富士山(写真: ばりろく /PIXTA)

NHK大河ドラマ「どうする家康」の放送で注目を集める「徳川家康」。長きにわたる戦乱の世に終止符を打って江戸幕府を開いた家康が、いかにして「天下人」までのぼりつめたのか。また、どのようにして盤石な政治体制を築いたのか。家康を取り巻く重要人物たちとの関係性をひもときながら「人間・徳川家康」に迫る連載『なぜ天下人になれた?「人間・徳川家康」の実像』(毎週日曜日配信)の第29回は家康の織田信長に対する手厚い接待と、それが招いたとも言われる思わぬ波紋について解説する。

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「火事場の馬鹿力」という言葉があるように、苦境に陥って必死に対応しようとするなかで、思わぬ力が生まれることがある。スポーツで「ジャイアント・キリング」(番狂わせの大物喰い)が起きるのも、ひたすら目の前の強大な敵に死力を尽くすことで、開ける道があるからだろう。

そんなふうに必死になって著しく困難な状況を抜け出すのと同じくらい、いや、時にはそれ以上に難しいのが「物事がうまくいっているときにどう振る舞うのか」ということ。徳川家康にとって天正10(1582)年はそんな年だった。

この年に織田方の滝川一益や河尻秀隆らに攻められて、武田勝頼は天目山で自害。家康にとっても長年の宿敵だった武田氏が、ついに滅びることとなった。

武田氏の滅亡後に、家康は次の手を打つ

信長は家康の働きぶりを高く評価し、駿河一国を与えている。これで家康は、三河・遠江・駿河の三国を領有することとなった。ほっと一息つきたいところだが、家康はいち早く次なる動きを見せている。

武田勢に勝利した信長らが、安土へと凱旋帰国をする際、家康の領国を通ることになった。そこで家康は信長を全力で接待すべく、準備を急ぐ。勝利の余韻に浸るという発想は家康にはなく、次なる手を打つべく、行動を起こしていたのである。

『信長公記』によると、信長率いる織田勢は4月10日、甲府を出発。笛吹川を越えて右左口(うば口)に宿陣する。

家康は道中で、信長軍の兵が担ぐ鉄砲が竹木にあたることのないように、事前に切り払いながら、道を整備して拡張。左右には警備の兵をびっしりと配備したという。

そうして織田勢の安全を図っただけではない。各地にお茶屋などを建てて、贅沢な食事で接待を行った。『信長公記』では、次のように描写されている。

「宿泊地ごとに、陣屋を堅固に建て、二重三重に柵を造り、さらに将兵たちの小屋を千軒以上も陣屋の周囲に建て、朝夕の食事の用意を家臣たちにぬかりなく申し付けておいた」

4月11日、信長は家康の心遣いに感謝しつつ、右左口から女坂を上り、山地に入る。谷あいには休憩所や厩(うまや)を立派に立てて、そこでも酒や肴の接待があったというから、至れり尽くせりだ。山々の道も大木や石を取り払ったうえで、警備を配備した。

随所に見られる家康のもてなし

続いて、柏坂の峠でもやはりきれいな休憩所を用意して、酒と肴を完備。この日は、元栖で宿泊したが、ここもぬかりなく、準備が整えられていた。『信長公記 』には「家康の配慮はありがたいことであった」と記されている。その後は富士山をしっかりと堪能したようだ。

「富士山の裾野、かみのが原・井手野で、お小姓衆たちが無闇やたらに馬を乗り廻して大騒ぎをした。富士山を見ると、高嶺に雪が積もって白雲のようであった。誠に稀に見る名山である。同じく裾野の人穴を見物した」

ここにも休憩所が建ててあり、やはり酒肴がふるまわれている。その後の道中でも、家康のもてなしは随所に見られた。

4月16日には、懸川を出発した織田勢が天竜川に到着。そこで信長は、大いに驚かされることとなる。家康は天竜川に多くの船を用意して、あらかじめ船橋まで架けていたのだ。

