第1回K-1はCHAGE&ASKAの″リザーバー″だった!【1993年の格闘技ビッグバン!】
ピーター・アーツなど多くのヘビー級スターが生まれ、国民的人気スポーツとなったK-1
【連載・1993年の格闘技ビッグバン!】第7回
立ち技格闘技の雄、K-1。世界のMMA(総合格闘技)をリードするUFC。UWF系から本格的なMMAに発展したパンクラス。これらはすべて1993年にスタートした。その後の爆発的な格闘技ブームの礎を築いた老舗団体の、誕生の歴史をひも解く。
■2勤1休の公演スケジュール
1993年4月30日の『K-1 GRAND PRIX'93』の成功後、K-1の名は瞬く間に世界に広がった。まるで格闘技という名の水にK-1という名の新たな一滴を垂らすと、その波紋が全体に広がっていくかのように。
97年からはナゴヤ、大阪、東京と3大ドームツアーを実施し、「日本から世界へ」というコピーを具現化するかのように、海外でも積極的に地区予選大会を開催するようになった。
それまで立ち技格闘技のカテゴリーは「キックボクシング」と「ムエタイ」に大別できたが、K-1の出現によって第3のカテゴリーが誕生したと言っていい。十数年前、筆者はヨーロッパで「KICKBOXING」「MUAYTHAI」と共に、「K-1」が並列表記された大会ポスターを見かけたことがある。
ヒジ打ちを禁止し、相手を掴んだ状態でのヒザ蹴りを制限することで、パンチによるKOが生まれやすい。そうしたK-1の特性がイベント名というより、ひとつのルールとして認知されていたのだ。
第1回K-1のパンフレット。トーナメントは予想外の結果となり、決勝戦に進出したのは表紙に写真が掲載されていないブランコ・シカティックとアーネスト・ホーストだった
ただ、個人的には「なぜK-1は第1回大会から地上波で放送してもらえたのか?」という疑問が残っていた。ビッグイベントが実現し、それが地上波で放送されるには入念なプロセスや下準備が不可欠であるからだ。
フジサンケイグループが総力を上げて開催したエンタメイベント『LIVE UFO93』の一環として第1回K-1大会が実施されたことはすでに述べた。今回の記事を執筆するにあたり、K-1中継の初代プロデューサーを務めた磯部晃人に話を聞くと、その疑問はいとも簡単に氷解した。
「LIVE UFOのメインアーティストはCHAGE&ASKAで、公演スケジュールは2勤1休の間隔でやることが決まっていた」
当時のCHAGE&ASKAは、91年の「SAY YES」(フジテレビ系ドラマ『101回目のプロポーズ』主題歌)に続き、93年の「YAH YAH YAH」(フジテレビ系ドラマ『振り返れば奴がいる』主題歌)の大ヒットで人気絶頂だった。
ライブスケジュールを見ると、確かにそのリズムでCHAGE&ASKAのライブが代々木第一体育館で実施されていることがわかる。スケジュールは以下の通り。93年4月25日(日)・26日(月)・28日(水)・29日(木)・5月1日(土)・2日(日)・4日(火)・5日(水)。
そうした矢先に局内からこんな意見が出た。
「1休のときがもったいない。何かほかにないだろうか?」
フジサンケイグループとしては是が非でも成功させたいイベントなのだから、そういう声が出るのは当然だろう。集客力のある新たなイベントを組めば、人はさらに集まる。
そこに磯部は、「格闘技がいいですね」とタイミングよく持ち込んだ。
ただ、民放各局には1970年代のキックボクシングブームが残した"格闘技アレルギー"がまだ残っていた。簡潔に表現すると、昭和の興行会社が切りたくても切れなかったという反社会勢力との結びつきである。
実際には関係がなかったとしても、最初は「どうせ裏では関係しているのでは?」という色眼鏡で見られてしまうのだ。そのフィルターを取り外すためには、途方もない労力と時間がかかる。磯部は、何もないところから「格闘技をやりたい」という企画を立てても、けんもほろろに潰されることは承知していた。
「だから2勤1休の"埋め草"から入ったんですよ。言ってみれば、CHAGE&ASKAの"リザーバー"のようなものだったわけです。そうしたら、現場サイドレベルでは割とすんなりと企画が通った。もちろん、石井館長には埋め草などという失礼な言い方はしていませんが」(磯部)
石井館長とは、K-1初代プロデューサーで正道会館館長の石井和義のことだ。企画を出した段階で磯部に勝算はあった。
「ほかに1万人前後の収容人数を持つ会場を満員にできる埋め草のイベントなんて、そうそうあるわけではないですから」
■最初は全日本キックに話を持っていった
磯部は、K-1のスタート以前にも似たようなシチュエーションの中、格闘技中継の企画を通した実績を持っていた。1990年から数年間、全日本キックの興行を深夜枠でイレギュラーながら放送していたのだ。
全日本キックとは正式名称を全日本キックボクシング連盟という。磯部が担当した全日本キックの番組の中には、格闘技史に名を残すことになる佐竹雅昭vsドン・中矢・ニールセンをマッチメークした『INSPIRING WARS HEAT630』(1990年6月30日・日本武道館)も含まれていた。
佐竹雅昭はキックボクシングデビュー戦となる1990年6月のドン・中矢・ニールセン戦に勝利。その3年後の再戦でも返り討ちにした
全日本キックを放送できた理由も、K-1のそれと似通っていた。
「仮に放送時間帯が深夜でも、単発でやるなら編成との交渉が大変になってくる。いきなりキックをやりたいという話を持ち込んでも、『え〜っ、キックですか?』と言われるのがオチだったでしょう」
しかし、持っていき方次第で通る話もある。磯部は、当時毎週月曜深夜に放送していた『マンデースポーツ』という番組に目をつけた。
「編成は枠は出しているけど、放送内容に関していえばスポーツ局にほぼ渡しきりだった。だから全日本キックも割とスムーズに放送することができたんですよ」
「LIVE UFO」での格闘技イベントの話も、磯部は最初は全日本キックに話を持っていっている。興行会社に大きなリスクのある話ではなかったが、なぜか全日本キックが乗ることはなかった。たらればの話になってしまうが、もし全日本キックがやっていたらどうなっていたのであろうか。
磯部は全日本キック側に断りの理由を突っ込んで聞こうとは思わなかった。NOという意志表示に対して深追いする時間はなかったのだ。その代わり、確実にやってもらえるプロモーターを見つけないといけない。
石井に持っていくと、即座に話はまとまった。そうなると、最終段階としてフジテレビの上層部にオーソライズ(認証受け)しないといけない。磯部は石井に「協賛セールス用のプレゼン資料として、実施の概要がわかる企画書を送ってほしい」とお願いした。
送られてきた企画書は、磯部の手元にまだ残っている。そこには「10万ドル争奪」「格闘技世界一決定トーナメント」というふたつのコピーが躍っていた。磯部の目から見ても納得できる名称だった。
「でも、それとは別にもっと親しみやすい名がほしかった。持続性、継続性のあるそれが必要だった」
この時点で「K-1」という名称はまだ生まれていない。次に送られてきた企画書には、K-1とは別の名が記されていた。【つづく】
●文/布施鋼治(ふせ・こうじ)
1963年生まれ、北海道札幌市出身。スポーツライター。レスリング、キックボクシング、MMAなど格闘技を中心に『Sports Graphic Number』(文藝春秋)などで執筆。『吉田沙保里 119連勝の方程式』(新潮社)でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。他の著書に『東京12チャンネル運動部の情熱』(集英社)など
文/布施鋼治 写真/長尾 迪