現存する「池田貴族心霊研究所」(筆者撮影)

故人が残したブログやSNSページ。生前に残された最後の投稿に遺族や知人、ファンが“墓参り”して何年も追悼する。なかには数万件のコメントが書き込まれている例もある。ただ、残された側からすると、故人のサイトは戸惑いの対象になることもある。

故人のサイトとどう向き合うのが正解なのか? 簡単には答えが出せない問題だが、先人の事例から何かをつかむことはできるだろう。具体的な事例を紹介しながら追っていく連載の第21回。

お墓の情報まで収録した池田貴族さんの公式サイト

「池田貴族心霊研究所」(http://www5d.biglobe.ne.jp/~kizoku/)というサイトがある。1999年12月に亡くなったミュージシャンでマルチタレント、心霊研究家としても知られた池田貴族さんのホームページだ。


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暗闇に浮かぶ“研究所”の中に入ると、3Dダンジョンふうの通路が現れて「研究室」や「所長室」などに進めるつくりになっている。それぞれの部屋に入ってアイテムを選ぶと貴族さんのプロフィールや心霊写真、心霊体験談などのコンテンツがポップアップするつくりだ。

室内のコンテンツにほころびはないが、長らく更新している様子はない。表だった動きはなくても荒らされたり消失したりしないように誰かが目を光らせている例は、この連載でも何度かみてきた。しかし、このサイトが無管理状態にあることは、いくつかのブラウザーで表示するとすぐ推し量れる。研究所の上空にぽっかりとFlash用の空枠が残っているからだ。

ホームページ時代を彩ったFlashは、2020年末にアドビがサポートを終了したことで事実上の終わりを迎えている。それから1年半が過ぎても修正する兆しは見られない。その佇まいはまるで廃墟のようだ。

いつからこのような姿になったのだろう? コンテンツを読み込むと、情報が2000年頃で止まっていることがわかる。止まった理由が貴族さんの死ではないことも「所長室」から飛べるプロフィールページから伝わる。

<池田貴族(ミュージシャン)
本名:池田 貴
生年月日:1963年5月8日
血液型:AB型
出身地:愛知県
リーダーでボーカルを務めるロックバンド「remote」がホコ天、イカ天のバンドブームで人気上昇。90年シングル「No!」でメジャーデビュー。
92年9月バンド解散後は、音楽プロデュースと同時に、心霊・超能力・マルチメディアなどの専門家として、テレビ・雑誌でも活動。
本名の池田貴での小説執筆も行っていた。
99年12月25日 午前3時35分 肝細胞がんのため、名古屋市内の病院で永眠。享年36歳>
(池田貴族心霊研究所/所長室/プロフィール)

貴族さんは生前からがんであることを公表しており、複数の闘病記を刊行し、生まれたばかりのわが子に向けたアルバムCDもリリースしている。それらの作品の情報も、死没の事実とともにまとめられている。つまり、このサイトは貴族さんが亡くなった後も誰かが管理しており、新たなコンテンツを作っていた時期があるのだ。現実のお墓の写真とアクセス方法をまとめたページまで作られている。


所長室の写真立てから飛べるプロフィールページ

サイトの動きが止まっておそらくは20年余り。このサイトはどんな意図で引き継がれ、手放されて現在に至るのか。その背景を知るには、貴族さんが生きた時代まで時計の針を戻す必要がある。

長女が生まれた22カ月後に逝去

プロフィールにあるとおり、貴族さんはTBSの人気番組「三宅裕司のいかすバンド天国」(通称・イカ天)での活躍をきっかけに、ロックバンド「remote(リモート)」のボーカルとして1990年にメジャーデビューを果たしている。バンドは2年後に解散したが、その後もアーティスト兼マルチタレントとしてメディアで活躍を続けた。「池田貴族」で検索すれば往時の実績が簡単にたどれる。


池田貴名義で執筆した『ガンを生きる』と『ガンを生きる2』(ともに幻冬舎文庫)

身体に異常を感じるようになったのは30代となった頃からだ。本名の池田貴(たかし)名義で著した最初の闘病記『ガンを生きる ミュージシャンの孤独な闘い』(旧題・HCCの疑いあり 肝細胞ガンとの闘い)にはこう書かれている。

<一九九五年の九月、レコーディングの打ち上げで、二日連続で朝まで酒を飲んだ。とはいえ、その頃は飲める量が減っており、それほど飲んでいない。特に、二日目など、ほとんど飲んでいない。にもかかわらず、めまいがしてダウンした。>
(『ガンを生きる』/66ページ〜)

