松浦弥太郎が「教養の圧」から距離を取る納得事情
(写真:Fast&Slow/PIXTA)
厳しい競争社会で誰もが勝者になれるわけでもない時代をどう生きればいいのか――。松浦弥太郎さんが提案するのが「エッセイストという生き方」です。エッセイを通して日々の暮らしや自分自身との向き合い方を考える書籍『エッセイストのように生きる』より、一部抜粋・再構成してお届けします。
「知る」と「わかる」を区別する
何年か前にアメリカで出版された、『Learning How to Learn』という本があります。「学び方を学ぶ」というタイトルを見たとき、まさに現代を生きる僕たちにとって必要な姿勢だと膝を打ちました。
いまの世の中は、スマホやパソコンを使えば労力をかけなくても、あらゆることがものの数秒で「知れる」ようになっています。知ること自体は気持ちがいいし、賢くなった気にもなれる。生活も仕事もうまくやれるようになりますから、いい時代だと思われるかもしれません。
しかしながら、次から次へと情報をインプットすることがあたりまえになったことで、ほんとうに「わかった」ものはどんどん減っているように僕は感じています。
「知る」と「わかる」は、まったく違うものです。
ここから少し言葉を尽くして、考えるための情報とのつきあい方についてお伝えしていきたいと思います。エッセイストのように生きるうえで、避けては通れないテーマですから。
内田樹さんが著書『街場の読書論』(太田出版)で、本の読み方についておもしろい考察をされていました。
内田さんによると、読書には「文字を画像情報として入力する作業(=scan)」と「入力した画像を意味として解読する作業(=read)」があるのだそうです。
前者は、さながらプリンタのスキャンのようなもの。「しっかり咀嚼して消化する」のではなく「そのまま飲み込む」イメージです。新聞の斜め読みはまさに「scan」で、そこで自分のフックに引っかかった文字情報があれば、文章を深く読み込んでしっかり理解する「read」にスイッチするというわけです。
もう一度「read」の時間を取り戻す
僕はこの「scan」は「知ること」、「read」は「わかること」と重ねて考えました。
内田さんは両方の役割を説明しつつ、現代の日本教育は「read」に重点を置いてプログラムをつくっているけれど、意味を追い求めずただ眺めるだけの「scan」の読書も大切なものだ、という主張をされていました。
学校教育に関してはそのとおりかもしれません。でも、この本が出版されてから10年以上経ったいま、残念ながら大人の「non-read」は加速しているように感じます。
「scan」ばかりが盛んになっているけれど、もう一度「read」の時間を─「わかる」を─取り戻すことに意識を向けたほうがいいのではないでしょうか。
これは読書だけでなく、あらゆる情報に対しても同じです。
いま、多くの人があたらしい情報に触れることばかりに夢中になっています。ひとつのできごとやニュース、コンテンツについてじっくり考えるのではなく、次々と差し出されるあたらしい情報に意識を向ける。
『映画を早送りで観る人たち』(稲田豊史、光文社)という本はそのタイトルのセンセーショナルさもあり話題になりましたが、実際、スタンプカードを埋めるように「より多く知る」ことをなによりも大切にしている人たちがいるようです。
これは、ひとつの社会問題なのではないかと僕は考えています。
なぜなら、「知る」に熱狂するということは、静かに頭をはたらかせる時間を失ってしまうことだからです。
「知る」時間を減らす
人間に与えられた24時間は、いつだって同じ長さです。知ることに時間をかけるほど、理解する時間は少なくなっていきます。
「わかる」ことは、本質に近づくこと。大切なものが増えていくことです。大切なものが増えていくことは、人生における豊かさのひとつです。
その豊かさを得るためには、やはり、ひとつのことに時間をかけて考えなければなりません。大切なものを深く理解するためにも、「知る」時間を減らして「わかろうとする」時間に振り分けるのがいいのではないでしょうか。
そもそも、「すぐに知れること」はみんなが等しく手に入れられる情報ですから、それほど貴重でもなければ役にも立ちません。
それなのにわかった気になってしまうわけですから、過剰なインプットはむしろ害悪であるとさえ言えるでしょう。
「わかる」ために、たくさんの情報は必要ありません。むしろ少ないほうが、自分の頭の中で問いと答えのラリーをつづけることができます。
いま自分は「知ろうとしている」のか。「わかろうとしている」のか。
まずはその意識を持つことが大切なのです。
「知る」入り口を狭くする
エッセイとは、「知っていること」ではなく「わかったこと」を書くものです。これはとても大事なポイントです。
自分の感情について、愛しているものについて、好奇心を持ったテーマについて、問いから導き出した答えについて、自分なりの理解を記していくもの。
だからエッセイストにとっては、「どれだけ知っているか」よりも「どれだけわかっているか」のほうがずっと大事です。
