山者の人数が増えており、遭難者に占める単独登山者の割合も増加傾向にある。ニュースで話題になるたびに、周囲の人々や関係機関などに多大な負担を強いることから、批判の的になることが多い。
確かに識者からは準備不足や過信などが指摘されており、体感的なリスクと実際のリスクのずれが悲惨な結果を招いていることは間違いないだろう。しかし、それだけでは物事の一面しか語っていない。「自らリスクに飛び込む興奮」に無自覚であることが心理的な背景として考えられるからだ。
近年、スカイダイビングやロッククライミング、モータースポーツなど「危険であるが快感を伴う行為」を指す「エッジワーク」(edgework)の観点から、人々がリスクを取る動機を解明する研究が進んでいる。登山は、レジャーにカテゴライズされがちだが、そもそも危険なスポーツであることがあまり認識されていない。
山に登ること自体に喜びや楽しみを見い出し、人格形成や精神への影響など、人生の糧に位置づけるような近代登山は、18世紀にヨーロッパで登場した。日本にもその思想が輸入され、少しずつ大衆化していった。ここで確立されたのは、自らの技術と経験によって山を「征服」し、自然の美に「開眼」する様式だ。
エッジワークは、社会学者のスティーブン・リンが提唱したリスク社会学の概念である。リンは、大半の人々がリスクを最小限に抑えようとする一方で、スポーツなどで怪我や死のリスクを積極的に高める人がいるという逆説を解くカギとして、「経験そのものが持つ強烈な魅惑性」に着目した(Stephen Lyng“Edgework:The Sociology of Risk-Taking”Routledge)。
これには、2つの方向性がある。1つは社会的な役割からの逸脱であり、もう1つは複雑化し専門化し、なおかつ移り変わりが激しいゆえに柔軟性を求められる現代において、よりよく機能するための基礎的なスキルの涵養である。わかりやすく言い換えれば、「解放性」と「自己啓発性」になるだろう。
山を征服したいという欲求
ここで重要になるのは、自分自身のスキルを使ってリスクを管理し、対処することから得られる刺激と満足である。
心理学者のマイケル・アプターは、「登山家が、登山の初めの長く退屈な時間に喜んで耐えようとするのは、彼(彼女)が経験している、山を征服するという高まっていく気持ちが、(その人が覚醒を求める状態にいたとしても)その時点では興奮することよりも大切だからである」と述べる(『デンジャラス・エッジ 「危険」の心理学』渋谷由紀訳、講談社)。
アプターは、安全・危険・外傷の3つのゾーンを示し、危険と外傷の間の境界線を、「危険のふち(dangerous edge)」と呼ぶ。
興奮を求める心理状態は、危険のふちの内側に沿って、心理的なプロテクティブ・フレーム(保護枠)があると想像できるという(図)。
(図)『デンジャラス・エッジ 「危険」の心理学』より
このフレームのおかげで、危険のふちから落っこちることはないだろうと主観的に感じられるのだ(同上)。
これが「強い覚醒」を促すのである。登山家のクリス・ボニントンが、「登山から感じる興奮というのは、危ないことが起こるところまで出かけていって、そこで自分の力でその危険を防ぐことだ」と言っているように、自発的にリスクを取ったうえで、その状況をコントロールできるという自己効力感が興奮をもたらすのだ。
ただし、前述の通りこれは主観的なものに過ぎない。自分が危険ゾーンにいるのか、安全ゾーンにいるのかは、本人の感覚的なものに依存するため、安全ゾーンだと思っていたら、外傷ゾーンに踏み込んでいて命を落とすということがあり得る。しかも、登山における3つのゾーンは流動的で、短時間で終わるスポーツと異なり長時間である。
もちろん、登山の難易度にもよるが、登山者が未熟であれば、体力や天候など多様な変化の悪影響を受けやすく、場所やその状態によって、ゾーンは絶えず安全と危険を上下しており、外傷のリスクは瞬時に訪れる。だが、内側から湧き起こる充実感は、それらすべてを覆い隠す麻薬として作用する恐れがあるのだ。
