菊地寛(イラスト:本書より)

誰もが知っている文豪たちにも、仕事や勉強、家族や借金取りから逃げた過去があります。しかし逃げた先で、歴史に残る名作が誕生しています。著述家の真山知幸氏の新著『逃げまくった文豪たち 嫌なことがあったら逃げたらいいよ』を一部抜粋・再構成し、菊地寛のエピソードを紹介します。

作家が生来持っているアウトサイダーな気質からだろう。本人が望むと望まざるとにかかわらず、学校や会社からドロップアウトしやすいのが、物書きの性(さが)である。

小説『真珠夫人』が大ヒット

菊池寛もまた例外ではなかった。菊池は、小説『真珠婦人』を生んだヒットメーカーでありながら、文藝春秋社を創業して実業家としても成功している。そう聞くと、なんだか社会性がありそうだが、行動はやはりぶっ飛んでいた。学生時代は、素行の悪さから二度も学校から除籍されているし、経営者としても常識外れな言動で、社員をあきれさせている。

もっとも菊池の場合は、最初から落第生だったわけではない。図画や習字を除けば、どの科目も成績優秀。また母が芝居好きだったこともあってか、作文や俳句といった創作も得意で、中学時代には懸賞作文で入選を果たしている。さらに菊池はテニスや野球とスポーツにも打ち込んだ。

香川県の没落士族の家に生まれたため、生活の貧しさから修学旅行にも行かせてもらえなかったが、それでも菊池は生き生きとした青春時代を送っていた。

ところが、中学卒業後、東京の高等師範学校に進学すると、状況が一変する。学校の校風が非常に厳格で菊池の性格と合わなかったのである。菊池は、教科書を持ってこなくなったばかりか、授業を抜け出しては、母譲りの芝居趣味に走った。学校側は観劇そのものもよしとしておらず、再三にわたって注意するが、改善は見られない。

ある日、授業をさぼってテニスをしているところを先生に見つかってしまう。詰問された菊池は「頭が痛くて休んだが、テニスをすれば治ると思った」と、ヒドい言い訳をしている。反省が見られない菊池に学校側も業を煮やし、とうとう除籍処分が下されることになった。

大学に行かず、養子縁組も解消

将来の見通しが立たなくなった菊池は、地元の素封家に見込まれて養子に入って学費を確保したうえで、明治大学の法科に入学する。だが、いかんせん法律に興味が湧かなかった。熱意は3カ月も続かず、学校に行かなくなり、養子縁組も解消されてしまう。

どうも真正面から物事と向き合うことができず、結局は逃げてしまう菊池。その後、なんとか挽回しようと猛勉強して一高(現在の東京大学)に入学するが、1年で退学している。ただ、このときばかりは菊池に非はなかった。友達の窃盗をかばい、自ら罪をかぶって退学の道を選んだのだ。

これは、のちに「マント事件」として文壇で知られることになる。不器用でうまくは立ち回れなかったが、菊池にはそうした一本筋が通ったところがあった。

菊池は新聞記者として働きながら、小説も執筆。文壇デビューを果たすと、『時事新報』を退職して、友人の芥川龍之介による働きかけで、『大阪毎日新聞』の客員となっている。

すでに専業作家としてやっていけるだけの実績は十分にあったものの、菊池は慎重だった。貧乏で困窮した幼少時代が忘れられなかったからだ。そんな菊池だからこそ『真珠婦人』や『父帰る』で流行作家になり十分すぎる成功を収めると、こんな思いを抱くようになる。

苦労人の若い作家のために、原稿を書く場を与えられないか、と……。

菊池は1923年に、私財を投じて文藝春秋社を創業。雑誌『文藝春秋』を創刊する。創刊号には、菊池と芥川のほかに、今東光(こんとうこう)、川端康成、横光利一、直木三十五(なおきさんじゅうご)など合計19名が、執筆陣に名を連ねた。現代を生きるわれわれから見ればかなり豪華なラインナップだが、当時の文壇においては、菊池と芥川以外は無名の作家だった。


そうして菊池の個人雑誌からスタートした『文藝春秋』は大反響を呼び、飛ぶように売れた。3年後には旧有島武夫邸を借りて菊池の自宅から分離している。しかし当時の文藝春秋社は、「社」を名乗ってはいるものの、一般の会社からはほど遠いルーズな環境だった。

午後5時から出社するようなツワモノもいれば、将棋やピンポンをして遊んでばかりの社員もいた。あまりにゆるすぎるので、菊池は出社時間の厳守と、仕事中の将棋とピンポンの禁止を社員たちに命じている。

怠けていた社員たちもこれで気が引き締まった、かと思いきや、誰よりもこの禁止令でストレスを感じていたのが、ほかならぬ社長の菊池寛だった。

「将棋禁止令」を自ら作って自ら破る

というのも、菊池自身いつも夕方の4時から5時に出社していたのだが、社員を叱った手前、早く出社せざるを得ない。加えて、大好きな将棋やピンポンを禁じたのもつらかったらしい。

社長室で好きな将棋を指すこともできない菊池は、煙草を1日に何箱もふかしながら、不機嫌そのもの。あまりに沈鬱な社長の表情に、ある社員が思い切った行動に出る。

菊池に向かって、人差し指に中指を重ねて将棋を指す仕草を見せ、「一番いかがです」と誘ったのである。菊池はすぐにその誘いに飛びつき、将棋がはじまったとか。おいおい……。

自ら作ったルールからも逃げてしまうとは、あきれるばかりだが、そんな遊び心は雑誌作りに存分に活かされた。菊地は『文藝春秋』を大きく育てていくことに成功したのである。


(真山 知幸 : 著述家)