デビュー時は1週間続けて朝まで飲むこともあったが、急に無理が利かなくなった。体重は長らく58.5kgで安定していたが、突然55kgまで落ちた。胃のむかつきから食欲不振も続いている。身体の内部に不審な変化が相次いだ。

それが肝臓にできたがんによるものだと判明したのは1996年10月のことだ。異常を察知した母の勧めで病院に行ったところ、カルテに「HCCの疑いあり」と書かれた。HCCは肝細胞がんのことを指す。精密検査を経て疑いは事実に変わり、翌月に肝臓の5分の1を切除する手術を受けることになった。肝硬変の一歩手前の肝臓からは新たながんの転移も複数見つかり、最終的には4分の1を切り取ったという。後にステージIIIと告げられる。

再発がみとめられたのは1年にも満たない1997年8月のこと。直ちに外科手術を受けるが、同年10月にはステージIV-aまで進行していると告げられる。このとき34歳。すでに余命幾ばくもないことも理解していたが、長年連れ添っていた一美さんのお腹には第一子が宿っている。1998年2月に長女・美夕ちゃんが誕生。当時のインタビューで「美夕が3歳になるまでは生きたい」と語る映像が残されている。

しかし願いは叶わず、1999年12月25日に故郷の名古屋市内の病院で貴族さんは亡くなった。それでも、死の直前までライブや音楽制作、執筆活動を精力的に続けたことはサイトに残る闘病史からも伝わってくる。がんは肺にも転移していたが、浅い呼吸で歌える歌唱法を身につけており、その技術は晩年のライブやCDで遺憾なく発揮されている。

<98年 2月 長女誕生(美夕ちゃん)
3月 著書「誕生」発売
9月 著書「東京近郊ミステリースポット紀行」
肝臓に再発のほか、右肺にも転移、手術
7月 プロデュースCD「サイコツアー」リリース
9月 著書「池田貴族のTVを話せなかった超怖い話」発売
10月 定期検査で肝臓に14個、右肺に1個の新たながん細胞発見、抗がん剤治療を始める。
99年 1月 アルバムのレコーディング・スタート
3月 手術、右肺1/3を摘出 (9日)
手術後の検査で肝臓に新たな4個のがん細胞を発見、再び抗がん剤治療
4月 プロデュースCD「サイケガンダム」リリース (2日)
初ソロアルバム「MiYOU」リリース (21日)
マキシシングル「MiYOU」も同時リリース
ライブ「貴族〜本当に歌えるのか〜」 (赤坂BLITZ 28日)
5月 著書「モビルスーツ 最強決定バトル」発売 (25日)
チャリティーライブ「貴族 大生前葬(名古屋センチュリーホール 30日)」
7月 検査の結果、肝細胞のがんが約70個に。
ビデオ「貴族 歌えました〜MiYOU〜」発売 (16日)
10月 写真「生(LIVE)〜池田貴族ライブ写真集〜」 (19日)
11月 著書「ガンを生きる」(「HCCの疑いあり」の文庫化)発売 (10日)
12月25日 午前3時35分 肝細胞がんのため、名古屋市内の病院で永眠。>
(池田貴族心霊研究所/所長室/プロフィール/池田貴族闘病史 ※抜粋、原文ママ)

体調の悪化により「心霊研究所」を託す

音楽や書籍の活動に加えて、貴族さんはホームページの運営も積極的に取り組んでいた。デビュー前にコンピューターソフトの制作会社で働いていたこともあって、ホームページを立ち上げたのは芸能界でもかなり早いほうだ。現存する「池田貴族心霊研究所」の源流となるサイト(http://www.sunpark.or.jp/sunpark/kizoku/kizoku/kizoku.htm ※閉鎖済み)は、少なくとも1996年には存在している。


Internet Archiveに残る最初期の「池田貴族心霊研究所」(筆者撮影)

2冊めの闘病記となる『ガンを生きる2 愛娘・美夕の誕生』(旧題・誕生)でもサイト運営に言及がある。がんの再発が判明し、手術に向けて準備を進めている1997年8月の記述だ。

<八月十三日。
 インターネット関連の打ち合わせに出かける。
 「池田貴族の心霊研究所」というホームページの主宰・制作・管理を行っているためだ。
 入院中はパソコンを使用できる状態ではないので、フォーラムへの参加、電子メールの送受信など、ユーザーへのサービスが停止する。それについての対応の打ち合わせだ。
 ユーザーには、「十月まで旅に出る」というごまかし方をすることにした。
 そして、スタッフにも、「精密検査のための入院」という言い方ではぐらかした。>
(『ガンを生きる2』/97ページ)