「わかる」ためには、前項でお話ししたように「知る」時間を減らして「わかろうとする」学びと理解の時間に振り分ける必要があります。
具体的には、インプットの入り口を「狭く」するのがいいでしょう。情報を、ある程度のところで遮ってしまうのです。
芸能人のスキャンダルなどを想像すると、わかりやすいかもしれません。テレビやネットニュースがその件を取り上げて騒いでいるとき、「このニュースを知ることで『わかる』が増えるだろうか」と考えてみるのです。「明日の自分、1年後の自分にいい影響があるだろうか」と問うてみる。
おそらく、答えは「ノー」でしょう。
逆に、1年前、3年前になんとなく追いかけたニュースが、いまの自分に影響を与えているか振り返ってみるのもいいでしょう。時間を無駄遣いしてしまっただけで、なにも残っていない。「わかる」につながっていないのではないかと思います。
だったら、最初から目に入れなくてもいいな、と考える。
そういうふうに、過去と未来をイメージしながら「これは自分にとって大切な情報か」と吟味していけば、自然と「狭く」なっていくはずです。
もちろん、スキャンダルを目にしたときに、たとえば「依存とはどういうものなのだろう」と気になったり、「人が抱く『イメージ』とはいったいなんだろう」といった問いが浮かんできたのであれば、それは大事に抱えるべき好奇心。自分にとって大切なテーマになりそうなのであれば、向き合う価値はあるはずです。
どれだけ「わかりたい」と思うものをインプットするか。
いかに「わかりたい」と思わないものをインプットしないか。
そんな意識で情報に向き合うといいのではないでしょうか。
「教養の圧」から抜け出す
いまの世の中は、「だれもが身につけておくべき」とされる「教養」が多すぎるように感じます。
歴史、音楽、哲学、ワインに映画……学問からカルチャーまで、さまざまな「教養」が僕たちを追い立ててきます。
昔から、教養のある人は一目置かれる存在ではありました。でも、最近はあまり教養のない人やものを知らない人が蔑まれたり、「教養のある人間でなければならない」という圧が強くなったりしているように感じます。
ですから、自分が軽んじられたくないという一心で、「教養を身につけられる」という言葉に飛びついてしまう。知識を詰め込むことに必死になってしまう。
ほんとうにそれほどの知識が必要なのでしょうか。そもそも、インスタントに身につけた「教養」をはたして教養と呼んでいいのだろうかと、首をかしげたくなってしまいます。それはもはや、ただの競争ではないでしょうか。
皮肉なことに、「教養至上主義」が、ほんとうの意味で「考える」ことの妨げになっている気すらしてしまうのです。
「教養」から距離を取る生き方
極端に聞こえるかもしれませんが、エッセイストのような生き方は「教養」から距離を取る生き方かもしれないと僕は感じています。
反教養主義ということではありません。肩の力を抜き、インプットのペースを落とすということです。もっと言えば、ほどよく「あきらめる」ということです。
「理解すること」に重きを置く生き方は、競争に身を置かない生き方です。自分の答えを出すことがなによりも大切だから、「もっといろいろなことを知っておかないと」という声に振り回されない。
教養を押しつけられそうになったとき、あるいは「こんなの常識だよ」と言われたときに、「それについて知らなくても、僕は大丈夫です」と心の中で言える自分でいることが大切だと思います。
「知らない」ということは、恥ずかしいことでも劣っていることでもありません。
だれもがそれぞれに「知っている」と「知らない」を抱えています。昭和の名作映画の知識を持っていなかったとしても、韓国の音楽カルチャーについてはそれなりに詳しいとか、料理については日々考えている、ということはふつうにあるはずです。
凸凹があってもいい。むしろ、凸凹があることが自然です。全方向でインプットしようとすればするほど、「わかる」にはたどり着けません。
なんでもかんでも浅く知るより大切なこと
それに、もし自分が詳しくないことについて知っている人がいたら、教えてもらえばいいだけの話でしょう。僕は疎いジャンルもたくさんありますから、食事会などでそれに詳しい人や好きな人に教えてもらうこともしょっちゅうあります。
でも、そうやって知らないことがあることを「教養がない」と嘲られたことは一度もありません。もちろん僕が詳しいことを教えることもたくさんあるけれど、「ものを知らないな」なんて思ったことはありません。自分が怖れるほど、周りの人は自分をジャッジしていないのだと思います。
なんでもかんでも浅く知るより、自分の中にいくつかの「わかった」があるほうが自分の軸が太くなります。
名作映画を早送りでどんどん観て消化していくのではなく、同じ映画を何度も繰り返し観て、感じて、対話して、考える。そして向き合うことで、自分らしいスタイルがつくられていくのではないでしょうか。
自分で「理解したいこと」と「知らなくていいこと」を選別する。選んだものについては、しっかり考えていく。それ以外のことは、ポジティブにあきらめる。
そんな「疎さ」を守るのも、エッセイストとしてのあり方なのです。
(松浦 弥太郎 : エッセイスト)