伊賀越え資料館(写真:マーちゃん / PIXTA)

NHK大河ドラマ「どうする家康」の放送で注目を集める「徳川家康」。長きにわたる戦乱の世に終止符を打って江戸幕府を開いた家康が、いかにして「天下人」までのぼりつめたのか。また、どのようにして盤石な政治体制を築いたのか。家康を取り巻く重要人物たちとの関係性をひもときながら「人間・徳川家康」に迫る連載『なぜ天下人になれた?「人間・徳川家康」の実像』(毎週日曜日配信)の第31回は家康の三大危機と言われる「伊賀越え」で発揮された、家康のリーダーシップ力について解説する。

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「切腹する」と言って譲らない家康

知恩院へ入って追腹を切る――。

知恩院とは、松平家が代々信仰してきた「浄土宗」の総本山である。

1582年6月、「本能寺の変」で織田信長が明智光秀よって討たれると、動揺した徳川家康が「信長の後を追い、切腹する」と言い出したのだから、重臣たちも慌てたに違いない。

いかにして、家康の切腹を止めるかにおいて、家臣のチームワークが発揮されることとなった。口火を切ったのは猛将・本多忠勝である(前回記事「家康が「自決も覚悟」本能寺の変直後に下した決断」参照)。

一時は本当に知恩院に向かい始めた家康一行だったが、先導していた忠勝が足を止める。そして、「徳川四天王」の最年長者である酒井忠次のところに行き、「信長の恩に真に報いようと思うのであれば、まずは本国に帰り、軍勢を率いて光秀を討つ、それこそが大切なのではないですか」と告げている。


京都知恩院(写真: 1061583 / PIXTA)

すると忠次は「年長の私たちはそこまで思いつかなかった。恥ずかしいことである」と反省。忠勝の意見をすぐさま、家康に伝えたという(『三河物語』)。

しかし、それだけでは、説得しきれなかった。家康はなおも食い下がっている。

「弔い合戦で討ち死にするのと、知恩院での追腹とでは、確かに雲泥の差だ。だがこの供回りだけで三河へ戻るのは難しい。途中で匹夫の矢に当たって死ぬよりは、追腹のほうがまだマシだろう」

家臣たちの気持ちはわかるが……というスタンスで、なおも切腹を主張する家康。頑固な主君に、家臣たちも必死に知恵を絞らざるを得ない状況となった。

キーマンとなった織田家の家臣とは?

「何とかしなければならない」というムードのなか、織田信長の家臣である長谷川秀一が、こんなことを言い出した。秀一は信長から堺見物の案内役を命じられて、家康一行に付いていた人物である。

「敵を一人も手にかけないのは無念です。三河に向かう道筋には、私の知り合いが多くいます。私がご案内いたしましょう」

幼いころから信長のもとに仕えて「竹」と親しく呼ばれていた秀一だけに、このまま引き下がれないという思いが強かったのだろう。すると、酒井忠次だけではなく、やはり古参の石川数正も一緒になって「我が意を得たり」とばかりに、家康にこう畳みかけている(『徳川実紀』)。

「それならば、忠勝の言う事に従い、道案内は長谷川に任せるとよいでしょう」

家臣たちにこうまで言われては、家康も考えを改めざるを得ない。自決をやめて、生き延びる道を模索することになる。

もしかしたら、すべては家康の思惑通りだったのかもしれない。なにしろ、生半可な気持ちでは、打開できない事態である。信長を討った明智勢にも、落ち武者狩りにも見つからずに、三河まで戻らなければならないのだ。

現に、それまで家康と行動をともにしていた穴山梅雪は、運命の別れ道で選択を誤り、命を落としている。家康から「これまで従ってきたのだから、帰りも連れていこう」(『徳川実紀』)と言われたにもかかわらず、信じ切れずに別行動をした結果、「物取共が打ち殺す」(『三河物語』)、つまり、落ち武者たちに殺されてしまった。家康となれば、その首をとった見返りも大きい。逃げおおせるのは並大抵のことではない。

だからこそ、窮地からの打開策をリーダーである自分が考えて提案するのではなく、自ら切腹を持ち出してまで、それぞれの家臣たちに必死に考えてもらう必要があったのではないか。

というのも、約10年前に武田信玄と戦った「三方ヶ原合戦」(1573年)では、家康は痛い目に遭っている。重臣たちが「敵の人数は3万余りあり、信玄は熟練の武者です。ひるがえってわが軍はたったの8000にすぎません」と、止めたにもかかわらず、家康は追撃を決意。次のように檄を飛ばして、家臣たちを奮い立たせようとした(『三河物語』)。

