この記事をまとめると

■モータージャーナリストの山崎元裕氏が経験した大事件を紹介

■2000年前後のデトロイトショーを現地取材していた際に悲劇に遭遇した

■極寒のデトロイトでレンタカーを停めた場所がわからなくなってしまい低体温症寸前に!?

デトロイトショーで死ぬ思いを経験!?

 それは1990年代も半ばを迎えた頃の話だろうか。この頃になると、自分の仕事は世界のメジャー・モーターショーのスケジュールを中心に動くようになっていた。1月初頭の北米国際自動車ショー(デトロイトショー)、2月末から3月の始めにかけて開幕するジュネーブショー、そして9月に隔年開催されるIAA(フランクフルトショー)とパリサロン。ほかにはシカゴやNY、LAといったアメリカのモーターショーや、ドイツのエッセンモーターショーなど、我ながらよくぞ30年近くにわたって、このルーティーンをこなしてきたものだと思う。

 その張りつめていた心の糸が切れたのは、やはりコロナ禍が理由だった。多くのモーターショーは中止になり、自分自身も海外渡航はしばらく控えようという気持ちになったからだ。

※写真はイメージ

 そのようなモーターショー取材のなかで、死をも意識する事件が起きたのは、2000年前後のことだったと思う。場所はアメリカのミシガン州デトロイト。目的は当然デトロイトショーを取材するためだったのだけれど、その取材も数回目ともなれば飛行機やホテル、レンタルカーなどの手配もスムースに終わる。

 だが、当日のフライトはスムースではなかった。到着機遅れのため出発にも大きな遅れが生じていたのだ。理由は出発地の天候悪化。これがすべての悪夢の始まりである。

 そもそもはプレスデイと呼ばれるメディアの取材日前日に、乗り継ぎを含めてもデトロイト入りできた予定が、この出発遅れで当日の朝にデトロイト着というスケジュールに変わった。まぁその日に着けば被害は最小限に抑えられるだろうと考えながら、長旅で半分意識朦朧とした頭でデトロイトのレンタカーオフィスで安いミドルサルーンをチェックアウトして会場へと向かう。

 道路は順調に流れていたが、会場の駐車場はすでに満車。隣の大きなパーキングビルに誘導されて、車中で着替えたときにふと思う。ここから会場までの5分程度の道のりを我慢すれば、コートは着ていく必要はないな。荷物も最小限にしておこう。

治安が悪い街で乗ってきたクルマが行方不明!

 そうして始まったデトロイトショーの取材。当時はまだプレスキット(各社が用意してくれる、原稿を書くための資料のようなもの)は紙モノが主流で、ブースをまわるたびにその重量が加速度的に増えていく。プレスセンターで配布されていたミシュランの大型バッグもみるみる満タンになり、午後7時頃には初日の取材は終わった。

 満身創痍とはまさにこのことを言うのだろう。とにかく食事をして、ホテルに帰って、ベッドで横になりたい。そう思いつつレンタカーへと根性で歩を進める。けれどそのレンタカーがない。だいたいパーキングビルのどのフロアのどのあたりに駐車したのかも覚えていないし、半ば思考を停止していた脳は、車種もライセンスプレートも、色さえも覚えていないのだ。ホワイトといわれればホワイト、グレーと言われればグレー、シルバーならばシルバー、ブルーならばブルーという、それはかなり曖昧な色だった。

 ちなみにその年のデトロイトや北米には、カナダとの国境であるデトロイト川が凍ってしまうほどの寒波が襲来。だから飛行機も遅れてしまうわけである。きちんと駐車場所を確認しておかなかった自分を恨み、レンタカーの車種さえ覚えていない自分を馬鹿だと思い、そしてコートさえ着ないで会場へ向かった自分を後悔した。けれどもクルマは探さねば。このままでは凍死は間違いないし、当時のデトロイトの治安はこれ以上ないくらいに悪かったのだ。

 途方に暮れながら、重いプレスキットの入ったバッグを肩から背負い、パーキングロットをローラー作戦で大捜索する。途中でレンタルカーのキーホルダーにライセンスナンバーが書かれているのを発見、しかもそれはミシガンではなく、たしかオハイオ州のナンバーだったため、捜索スピードは飛躍的に速くなったものの、それでも意識が徐々に遠のいていくのがわかる。

「これがあの低体温症なのか!?」と思った瞬間、捜索から約1時間をかけてオレはついに自分のレンタルカーを発見した。ドアも開けばエンジンもかかれば、ヒーターからの温かい空気も流れてくる。あぁ、クルマって便利な乗り物なのだなぁと、改めて感じた次第だ。

※写真はイメージ

 以来反省して、空港やショッピングモールなどの大きな駐車場では、駐車時に写真を撮るようにしているが、それでもまだときどき場所や車種を忘れ、空港駐車場をさまよう姿が目撃されている私なのであります。