松平信康を祀る「清瀧寺」本堂(写真: mic1017 / PIXTA)

NHK大河ドラマ「どうする家康」の放送で注目を集める「徳川家康」。長きにわたる戦乱の世に終止符を打って江戸幕府を開いた家康が、いかにして「天下人」までのぼりつめたのか。また、どのようにして盤石な政治体制を築いたのか。

家康を取り巻く重要人物たちとの関係性をひもときながら「人間・徳川家康」に迫る連載『なぜ天下人になれた?「人間・徳川家康」の実像』(毎週日曜日配信)の第26回は「長篠の戦い」後も続いた武田家との攻防、家康の子・松平信康の死について解説する。

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織田信長が今川義元を討ち取った「桶狭間の戦い」(永禄3年5月19日)は、戦国大名間のパワーバランスを大きく変えた。そして「長篠の戦い」(天正3年5月21日)もまた、戦国時代のエポックメイキングな出来事となる。双方を仕掛けた信長はやはり、数多いる戦国大名のなかでも、突出した存在だったといってよいだろう。

長篠の戦いで武田軍を打ち破る

「長篠の戦い」では、かつては「最強」と恐れられた武田軍が、織田信長と徳川家康の連合軍によって打ち破られた。「3段撃ち」という戦法や、織田軍がそろえたという鉄砲の数「3000挺」については、史実ではないとする声もあがっている。だが、信長がいち早く着目した鉄砲が「長篠の戦い」で大いに活用されたことは、異論なきところだろう。

もちろん、兵力の差も大きかった。織田信長と徳川家康の連合軍3万8000人に対して、武田勝頼の軍は1万5000人である。それでも勝頼は「回避すべき」という重臣たちの意見を退けてまで、決戦へと踏み切っている。

その結果、武田軍は惨敗。織田軍と徳川軍では主だった武将の戦死は見られないなかで、武田軍は「武田四天王」と呼ばれたうちの3人が戦死。

北信濃の治世を行っていた高坂昌信を除く、山県昌景、馬場信春、内藤昌豊が命を落とした。そのほか、土屋昌続、真田信綱、真田昌輝などの勇将も戦場で散っている。武田軍は実に数千人にも及ぶ犠牲を払い、壊滅状態へと追い込まれた。

信長と運命をともにした家康は、「長篠の戦い」で奇襲攻撃を敢行。織田軍のバックアップとして、退路を断つことに成功している(前回記事「長篠の戦いで信長を無視「家康の奇襲」成功の裏側」参照)。

長篠の戦いによって、壊滅的なダメージを受けた武田軍だが、総大将の武田勝頼は生き延びている。どれだけ手痛い敗北に終わったとしても、諦めない限り、人生は続く。勝頼は武田家を立て直すべく、手を尽くすことになる。

惨敗後も諦めなかった武田勝頼

惨敗を喫した勝頼は、数百人の旗本とともに退却。すでに奥三河では敗北が知れわたっていたらしい。武田方の諸城に入ることもままならなかった。敗戦によって一変した空気をひしひしと感じながら、勝頼は何とか信濃の高遠城まで退却している。

信濃で勝頼を出迎えたのは、今や「武田四天王」でただ一人の生き残りとなった、高坂昌信である。昌信は勝頼の衣装や武具などを新しいものに交換。勝頼を「敗軍の将」に見せないように取り計らったといわれている。その後、昌信が敗戦処理について勝頼に献策したことが、昌信自身が成立に携わった『甲陽軍鑑』には記されている。

これまでと変わらず自分を慕い、武田家の行く末について考えてくれる存在が、勝頼にとってどれだけ有難かったことだろうか。実際に実行された献策は少なかったが、励みになったに違いない。

勝頼は家臣団を再編して立て直すべく、早々と手を打っている。長篠の戦いの直後に、穴山信君を江尻城に入らせて、駿河支配の拠点とした。

もっとも家康の動きもまた早い。長篠の戦いから6日後には駿府に入り、清見寺の関東付近まで進出。あちこちで火を放っている。そんな家康に負けじと、勝頼も駿府・遠江の諸将に指示を出しており、ここに家康と勝頼との第2ラウンドが開始されることとなった。

最終的に、勝頼は重臣たちにことごとく裏切られて自害する。長篠の戦いでの敗北から武田家滅亡まで、7年の月日を要することとなった。

上記のように、意外な粘りを見せた勝頼を、徳川家康は少しずつ追い詰めていった。武田家との戦いにおいて、存在感を見せたのが家康の嫡男、松平信康である。

長篠の戦いが終わると、武田軍に取られた城を取り返すべく、家康は二俣城、光明城、犬居城と落城させた。さらに、諏訪原城を攻略。そのままの勢いで小山城を攻撃している。『当代記』によると、小山攻めは「織田方に援軍を要請してからのほうがよいのではないか」と重臣に諫められたが、家康が実行に移したという。

