慶應大学環境情報学部教授の安宅和人氏。『シン・ニホン』『イシューからはじめよ』の著書で知られるテックの賢人が語り尽くす「ChatGPT」「教育」「日本人の未来」(撮影:梅谷秀司)

ChatGPTのブームが収まらない。個人での利用に次いで、今、盛り上がるのは企業での活用だ。7月24日発売の『週刊東洋経済』は「ChatGPT 超・仕事術革命」を特集。いち早くChatGPTを特集した本誌だからお届けできる「最新事情&実践術」シリーズの特集第2弾。

特集では『シン・ニホン』『イシューからはじめよ』の著書で知られる慶應大学環境情報学部教授、Zホールディングスシニアストラテジストの安宅和人氏にインタビュー。ChatGPTなど生成AIの衝撃や、来るAI時代に求められる教育について、語り尽くした。

――生成AIが情報の世界を大きく変えようとしています。

30年前にウェブブラウザーが誕生し、ヤフーがディレクトリ型検索サービスを作り、グーグルがサーチエンジンを作った。利用者がクエリ(検索の際に使う言葉)を打ち込むと出てくるのはリンクで、そこからランディングページに飛び、情報を取得する時代がしばらく続いた。

スマホが誕生すると、状況が少し変わった。スマホは画面が小さく、検索結果のリンクをたどるのは大変だ。そこで検索ワードに関連する情報を自動的に手繰り寄せてコンテンツの抜粋情報が出る形式が普及した。映画だったら、タイトルを検索すると、いつ公開されたか、誰が出演しているか、あらすじを含めて一気に表示されるといった感じだ。

そして今、生成系AIが引き起こしているのは、こうした検索の流れとは全く異なった変化だ。

「ChatGPT」が変えたもの


まず、入力の仕組みが激変した。ChatGPTやBardのような生成系対話AIは、曖昧な問いかけであっても、比較的自然な回答を出せる。これまで「検索」が出せた答えは、もっぱら答えが分かる質問だった。

一方、生成系AIは非常に入り組んだ複合的な問いに対応することが可能になった。こんなに入り組んだコンテキストに応えるのは、これまで出来なかったし、思考の整理を要求するものは入力側がまず考える必要があった。

もう一つ、マルチモーダル化も重要なトレンドだ。「テキスト」「画像」「音声」といった情報の形態をモダリティというが、従来のAIでは画像AIなら画像、文章AIならば文章と、単一のモダリティを処理するものが一般的だった。それらを複数同時に、統合して情報処理できるようになることをマルチモーダル化という。

今も画像を入力すると、それに関連するコメントが可能になることが論文で発表されているが、近いうちに音声も対応できるだろう。逆向きも可能になり、入出力の仕方も、音声で指示を入力すると、映像が出力される、といったようなことが可能になっていく。

マルチモーダルな時代になることは、AIがいっそう人間の持つ能力に近づいているということだ。今はChatGPTが話題の中心だが、オートGPTなどGPTプラスアルファのような複合的なAIの時代が始まろうとしている。AIが非常に賢くなった結果、それを使いこなすためには我々人間にもいちだんと高度な知力が求められる時代が来ていると思う。

――人間側に求められる力は何でしょうか。

AIと共存する社会で求められるのは、意味のある問いを立てること。出力された答えを正しく評価して、さらに正しい指示につなげる、といった力だ。そうした能力を高める上では、情報を統合して理解・識別する「知覚」の深さと質が最も肝心だと思う。

「知覚」は経験から育まれる

例えば「知覚」の最初の段階である感覚はこの世にはない。色はこの世に存在しておらず、あるのは波長だけだ。様々な電磁波のうち、可視光とよばれる非常に狭い波長域だけが我々に知覚でき、波長の違いを色として区別できる。肌触りも我々の肌で触っていて初めて何かがわかるわけで、実は情報はそのようにして我々の心の中で形になっている。「知覚」は、そういう基本的な感覚にもとづき、対象の理解、美的価値の評価、状況把握のような高度な対象の識別まで連続的、複合的に行っている。

この「知覚」は経験から育まれる。新しいことを見聞きする経験や、人付き合いから得る経験、経験に基づく思索などを深めたりしない限り、「知覚」が広がることはない。

日本のカレーライスしか食べたことない人にはインドのカレーは想像しかできない。失恋したことがない人に失恋の意味がわかるわけがない。言葉とか数字になっていないことがたくさんあるということをまずは受け入れる。百聞は一見に如かず。頭でっかちではなく生の体験を重ね、「知覚」を磨くことが大事だ。

――「タイパ(タイムパフォーマンス)」を求める現代人とは正反対の指針ですね。

今は情報量が爆増している。30年前の100倍を軽く超す情報が流れているのではないか。「タイパ」を求める人は、溢れる情報に追いつこうと汲々としている。

ただ実際は、そうして得る情報の多くは「ゴミ」かもしれない。真に価値のある情報を見分けられれば、「見ない」という選択ができる。それが出来ない人は、情報受容のキャパシティが足りなくなり、タイパを追求することになる。

