相手を言い負かすことはカッコいい、そんな風潮になっていますが…(写真:mits/PIXTA)

最近、子どもたちがやたらと「論破!」と言っていませんか?

2022年末、小学生に人気があるとして「それって、あなたの感想ですよね」というワードが話題となりました。これは“論破王”と称される、匿名掲示板「2ちゃんねる」の創業者で実業家の「ひろゆき」こと西村博之氏の発言からきています。子どもたちが熱心にいう「論破」について、親はどのようにとらえたらいいでしょうか。

本稿は、政治学者で、前著『政治学者、PTA会長になる』が話題となった岡田憲治氏の新刊『教室を生きのびる政治学』より、一部抜粋・編集のうえ、お届けします。

「論破」とは、勝ち負けとは別次元のもの

いま若い層に人気のある、そう、えーと「ともゆき」さんだっけ、あの人が言ってる「論破力」というのが何なのかを考えてみようと思う。

この言葉については、いろいろな話の流れで、売り言葉に買い言葉というやりとりになって出てきたり、まさに若い人たちが、面白がってあまりいろいろ気をつかわずに「はい論破!」なんて使ったりするから、もともとどういうつもりで「論破!」なんて言ってきたのかもだんだんわからなくなっている。

でも、いろいろなやりとりを見直すと、そこで言われている論破というものが、説得するための話の内容やその揺るがない組み立てではなくて、人に説得をするさいの話し方、空気や状況のつくり方の話だということは、もうわかってきている。

議論している人たちの勝ち負けを決めるのは、議論している人たちを観ているテレビやYouTubeの司会者や観客のフィーリングや受け止め方だということ。

だからここで言う「論」を「破る」とは、「言い負かしたという印象を観ている人たちに与える」こと、つまりこれは言論の力じゃなくて、空気づくりの演出力の話だということだ。

理屈の組み立てや、そのスキのなさじゃなくて、「そういう感じと流れをつくり上げる」あの手この手ということになる。人に「なるほど」と思わせるために、いろいろな工夫をすること自体は別にそんなに悪いことじゃない。

わかってほしいという気持ちを表現するためには、大事なところがきたらアイコンタクト(相手の目をしっかりと見る)をとる必要もあるし、大きな声を出さないで、淡々と、そして重要なポイントのところを「わざと声をひそめてゆっくり話す」というのも重要なテクニックだ(これは大学の講義でも僕がよく使う技法だ)。

しかし、これは自分の言いたいことの理屈をきちんと組み立てて、その上でハートを伝えようとする中で生まれてくるものだから、話の内容がウソだったり、事実の裏付けのない決めつけだったり、自分の思い込みを気ままに「みんなも言ってますけど」とすりかえたりすることで、聞いている人に「その気にさせる」ということなら、それはもう議論でも話し合いでもない。

ここには、議論をするために絶対に必要なものがないからだ。 それは、「この言葉のやりとりをすることで、自分のこれまでの思い込みや考えの組み立て方が変わる可能性があるのだ」、「優れた言葉のおかげで自分が成長しうるのだ」という、自分と相手と言葉に対する信頼だ。

「それって、あなたの感想ですよね」

僕が少し前に、知的成長とはメマイを起こすことだと言った意味は、まさにここにつながっている。誰でも自分が強く思い込んでいることに揺さぶりをかけられていることを認めたがらない。なぜならば、その前提が崩れると、自分の主張そのものが動揺してしまうだろうことをどこかでわかっているからだ。正しいと思っていたことが「そうでもなかったのだ」ということに直面するのは、しんどいし辛いことかもしれない。

しかし、それを避けて、あまりに恐れて目をつぶれば、そこで言葉のやりとりをする者としては成長と発展は止まる。恐怖に直面しなくて楽ちんだが、本当はその後にもっと怖い事態、つまり「大雑把で荒っぽくて不正確で思い込みばかりが強いわりに、人の納得を得られない物言いばかりになること」が待っている。

だから知的に豊かに大きくなるためには「自分は間違っているのかもしれない」という慎ましい姿勢と、自分の考えを変える可能性のある他者と言葉への敬意がなければならない。

自分を揺さぶる言葉に会った時には「え?」と思う。それがメマイだ。でも「その後」が決定的なのだ。理屈の組み立てを丁寧にたどっていって、「そういうふうに説明されれば、なるほど自分の考え方も違って見えますね」ときちんとお腹に落として確かめる勇気が必要だ。

だから、議論をする時に一番成長を手放す、議論することの意味を台無しにしてしまうのが次のような言葉だ。痛いところを突かれる、動揺させられる、どこかで自分の言っていることのいい加減さに気づいた時に、勇気がなくて言ってしまうアレだ。