この時点で肝細胞がんであることはメディアを通して公表していたが、再発の事実についてはしばらく伏せていた。このため当時のホームページでのやりとりは、がんの手術をして一命をとりとめた管理人として振る舞っていた節がある。

それから2年が過ぎ、体調の悪化により貴族さん自身での管理が困難になった頃、サイトのトップ画面には移転先のURLが表示されるようになった。新たなドメイン(http://www.kizoku.com ※閉鎖済み)の管理者は出版社のメディアファクトリー。従来の3Dダンジョンふうのサイトデザインや、読者参加型のコンテンツ「心霊フォーラム」「心霊体験談」などの定番コーナーは踏襲しつつ、管理とコンテンツ制作は同社のスタッフが担うようになる。


Internet Archiveに残るメディアファクトリー版「池田貴族心霊研究所」(筆者撮影)

同社は数年前から貴族さんとともにPlayStation向けゲームを制作しており、そのプロモーションを兼ねてサイトを引き継いだかたちだ。ゲームタイトルは『霊刻―池田貴族心霊研究所―』。貴族さんがゲーム構成から盛り込むエピソード、BGMの制作まで関わった作品で、没後の2000年10月にリリースされている。販促ページにはこうある。

<この作品は、本研究所の所長であり、ミュージシャン、心霊研究家と活動を行ってきた故 池田貴族の、最初で最後のプロデュース作品です。
池田貴族は生前、心霊研究家として、テレビなどでのコメンテーターをつとめ、心霊スポットや心霊現象についての著書を執筆してきました。後年、彼の活動の中心は心霊現象に悩む人の相談にのったり、寄せられた心霊写真の除霊を行うことに移っていきます。自ら本サイトである「池田貴族心霊研究所」を立ち上げ、心霊現象に向かい合う人たちのアドバイザーとして、運営を行っていました。
「世の中には、霊能師としての能力も高くないのに、困っている人たちから多額のお金をとっている人たちがたくさんいる。自分は、そういった人々へのアンチテーゼとして、この活動をはじめた。」
本作品および本サイトは、それぞれの心霊現象の意味、除霊・浄霊の過程をきちんと伝えたいという池田貴族の意図に賛同し、株式会社メディアファクトリーが制作して参りました。>
(2000年9月頃の池田貴族心霊研究所/「霊刻」ページ/Internet Archiveより)

『霊刻』の販売後もスタッフによってフォーラムや掲示板の管理が続けられた。解放された「所長室」には死没までのプロフィールとともに、追悼の言葉が送れるフォームも作られた。半年以上経っても読者からの書き込みの勢いが衰えなかったことは、Internet Archiveに残るフォーラムの膨大な書き込み数からも知れる。

池田さんの死から2年で手放すことに

しかし、業務として何年も個人のサイト、あるいは発売から時間が経ったゲームのサイトを維持していくのはどうしても難しい面がある。サイトを引き継いで2年と数カ月が過ぎた頃、トップページは白一色の「お知らせ」に変更された。

<2001年12月26日午前0時をもちまして、当サイトの運営は終了致しました。
『池田貴族心霊研究所』は、故池田貴族氏が心霊に悩む人たちの悩みに答えたい、という気持ちで立ち上げたサイトです。
所長である池田氏が亡くなられた後は、株式会社メディアファクトリーが運営して参りましたが、池田氏の三周忌を迎えるにあたって、サイトの運営を終了することにいたしました。
サイト運営の終了にあたり、『池田貴族心霊研究所』は、
http://www5d.biglobe.ne.jp/~kizoku/
に一部移管されました。池田氏の生前の活動や心霊データベース、体験談などの閲覧をすることができます。
大変多くの方に訪れていただき、親しまれてきました当サイトではありますが、何卒、ご了承ください。
これまでどうもありがとうございました。>
(2002年1月頃の2代目・池田貴族心霊研究所/Internet Archiveより)


「池田貴族心霊研究所からのお知らせ」(Internet Archiveより)

この「お知らせ」が1年近く表示されたあと、kizoku.comはドメインごと姿を消している。そして、引用のURLにバトンタッチされて現在に至る。

つまり、現存する「池田貴族心霊研究所」は、このときに作られたミラーサイトなのだ。元の体裁を維持しつつ、掲示板やメールフォーム、『霊刻』の販促ページなどは省き、心霊や除霊に関する用語集や心霊写真、心霊体験談などはそのままコピーしていることが確認できた。貴族さんのプロフィールやお墓の情報も当時のままだ。