人を”機械"にする教育の時代錯誤

結局、重要なのは「知覚」を磨くということになる。「タイパ」の時代は終わり、「知覚」の深さと質を重視する時代が来る。

――そうした力をつけるため、どういった教育が必要ですか。


安宅和人(あたか・かずと)・慶應大学環境情報学部教授、Zホールディングスシニアストラテジスト/1968年生まれ。マッキンゼー・アンド・カンパニーを経てヤフー。ヤフーにてCSOを10年務めたのち2022年よりZホールディングス(現兼務)。2016年より慶應大学SFCで教え、2018年より現職。データサイエンティスト協会理事・スキル定義委員長。一般社団法人 残すに値する未来 代表理事。科学技術及びデータ×AIに関する公的検討に多く携わる。イェール大学 脳神経科学PhD。著書に『イシューからはじめよ』、『シン・ニホン』ほか (撮影:梅谷秀司)

一人一人が「知覚」を深め、そこから問う力を養い、深い知的体験を得られるような教育だ。だが、今の学校教育はこの部分が非常に薄い。

歴史の授業も、答えだけを教えている。例えばなぜ日本は明治維新であのように破綻したのか、学校の授業だけではわからない。「黒船の来航」、「安政の大獄」といった事柄だけを覚えさせられれば、黒船の来航がどうして安政の大獄のような政治的弾圧に繋がるのか、全くわからないままだろう。

計算ドリルみたいなものを、繰り返しやらせる教育も疑問だ。与えられた問いに早く正確に答えを出す力の価値は急激になくなっている。何の計算をしているか理解するのは大事だが、計算を100回やって100回正しい答えが出せる能力は、すでにほぼ不要だ。

「心のベクトル」という言い方を私は以前からしているが、その人なりの問題意識や、気持ちを伸ばす方向で人間を育てることがより重要になる。十把ひとからげではなく、10人いれば10通りの教育がある。軍事教練の延長で「気をつけ!前へならえ!」を今なおすべての子供たちに課している国はOECD(経済協力開発機構)のどこにもない。力で個性を抑えつける教育は根本的に間違っているし、なくなるべきだ。人間を”機械“として育成するのを改め、素直にやりたいことがある人間を育てる方が大事になる。

その中で先生が説明できない隙間を埋めるためにLLM(大規模言語モデル)を使うのはすごく有用だと思うし、関心の赴くままに調べまくることは信頼できる人間があまりいない状況では特に大事だ。

――教育システムの課題をどう考えますか。

私が学習指導要領の前文を読む限り、あまり違和感はない。でも、教育現場がなぜかそうなっていないということに大きな問題があって、「こうした人を育てたい」という方針と現実とに激しいギャップがあるのだと思う。 

「安宅さん、軍隊チックな教育は認めないというけれど、教育者って何十万人いると思っているんですか、ガイドラインなしで回るわけないじゃないですか」みたいな事を教育関係者から言われたこともある。私は素朴にこう思う。「いや、基本的な倫理だけを大切にして、一人ひとりを解き放ってはダメなんでしょうか」。

学校は、家庭だけでは充たせない生の社会体験を積む貴重な場。そこで個人が山のように体験を積んで意味を考えるということに注力させるべきだ。自分の肌感覚で深く理解し、物事への「知覚」を育てる教育に力を入れるべきだ。

バラバラに交流する中でいろんな反応が起きるというのが本来の、人が集まる場の力だ。人と人との関わりから得られる、本当に重要な能力であるインターパーソナルな能力だったり思索を培ったりする時間は、ほぼすべて放課後と休み時間に集中している。一番大事なことは授業時間の外で学ばれている。

「人間のようなAI」は生まれない

――いずれ人間のようなAIが出てくるのでしょうか。

AIと人間は根本的に違う。人間というよりも、「生命」とは違うという方が正しい。生命には意思と知覚が存在しているというのが最大のポイント。大腸菌のような単細胞生物でも意思がある。植物だって光がある方向に伸びていくし水がある方向に根を伸ばす。これが生命の本質だ。

AIは、意思があるかのように振る舞わせることはできるが、それは埋め込んだものであって、あくまで機械。私たちとって、AIは根本的に自動化装置の枠から出ることはなく、しもべ以外の何者でもない。

AIがどれだけ進歩しても、生命のような意思を埋め込むべきでもない。そもそも、そんなものを埋め込んだらすごく使いにくくなるでしょう。AIが「私に対するあなたの指示が失礼だから動きません」「(自動運転中に)あの前方の車の走り方がムカつくから突きたいです」といったことを話してきたら、どうします(笑)。

私たちがイラつくような状況でも、AIは実に淡々と作業をする。これがAIの醍醐味だ。人間はこれまでずっと煩悩から解放される方法とか、心の平静を保つ方法を追い求めてきたが、AIはそれを実現している。その意味でAIは、悟りを開いた、ブッダ状態にあるといえる。AIが「解脱」をしたことで解脱の価値は下がり、対して、解脱をせずに、煩悩とやりたい気持ちを大事にするのが人間の良さということになる。


(武山 隼大 : 東洋経済 記者)