全階層で所得低下「共同貧困」に陥った日本の末路
日本で賃金が過去25年間もほとんど上昇しない真の原因はどこにあるのでしょうか(写真:)
今、日本ではしきりに物価高が叫ばれているが、世界的に見れば日本の物価は相対的に安くなってきている。さらに、賃金もこの25年でほとんど上昇しておらず、経済停滞が叫ばれている。元IMFエコノミストで、『51のデータが明かす日本経済の構造 物価高・低賃金の根本原因』著者の東京都立大学教授の宮本弘曉氏は、「日本では十分に資本主義が機能していない」ことを指摘し、それこそが日本経済停滞の要因だと語る。本記事では、日本経済の構造的歪みを各種データから検証する。
日本の「物価高・低賃金」の根本原因はどこにある?
今、世界は歴史的な物価高に覆われています。アメリカでは2021年に物価が急上昇し、2022年6月にはインフレ率が9.1%と約40年ぶりの水準に達しました。その後、インフレ率は若干縮小しましたが、9月に8.2%と依然高い水準となっています。欧州諸国でもインフレが高進し、インフレ率はユーロ圏で2022年9月に9.9%と過去最高を記録、イギリスでは7月に10.1%と、1982年以来の高水準となっています。国際通貨基金(IMF)は2022年のインフレ率は先進国で7.2%になるとの見通しを示しています。
欧米諸国でインフレが高進している背景には、コロナ禍からの経済再開のなかで、それまで抑制されていた需要が急増し供給が追いつかなくなっていることや、ロシアによるウクライナ侵攻に起因する商品や原油・天然ガスのエネルギー価格の急上昇があります。
日本でも物価は少しずつ上がってきています。2022年4月の物価上昇率は2.5%と日本銀行がターゲットとするインフレ率2%を7年ぶりに超えました。その後もインフレ率は上昇を続け、9月には3.0%となっています。とはいえ、日本のインフレ率は欧米諸国に比べるとはるかに低いというのが現状です。
もっとも日本のインフレ率が欧米諸国と比較して低いのは今に限った話ではありません。これまで長期にわたって日本のインフレ率は欧米諸国より低い水準で推移してきました。
この20年間を振り返ると、日本の物価はおおむね0%成長だったのに対して、他の先進諸国ではインフレ率が2%前後で推移してきました。日本ではモノやサービスの価格がほとんど上がっていないのに対して、海外では物価がこの20年間で約1.5倍になったのです。
上がっていないのは物価だけではありません。賃金も日本ではこの25年間ほぼ横ばいです。これに対して、アメリカやイギリスでは約1.4倍に、ドイツでは約1.2倍になっています。つまり、他の先進諸国で物価や賃金が上昇してきたなか、日本では物価も賃金も上がってこなかったため、相対的に日本の物価、賃金は安くなっているのです。
この25年間、海外で賃金が上昇する一方で、日本で賃金が上がっていない事実は、日本の競争力が低下していることの象徴です。国民の豊かさを表す指標としてよく用いられる1人当たり名目GDP(国内総生産、ドル換算)をみると、日本の数字は2000年代初頭まで世界トップクラスで、一時はアメリカよりその値が大きいこともありましたが、その後世界におけるランキングは低下。2021年には世界で28位となっています。
なぜこれほどまでに日本経済は停滞してしまったのでしょうか。その理由を探るために、私は各種国際統計・データから、日本経済の構造を明らかにしようと試みました。その結果、見えてきたのは、日本特有の経済構造、いうなれば「未熟な資本主義」ともいうべきものでした。
日本経済の停滞要因は「未熟な資本主義」にあり
近年、「ポスト資本主義」や「資本主義の終焉」という言葉を耳にする機会が増えました。世界では資本主義を見直す動きが高まっています。1980年代から、市場や競争に任せるとうまくいくという「新自由主義」と呼ばれる考え方が台頭し、この思想に基づいた経済政策は、経済成長に大きく貢献しました。しかしながら、所得格差や貧困の拡大、さらには地球環境問題など、さまざまな弊害が生じたことから、その見直しが進んでいます。