事業として継続できないが、消滅させるのは忍びない。そこで担当者はこまめな管理が不要なコンテンツだけを選別し、何とか存続させる可能性に託したようだ。新たな場にビッグローブを選んだのは、おそくらはそのときに担当者が選べた裁量による偶然だろう。その偶然の選択が幸運にも息の長いサービスを引き当て、今に至っている──。

推測が続くのは、ミラーサイトを作った最後の担当者が今もなお不明だからだ。

メディアファクトリーを吸収したKADOKAWAには、『霊刻』のサイト運営に携わったスタッフはもう残っていなかった。代わりに、生前に池田さんのエージェントとして行動を共にしていたという人物・Hさんにつないでもらったが、Hさんもこの事業にはノータッチだったという。

今回の企画趣旨を伝えると「二十数年ぶりにサイトを拝見し、とても懐かしく当時を思い返しております」と話してくれた。池田貴族心霊研究所の存在は知っていても、ミラーサイトが現存していることは知らなかった。Hさんを通して一美さんにも確認してもらったが、やはりサイトには関与していないそうだ。

そうした現状を総合すると、やはり現在の池田貴族心霊研究所は誰も管理していない放置サイトとみなすのが妥当だと思われる。

その状態が20年以上も続いている。かなり珍しいことだ。

1993年に日本でインターネットの商用利用が解禁されてから約30年。膨大な数のホームページサービスやブログ、SNSなどが登場しては消えていくのを繰り返している。放置サイトの大半は数年、長くて10数年のうちに、サービスの撤退や支払い滞納などによる契約終了、あるいは何らかのきっかけで見つけた関係者による閉鎖などの道筋をたどる。そうした変化を無制御でくぐり抜けてきたわけだ。やはりかなりの幸運であることは間違いないだろう。

「役目を終えた灯台」

ただ、貴族さんのサイトは「廃墟」なのだろうか?

廃墟は長年誰にも使われずに荒廃した建物や場を指す。人気サイトだったkizoku.comからの引き継ぎが1年近くあったことを考えると、ミラーサイトもそれなりの知られる存在となっていたはずだ。更新がなくて書き込みができなくとも、往年のファンがアクセスしているかもしれない。

そう考えて、現在の「池田貴族心霊研究所」にリンクを張っている現在進行形のサイトを探したところ、remoteのファンサイト「remote museum」(http://www3.airnet.ne.jp/ochika/index2.html)にたどり着いた。管理人のおちかさんは1997年から貴族さんのサイトを訪れており、ドメインが移行する過程もすべてリアルタイムで経験している。

「当時は貴族氏も掲示板に書き込みをされて、ファンと気さくにやり取りをしていました。心霊のことだけでなく普段の生活のことも語られていました。個人的にはミラーサイトの存在も懐かしいしうれしいです」

心霊フォーラムの常連さんとは今も交流があり、ミラーサイトも過去の存在にはなっていない様子だ。しかし一方で、「残念ながら貴族氏の活動の実態はそこにはないと思っています」とも語っている。

池田貴族の本筋はロックミュージシャンであり、近づく死や家族への思いは晩年のソロアルバム『MiYOU』から受け取ることができる。それに、池田貴族の鎧を脱いだ本心は池田貴の筆名で本にしたためている。貴族さんにとって心霊研究家としての活動は1つの支流にすぎない。その支流が偶然にも消滅せずに残っている──。そういうことなのだろう。


初ソロアルバム『MiYOU』。iTunes Storeなどでも購入できる

おかちさんは、remoteのギタリストであるHIROさんともつないでくれた。貴族さんとともにremoteを立ち上げた創立メンバーだ。HIROさんはミラーサイトを「役目を終えた灯台」と表現する。

「その灯台は抜け殻でありながら、いつも目印としてそこにあって、そこからはなんの光も発せられてはこないけれど、逆に必要とする人が光を当てて探し出すような、そんな存在。そしてシンボルとしてそこにあることで、逆に見いだす人を守っているような気もします」

池田貴族心霊研究所は廃墟ではない


長らく音楽から離れていたHIROさんは2018年に復帰。2019年にremoteを再始動し、貴族さんの没後20年にかかる追悼イベントを主導した。以後もremoteとして活動を続けており、2023年にリリース予定の「イカ天」オムニバスCDにも参加している。

希有なパフォーマーとしての池田貴族の存在と、remoteの音楽。それをこれからも世に知らしめたい。長く抱いてきたその思いを形にすべく動き出したのだという。

その活動にこそ貴族さんの「実態」の続きがあるのかもしれない。そして、「役目を終えた灯台」はそこにつながる目印ということなのかもしれない。確実にいえるのは、池田貴族心霊研究所は廃墟ではないということだ。

(古田 雄介 : フリーランスライター)