そして、偶然にせよ事故が起こらなかったことが容易に成功体験に転化しやすく、さらなる危険ゾーンへの挑戦を後押ししかねない。前掲書のリンの言葉を借りるならば、さまざまな困難を自力で切り抜けられたことによる高揚感が生じ、「自分自身の能力に対する顕著な感覚」が芽生えるからだ。このようなコントロール感は強力な魔力となる。
人はなぜ無謀な登山に挑むのか
その場合、「解放性」と「自己啓発性」は、フレームを狂わせる背景要因にもなり得る。通常の社会生活では体験できない自己への感覚の集中と社会システムからの離脱は、身体の再発見という健康志向や、環境と一体化する自然志向の高まりと相まって、過剰な刺激や没入感の追求を促進するかもしれない。予期できぬ脅威や心理的なプレッシャーを適切に管理できるという信念が強化され、ますますハイリスクな行為を助長するかもしれない。
実のところ、エッジワークにおける逸脱行動と自己効力感の抗いがたい魅力は、怪我や死のリスクがあるスポーツだけにとどまらない。エッジワークという言葉は、ジャーナリストで作家のハンター・S・トンプソンによる造語で、生と死、正気と狂気といった境界を指している。これが犯罪や金融、スポーツなどにまで用いられるようになった経緯がある。
わたしたちは表面上、リスクを避けているように見えて、不思議と進んでリスクを取る行動に熱中することがある。もちろん、それが楽しいからであり、興奮がもたらされるからだ。アプターは、その例として落書きなどの「ヴァンダリズム(公共物破壊)」、危害を受ける人々が相次ぐ「祭り」、万引きなどを挙げる(前掲書)。
とりわけ多様なストレスや不安にさらされ、仕事や家庭における無力感や、漠然とした孤独感などを抱えている人々にとって、エッジワーク的な快楽は、自律性を取り戻す代替的な手段として有望なものに思えてくるだろう。新たなフィールドに飛び込むことで、新たな価値観、新たなアイデンティティを得る側面を併せ持っているからだ。
リンは、ハイリスクスポーツの参加者に「エリート主義的志向」を見い出し、自分たちのスキルを生まれつきのもの、本能的なものだと考えていることを指摘したが、これは登山に限らず、虚栄心や承認欲求の問題はスポーツ全般にみられるものともいえる。技量や記録などによるレベル分けによるヒエラルキーへの固執が典型だ。
スリルを娯楽として享受する心理
根本的な課題として残るのは、エッジワーク的なものに対する自覚のなさと、エッジワーク的なものの否認による弊害である。
人々は、プロテクティブ・フレームに守られていると思える場合、スリルを娯楽として享受する心理傾向があるが、それは客観的なものではないという真理に鈍感なままエッジワーク的なものにのめり込む懸念だ。
否認に関しては、アプターの見解が参考になる。「社会は、個人的な危険を冒したいと思っている人たちの邪魔をするのではなく、助けたほうがいい」「ただし、ほかの人たちに害を与えたり、社会自体を危険にさらしたりしてはいけない」と主張しているからだ(前掲書)。この結論を踏まえると、能力的に無謀な登山は、「他者を危険に巻き込む」という意味において非常に微妙なものとなる。
しかし、エッジワーク的なものを取り締まることは賢明ではないだろう。規制したところで、おそらくは別の形、いびつな方法でエッジワーク的なものが開発され、流行する可能性が高いからだ。
そうであるならば、わたしたちは、自らの心性を直視したうえで、エッジワーク的な欲求を満たすことができる安全な遊び場という、酩酊できるノンアルコールビールとでも表現すべき矛盾を追求すべきなのかもしれない。だが、そのようなことが実際に可能かどうかに関係なく、本物の危険こそが現実を耐え得るものにするスパイスだと知っている人々は、紛い物を通り過ぎていくのだろう。
(真鍋 厚 : 評論家、著述家)