日本でも岸田文雄首相が「新しい資本主義」を掲げ、経済政策を推し進めようとしています。2022年1月に岸田首相はアメリカのバイデン大統領とオンライン協議を行いましたが、その際に格差や気候変動の問題に対処する「新しい資本主義」を紹介、バイデン氏に「私の選挙公約ではないか」と賛同されたと言われています。
アメリカでは一部の富裕層に富が集中し、格差が拡大しており、社会の団結を揺るがし、政治の分断が深刻化しています。社会の分断をなくし、アメリカを再び団結させることを目指しているバイデン政権にとっては、格差是正はきわめて重要であり、バイデン氏が岸田首相の「新しい資本主義」に賛同したことは理解できます。
実際、行き過ぎた格差は経済、社会によくない影響を与えるという見解もあり、政府が格差是正を行うことは重要です。しかし、格差が広がっているということは、資本主義がある意味うまく機能し、経済が成長した証とも言えます。
翻って、日本はどうでしょうか? 実はデータはこの20年間、日本では格差はそれほど広がっていないこと、国民の所得が全体的に落ち込み、日本は「共同貧困」と言えるような状況に陥っていることを示しています。
上の図は主要先進国における可処分所得のジニ係数の推移を示したものです。ジニ係数とは所得格差を示す代表的な指標で、0〜1の値をとり、0に近いほど所得が平等であることを表します。1995〜2018年までのジニ係数の変化をみると、どの国でもジニ係数は上昇しているのに対し、日本ではそれほど上昇していない、つまり、格差が広がっていないことがわかります。
さらに、厚生労働省「国民生活基礎調査」によると、日本の平均所得金額は2018年に552万円と、20年前の1998年の655万円から100万円以上もダウンしています。
上の表は、人口を家計所得の少ない順に並べ5等分した所得5分位階級別に、1世帯当たり平均所得金額を1995年と2018年で比較したものです。これをみると日本では、すべての階層で所得が2桁以上、低下していることがわかります。
アメリカはすべての階層で所得がアップしている
これに対して、アメリカの所得を同様に5分位階級別にみると、1995〜2019年の間に、すべての階層で所得が大きく増加していることがわかります。もっとも所得が低い階層の増加率42%に対して、もっとも所得が高い階層の増加率は58%となっており、たしかに格差は拡大しています。しかし、それでも全階層で所得が上昇しており、すべての階層で所得が低下している日本とは様子が大きく異なります。
格差が拡大するアメリカでは分配政策はきわめて重要ですが、欧米に比べて分配が平等な日本では分配政策は決して最優先事項ではありません。また、分配をするにしても元手が必要です。つまり、まずは経済が成長しなくてはいけません。今、日本に求められていることは、過去30年間にわたって経済が凋落してきたことを反転させ、再び成長軌道に乗せることにほかありません。
そこで重要なことは、資本主義としっかりと向き合い、マーケットで競争が起こるようにすることです。経済学者のジョン・メイナード・ケインズは「アニマル・スピリッツが失われると資本主義は衰退する」と説きましたが、アニマル・スピリッツの源泉となる競争が日本に欠けているのです。
競争不足の大きな理由の1つに、政府の政策があげられます。地域金融や中小企業政策など、旧来の日本の政策には、新陳代謝を遅らせ、競争を阻害する方向に働いたものが認められます。また、近年の大規模な金融緩和や大型の財政支援は、経済環境の「ぬるま湯」化を招き、本来、市場で生存するのに生産性が十分でない企業が操業を続けられる状況を作り出してきました。
日本経済が閉塞状態から脱却するためには、市場において、生産性の高い企業が進出し、生産性の上がらない企業は退出するという新陳代謝が行われる必要があります。「新しい資本主義」も重要ですが、まずは「当たり前の資本主義」を機能させ、市場でしっかりと競争が行われる必要があります。
資本主義を機能させるために必要なこと
どうすれば資本主義を機能させ、賃金の上昇や日本経済の再生につなげることができるのでしょうか? 私が考えるポイントは「労働市場の変革」にあります。
賃金を上昇させる要因はさまざまあり、何かひとつで日本の低賃金が説明できるというものではありませんが、主要因として労働生産性が低迷していることと、日本の労働市場がうまく機能していないことがあげられます。