それって、あなたの感想ですよね。

これを別の言葉に言いかえると、「僕は僕の言うことの根拠を再確認なんてする気はないですよ。だって僕がそう思うんだからそうなのであって、あなたはあなたで違うんだから、 それはあなたのフィーリングでしょ? つまり感想なんだから、あなたの負けってことで、 ほとんどの人がそう思ってるはずですよ」になる。

何を恐れているのか? 何がそんなに怖いのか? そして、やっぱり聞いてみたくなるのだ。 あなたは、人と議論をして、そのことで自分が変わりうるのだという前提がありますか?

あるならば、「それは感想でしょ」ではなくて、あくまでも「その主張の根拠」を問うように尋ね返せばいいのであって、相手が言葉を返せないような舞台風景をつくり変えるようなことをして、あなた自身の言葉が研ぎ澄まされたものになる可能性を自分で捨ててしまっていませんか?

もし変わりうる自分という前提がないなら、何のためにあなたは人と議論をするのですか?

「論破」とディベートは違う

そして、一番聞きたいのは次のことだ。

あなたは、他者との議論において本当は何を一番失いたくないのですか? 言い負かして何を得る? 相手を言い負かしたり、誰かが誰かを論破しているシーンを観ることは気持ちがいいのかもしれない。

なぜならば、人は自分の心の中にどんなイライラやフラストレーションを溜め込んでいるかを、自分でもあまり正確にわからないから、そのイライラを解消してくれるような場面や人の行動を観ることでスッキリすることがあるからだ。

自分の代わりにやってくれて、あたかも自分が「はい論破!」って言い負かしているような気にもなってくるだろう。勝った! そういうことはあると思う。僕だって、そういうやりとりを目にした時には(とくにやり合っている片方の人をあまり好きでなかったりした時)、ちょっとスッキリすることもある。

でも、それは思い返せば、わずか10秒くらいの間だ。スッキリした11秒後には、なにやら虚しい、切ない、明日につながらないやりとりに加担してしまったという気持ちが訪れる。

それは、基本的には議論というものとあまり関係がない出来事だ。理屈と理屈を競わせて、どちらの方が論理的に相手の主張の妥当性(なるほどと思える性格)を上回る物言いになっているかをぶつけ合う競技を「ディベート」と呼ぶ。これは、外国、とりわけアメリカの教室でトレーニングのように行われるものだ。

ディベートには、あくまでも自分の理屈を説得的にするための技術を鍛えるという目的があるから、ゲームのような発想が必要で、そのために自分の気持ちとは逆の立場にチームを入れ替えて競い合うようなこともなされる。あくまでも技法の熟練のためだ。

そういうトレーニングを僕は否定しないし、実際に大学1年生の少人数教室でかつて「電車の中での化粧は許されるか否か?」というディベートをしてみたことがあった。熱く主張した直後に、「はい! 反対と賛成を入れ替えてもう一度やってみよう!」と言った時の学生の戸惑う顔はおもしろい。

「いや、先生! 無理っすよ。心にもないことは言えないです!」と苦しそうに言うので、「心にもないことを、あたかも正しいことだと、冷徹に言えるようになる訓練だからやってね」と説明した。けっこうできる。

でもこれは、技術のトレーニングだ。その土台には、「そもそもどうして話し合いなどするのか?」というものがあって、そこに先ほど言った自分と他者と言葉への信頼が存在しないなら、テクニックはあるけどハートがないロボットが目的のない勝敗決めをしているだけになる。

臆病なやりとりを格好よく言い換えただけ

勝つ? 何に勝つのか? 勝つと何が得られるのか? 

負ける? 負けると何を失うのか? 負けると終わりなのか? 何が?


そろそろわかってくれたと思う。 論破力とは、言い方や雰囲気を通じて相手を嫌な気持ちにさせて、自分が変わろうとする勇気を封じ込めてしまうとても臆病なやりとりを、格好よく言い換えたものにすぎない。

でも僕は、この言葉を不適切に使う人たちを決して責めたくはない。論破力という言葉は、心が苦しいと感じている、自分と同じ、勇気が少し足りない人間が頼りにする(だからこそ)「強い言葉」だからだ。

でも、本当に強い者には、強い言葉は必要ない。「はい、論破!」と言って、苦しい気持ちの誰かが、何かを守っている。責めてはいけない。彼・彼女らを守ってやらねばならない。

(岡田 憲治 : 政治学者/専修大学法学部教授)