それだけ自信があったのだろうが、家康なりの読みもあった。勝頼がこのとき相手にしていたのは徳川勢だけではない。上杉謙信にも備えなければならないため、小山城の後詰めには来られないだろうと考えていたのだ。

しかし、小山城を守備する城将の岡部元信が、徳川勢の猛攻を凌いだことで、戦況は変わっていく。勝頼も後詰めに現れて、大井川に着陣。小山城を包囲する徳川軍を蹴散らすために、川を渡ろうとしてきたという。

家康はすぐさま小山城の攻撃を諦めて、退却を指示。このときに殿(しんがり)を務めたのが、息子の信康だった。「殿(しんがり)」とは、軍が退却する際に、軍列の最後尾で敵の追撃を防ぐ役目のこと。命をも落としかねない任務を、信康自らかって出たらしい。『三河物語』によると、次のように述べたという。

「これまでは敵に向かっていたので私が先陣を切ったが、これからは私が敵を後にして引き上げることにしよう。まずは父上がお引上げください。親をあとにおいて引き下がる子がどこにいましょうか」

信康は最後尾で武田軍を牽制しながら、大井川沿いを後退。危険な任務を見事にやり遂げている。

家康も感嘆した信康の勇猛ぶり

先の長篠の戦いにおいては、17歳にして一隊の大将として出陣した信康。それ以後も、日に日にわが子が成長していることに、家康は手ごたえを感じていた。『徳川実紀』には、わが子の雄姿を喜ぶ家康の言葉が記されている。

「あっぱれ見事な退却である。このようでは勝頼が10万の兵にて攻め来たとしても、我々を打ち破ることはできまい」

これで徳川家も安泰だ――。そんな胸中の声さえ聴こえてきそうである。だが、信康の運命はここから急転直下で、暗転することになる。

武田家を滅亡させるべく活躍していた信康だが、その目的を遂げる前に命を落とす。それも戦場ではなく、同盟者による信長の命令によって「武田と通じていた」という理由で21歳で切腹させられたというから、ただごとではない。

「信康切腹事件」とも呼ばれる、この衝撃的な出来事の真相については、さまざまな説が唱えられている。「信康と家康との対立があった」とする見方もその一つだ。

この場合は、命令の主体は信長ではなく、家康だったことになる。そのほかにも「信長に謀反を疑われて、家康が先手を打って自害を命じた」というような、命じたのは家康だが、背景には信長の意向があったという説もあり、複雑に入り組んでいる。

信康に切腹を命じたのは誰なのか

信康に切腹を命じたのは、信長か家康か――。信康が切腹する半月前、家康の正妻で、信康の母でもある築山殿が輿の中で自害していることから、二人によるクーデター計画があったとも囁かれている。

また別の視点からは、信長が自分の嫡男である信忠と対立しかねない信康に脅威を感じ、あらかじめ排除するべく動いた……という説もある。信康の勇猛ぶりを思えば、これもあり得ない話ではない。

真相はわからないが、それから21年後の関ヶ原の戦いにおいて、こんな逸話が『徳川実紀』に綴られている。前軍を息子の秀忠に任せながらも、自身は後軍として出陣しなければならない状況に、家康はこんな独り言をこぼしたという。

「年老いて骨の折れることよ。倅がいたならば、これほど苦労はしておるまい」

「倅」とは、信康のことにほかならない。後で振り返ってみると、勇猛な信康を失ったのは、家康にとって痛恨の極みだったようだ。関ヶ原の戦いが勃発したのは、慶長5年9月15日。それは奇しくも信康の命日であった。


【参考文献】
大久保彦左衛門、小林賢章訳『現代語訳 三河物語』(ちくま学芸文庫)
大石学、小宮山敏和、野口朋隆、佐藤宏之編『家康公伝〈1〉〜〈5〉現代語訳徳川実紀』(吉川弘文館)
宇野鎭夫訳『松平氏由緒書 : 松平太郎左衛門家口伝』(松平親氏公顕彰会)
平野明夫『三河 松平一族』(新人物往来社)
所理喜夫『徳川将軍権力の構造』(吉川弘文館)
本多隆成『定本 徳川家康』(吉川弘文館)
笠谷和比古『徳川家康 われ一人腹を切て、万民を助くべし』 (ミネルヴァ書房)
平山優『新説 家康と三方原合戦』 (NHK出版新書)
河合敦『徳川家康と9つの危機』 (PHP新書)
二木謙一『徳川家康』(ちくま新書)
日本史史料研究会監修、平野明夫編『家康研究の最前線』(歴史新書y)
菊地浩之『徳川家臣団の謎』(角川選書)
佐藤正英『甲陽軍鑑』(ちくま学芸文庫)
平山優『武田氏滅亡』(角川選書)
笹本正治『武田信玄 伝説的英雄像からの脱却』(中公新書)
太田牛一、中川太古訳『現代語訳 信長公記』(新人物文庫)
黒田基樹『家康の正妻 築山殿』 (平凡社)

(真山 知幸 : 著述家)