「敵は多勢無勢で結果が決まるとは限らない。天運のままだ」

しかし、その結果、惨敗して窮地に追い込まれている。さらに10年さかのぼった1563年には、自分が断行した政策によって「三河一向一揆」が引き起こされている。家臣たちが内部分裂してしまうという苦い経験もした。

窮地に陥ったときほど、リーダーは冷静になることが大切。迷いを振り切るように、一人で決めるのは得策ではない。忍耐強く、ボトムアップで意見を募り、自身は「命令者」ではなく「実行者」になるべし、と家康は腹を決めたのだろう。

家康の普段の行いもピンチの打開に

長谷川の案内によって、伊賀国の険しい山道を越えて、三河へと向かうことになった家康一行。落ち武者対策には、伊賀出身の家臣、服部半蔵こと服部正成が、見事な働きを見せている。動員した忍びは200人にもおよび、家康を守らせた。

伊賀越えのルートには諸説があるが、本能寺の変から2日後の6月4日には、伊勢国白子から船に乗り、三河国に辿り着くことに成功した。『三河物語』には次のようにある。

「伊賀を出られ白子より舟に乗られ、大野へ上陸したと聞き、皆が迎えに参り岡崎までお伴した」

思えば、見事なリレーである。家康の自決を止めるために、本多忠勝が「明智を討つべし」と口火を切ると、重臣の酒井忠次や石川数正がすぐさま賛意を示して家臣団をまとめたうえで、長谷川秀一が具体的な打開策を提示して、さらに服部正成が実現するためのフォローを行う――。

それぞれができることをやった結果、「伊賀越え」という難事業をクリアすることとなった。

一方で、当の家康の働きぶりも無視することはできない。『三河物語』によると、家康がかつて三河へと逃げ込んだ伊賀者たちを助けたばかりか、扶持まで与えたことで、現地で感謝されていたらしい。前年に伊賀攻めを行った信長が、領民をせん滅させようとしたのとは対極的な態度で、家康は領民の心をつかんでいたのである。

大ピンチこそ優秀な部下たちの自発性を引き出し、自身は普段から各方面に恩を売って、いざというときに助けてもらえるような環境にしておく。そんな家康のバックアップ型リーダシップが「伊賀越え」では発揮されることとなった。

武田信玄と同じく人材を大切にした

そのやり方の見本となったのは、やはり家臣の言葉によく耳に傾けたという、甲斐の武田信玄ではなかったか。事前工作で味方を増やしておくのも「戦う前に勝利する」という信玄らしいやり方といえよう。

家康は父も祖父も、家臣に討たれている。信玄は父を自らが追放した格好になったが、実際は家臣たちに担がれてのクーデータだった。

家臣は怖い。だからこそ頭を押さえつけるべし、と統率を重視した信長が、家臣の光秀に討たれた今、家康は信玄と同じく家臣たちを生かさなければと、なおさら確信したことだろう。

しかしながら、どれだけ自分に付き従う者をケアしても、去るときは去ってしまうのだから、無常である。リーダーがつい人間不信に陥りやすいところだ。

重臣の石川数正が家康のもとを離れて、敵対する豊臣秀吉のもとへと出奔するのは、1585年11月。伊賀越えで命運をともにしてから、約3年半後の出来事であった。

【参考文献】
大久保彦左衛門、小林賢章訳『現代語訳 三河物語』(ちくま学芸文庫)
大石学、小宮山敏和、野口朋隆、佐藤宏之編『家康公伝〈1〉〜〈5〉現代語訳徳川実紀』(吉川弘文館)
宇野鎭夫訳『松平氏由緒書 : 松平太郎左衛門家口伝』(松平親氏公顕彰会)
平野明夫『三河 松平一族』(新人物往来社)
所理喜夫『徳川将軍権力の構造』(吉川弘文館)
本多隆成『定本 徳川家康』(吉川弘文館)
笠谷和比古『徳川家康 われ一人腹を切て、万民を助くべし』 (ミネルヴァ書房)
平山優『新説 家康と三方原合戦』 (NHK出版新書)
河合敦『徳川家康と9つの危機』 (PHP新書)
二木謙一『徳川家康』(ちくま新書)
日本史史料研究会監修、平野明夫編『家康研究の最前線』(歴史新書y)
菊地浩之『徳川家臣団の謎』(角川選書)
太田牛一、中川太古訳『現代語訳 信長公記』(新人物文庫)

(真山 知幸 : 著述家)