賃金を上げるかどうかは経営判断であり、その基本は労働生産性と経済の見通しです。賃金を上げるためには、労働生産性が向上し、経済が成長しなくてはいけません。
では、どうすれば労働生産性を高め、経済を成長させることができるのでしょうか? 詳しくは『51のデータが明かす日本経済の構造』の中で説明していますが、労働生産性は、労働者の持つスキルや経験など「労働の質」、機械や設備など「資本の質」、そして企業経営のあり方や働き方、雇用制度から影響を受けます。
日本ではデジタル化のおくれや企業による人的投資の低下など、資本・労働の両方でその質が下がっており、それが労働生産性の停滞につながっています。しかしながら、これは決して、労働者一人ひとりの責任というわけではありません。従業員に教育や訓練を行うのも、デジタル化などの投資を行うのも、企業経営のあり方によって決まるのであり、経営判断、さらに言えば、経営者の能力が生産性に大きく影響を与えます。
経済環境が厳しく、将来の見通しが立たない中では、利益を内部留保としてため込み、安全運転経営をするというのは、企業にとっては合理的な選択かもしれません。しかしながら、本来、経営者にはどのような環境であっても勝ち抜く経営判断が求められます。日本で労働生産性が低迷する背後に、日本企業の経営判断や経営戦略の隙がなかったかと言えば、決してそうとは言えないでしょう。
また、企業経営のあり方だけでなく、労働市場のあり方も日本の低生産性、競争力劣化の大きな理由だと考えられます。競争力を高め、生産性を上げるためには経済の新陳代謝が活発に行われなくてはなりません。そこで重要となるのが流動的な労働市場です。
いつの時代にも、経済には成長する産業や企業がある一方、衰退していく産業や企業が存在します。労働、資本、資金を衰退セクターから成長セクターにスムーズに移せるかどうかが、経済成長に大きな影響を与えます。労働市場が流動的だと、労働の再配置がスムーズに達成でき、高い生産性が実現できます。実際、労働市場が流動的な経済では生産性が高くなることはデータからも示されています。
労働市場の流動化は雇用を不安定にするのか
流動的な労働市場がもたらすものは生産性向上だけではありません。労働者個人にとっても大きなメリットをもたらすと考えられます。
よく、労働市場が流動化すると、雇用が不安定になると懸念されますが、むしろ逆です。流動的な労働市場では、個人が自由にそのライフスタイルに応じて働き方を変えることができるため、労働者にとって大きなプラスをもたらします。
流動的な労働市場とは、単に労働力の移動が活発というだけではなく、労働者が移動する自由が十分にある市場のことです。各個人が取り巻く事情や価値観にしたがい、働き方や生き方を自由に選べる市場が流動的な労働市場なのです。躍動的な労働市場と言ってもいいでしょう。しかしながら、現在の日本の労働市場は硬直的であり、働き方も生活も窮屈なものになってしまっています。
日本経済はそれを取り巻く環境が大きく変化する中、自己改革を行ってきませんでした。日本企業は、安価な非正社員や技能実習生に代表される安価な外国人労働者に依存し、また、デジタル化など必要な投資を怠ってきました。その結果、生産性は低下、日本経済は30年にわたり凋落し続けています。その象徴が、25年間もの長きにわたって上がらない賃金です。
こうした閉塞状態から脱却するためには、労働市場の流動化を進め、市場において、生産性の高い企業が進出、生産性の上がらない企業は退出するという新陳代謝が行われる必要があります。日本の労働市場では特殊な雇用慣行により市場メカニズムがうまく機能しません。もっとも、これは労働市場に限った話ではありません。日本では資本主義が徹底されておらず、市場でしっかりと競争が行われてこなかったと言えます。
今、真に求められていることは、日本経済の凋落傾向を反転させ、日本経済を再浮上させることです。日本経済が今の閉塞状態から脱却するには、労働市場の流動化に代表されるように、競争的な市場環境を整備し、そのうえで、企業が付加価値を増加させることが必要なのです。
(宮本 弘暁 : 元国際通貨基金(IMF)エコノミスト)