「将兵の誰もが家康の努力に感謝したのであって、その功績は言葉には尽くせない。信長が感激し喜んだことは、いうまでもない」(『信長公記』)

念には念を入れた、この対応こそ、家康の真骨頂。大いに満足した信長が、安土城(近江八幡市)に凱旋したのは4月21日のことであった。

ちなみに、1590(天正18)年に、秀吉が北条氏討伐のために、京から小田原へ向かう際も、その道中である三河・遠江・駿河にて、同様の接待を行っている。ここぞというときに「接待力」を発揮するのが、家康だった。

そんな家康の「やりすぎ」なほどの信長への接待が、思わぬ展開を呼ぶことになる。

5月11日、今度は家康のほうが、穴山信君などわずかな家臣とともに、浜松から安土へと向かう。

というのも、この頃、もはや武田氏を警戒する必要がなくなった信長は、中国地方の毛利輝元を討つべく、準備を進めていた。信長が中国地方に遠征する前に、家康は駿河を与えられたお礼を伝えようと考えたのである。


安土城(写真: Cybister/PIXTA)

手厚い接待を受けたばかりの信長としては、きちんとお返しをしなければ、メンツが丸つぶれだ。家康が安土にやってくるにあたって、東海道の大名たちにこう命じている。

「安土への道中、家康に最大の馳走をせよ」

5月15日、家康は安土に到着すると、金子3000枚と鎧300を献上。領地加増のお礼を伝えるという目的を果たすこととなった。

信長が光秀の不手際に激怒したワケ

信長は、家康が安土に到着したら、盛大に接待しようと考えていた。その饗応役に選ばれたのが、明智光秀である。光秀は家康をもてなすにために、京や大阪で珍味をそろえるなど、実に10日間もかけて準備したという。

ところが、毛利の大軍と対峙する秀吉から援軍を求める急報が届き、光秀は饗応役から解任。四国へと向かうこととなった。

『川角太閤記』によると、解任された理由はそれだけではなかった。光秀が家康に提供した魚が腐っていたために、饗応役から外されて四国に向かうことになったという。このときに、激怒した信長が光秀を折檻したため、光秀は信長を倒すことを決めた……というのが、有名な諸説の1つである。

もし、光秀の不手際が事実だとすれば、家康の手厚い接待があったばかりに、信長は「立場が上である自分は、それ以上の接待をしなければ」というプレッシャーから、光秀への激昂につながったのかもしれない。

接待の後、信長は家康に、京都・奈良・堺の町々を遊覧してきてはどうかと勧めている。それに応じて家康は5月21日、安土を離れて京都へと向かう。

これが、信長との最後の時間になるとは、先を見通すことに長けた家康でも、さすがに予測することはできなかっただろう。

【参考文献】
大久保彦左衛門、小林賢章訳『現代語訳 三河物語』(ちくま学芸文庫)
大石学、小宮山敏和、野口朋隆、佐藤宏之編『家康公伝〈1〉〜〈5〉現代語訳徳川実紀』(吉川弘文館)
宇野鎭夫訳『松平氏由緒書 : 松平太郎左衛門家口伝』(松平親氏公顕彰会)
平野明夫『三河 松平一族』(新人物往来社)
所理喜夫『徳川将軍権力の構造』(吉川弘文館)
本多隆成『定本 徳川家康』(吉川弘文館)
笠谷和比古『徳川家康 われ一人腹を切て、万民を助くべし』 (ミネルヴァ書房)
平山優『新説 家康と三方原合戦』 (NHK出版新書)
河合敦『徳川家康と9つの危機』 (PHP新書)
二木謙一『徳川家康』(ちくま新書)
日本史史料研究会監修、平野明夫編『家康研究の最前線』(歴史新書y)
菊地浩之『徳川家臣団の謎』(角川選書)
太田牛一、中川太古訳『現代語訳 信長公記』(新人物文庫)

(真山 知幸 : 著述家)