織田信長・足利義昭の関係悪化は「十七カ条の異見書」ではなかった?現代の新説について解説【どうする家康】

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対立のきっかけ

織田信長と、室町幕府の15代将軍である足利義昭は、最初こそ蜜月を保っていたものの、のちに敵対するようになりました。

織田信長の銅像

今までの日本史の見方では、二人の関係が冷え込むことになった大きなきっかけは「十七カ条の異見書」だと言われてきました。そして両者は衝突し、義昭は京から追放。室町幕府はここで滅亡したとされています。

しかしこの経緯についても、最近は新しい説や別の見方が唱えられています。

二人が対立するきっかけになった十七カ条の異見書は、1572年9月に信長が義昭に対して提出したものです。

足利義昭と関わりが深い安国寺の山門

そこには、「信長がこれだけ勧めても朝廷へ参内しないとは何事か」「農民もあなたを『悪御所』と呼んでいる理由をよく考えるように」などと、義昭の行動を厳しく批判する内容が書いてありました。

さらに信長は、それを義昭に提出するだけでなく、各国の大名にも送っていたのです。義昭はこれでプライドを傷つけられ、信長を討つことを決めた、というのがこれまでの見方です。

織田信長、包囲される

その後の展開は周知のごとくで、1573年に義昭は反信長派の大名たちに挙兵を呼びかけます。これには武田信玄、浅井長政、朝倉義景、比叡山延暦寺、本願寺などが含まれていました。

こうして信長包囲網が敷かれ、さすがの信長も慌てますが、彼は京の二条を焼き討ちして義昭へ講和を迫ります。そして一時停戦となった後、武田信玄が病没したことで勢いを盛り返した信長は、宇治の槇島城に立てこもっていた義昭を攻め、降伏させると京から追い出したのでした。

原因は「十七カ条の異見書」?

事の経緯は以上の通りですが、そもそも信長と義昭が決別した理由は十七カ条の意見書だけではなかったのではないか、と近年の研究では考えられるようになっています。

では本当の理由は何なのかというと、三方ヶ原の戦いで信長が援軍を送ったのに家康が負けたことで、義昭の周囲では信長よりも武田信玄を支持する者が増えたからではないか、という説があります。

甲府駅前の武田信玄の銅像

他にも、信長が武田信玄の方に気を取られていたため、義昭は京の警備を信長に任せておくことを不安に感じたのではないか、とも言われています。

そういった空気が先にあったため、信長は十七カ条の異見書によって義昭を牽制したということです。

また、信長に義昭が敗れたことで、室町幕府はそこで滅亡したと言われています。しかし京を追放されてからも義昭の影響力は依然として残っており、その後も諸大名に信長討伐を呼びかけています。

本当の意味で室町幕府が滅んだのがいつの時点なのかというのは、諸説あるのが現状です。

参考資料
『オールカラー図解 流れがわかる戦国史』かみゆ歴史編集部・2022年