旧日本海軍の駆逐艦「島風」が1942年の今日、進水しました。「島風」は公試で最高速力40.9ノットを記録し、俊足だったことで知られます。なぜ旧海軍は高速を追求したのか、そして実戦ではどうだったのでしょうか。

「水雷戦隊」の戦い方

 1942(昭和17)年の7月18日は、旧日本海軍の駆逐艦「島風」(2代)が進水した日です。「島風」は俊足でも知られますが、同型艦が建造されることはありませんでした。

 冒頭で「2代」と述べましたが、初代「島風」は1920(大正9)年11月に竣工し、公試で最高速力40.7ノット(約75.4km/h)を記録した峯風型駆逐艦の4番艦のこと。速力向上に重きを置いた2代目の名称は、初代にちなんだわけです。


1943年5月、京都府北部の宮津湾外を全力で公試航行中の駆逐艦「島風」(2代目)(画像:アメリカ海軍)。

 ではなぜ速力を重視したのか――旧日本海軍は、太平洋戦争開戦前からアメリカを仮想敵国とみなしており、戦艦同士の戦い、いわゆる「艦隊決戦」に勝利することでアメリカ艦隊を撃滅するという構想を立てていました。そのためには、軽巡洋艦や駆逐艦で編制された「水雷戦隊」で先制の魚雷攻撃を仕掛け、敵の戦艦戦力を少しでも削っておくのが賢明です。そこでカギになるのが、敵戦艦に先回りして有利な位置に付くための俊足。魚雷の威力向上と同時に、駆逐艦の性能を高めることを目標にしていたのでした。

「島風」は翌1943(昭和18)年5月に竣工。直後に行われた全力公試では、速力40.37ノット(約74.8km/h)を記録しました。さらに、燃料などを軽くした過負荷全力公試では、先代の記録を上回る40.9ノット(約75.7km/h)をたたき出しています。

 なお、搭載する高性能ボイラーは燃費の向上にも寄与しており、「島風」は18ノット(約32km/h)で6000海里(約1万1000km)を航行できました。

 また、主砲は高角砲(高射砲)兼用の12.7cm連装砲3基6門、魚雷兵装は61cm5連装発射管3基15門。対空兵装は25mm連装機銃2基、13mm連装機銃1基などでした。

速いのは結構なんだけど…

「島風」の初陣は、アリューシャン列島のキスカ島撤退作戦でした。時は1943年7月、徐々に戦局が悪化へと向かっていたころです。霧にまぎれながらの作戦は困難でしたが、俊足を活かし陸海軍将兵5000人以上を撤退させています。

 その後は南方へ転進しますが、物資輸送や護衛任務に従事するのみで、「水雷戦隊」として戦う機会は訪れません。ただ、基準排水量2000トンを超える船でかつ高速であることは、好都合だったようです。


1944年10月のレイテ沖海戦において、シブヤン海で戦艦「武蔵」は撃沈された。「島風」はその乗員を救助している(画像:アメリカ海軍)。

 1944(昭和19)年10月、旧日本海軍はフィリピン近海で戦われたレイテ沖海戦に敗北。空母機動部隊が事実上壊滅するなど、大損害を被ります。なお「島風」は、一連の海戦で沈没した戦艦「武蔵」の乗員を救助しています。そして翌月、レイテ島への物資輸送に「島風」は従事しますが、それが最期となりました。

 ほかの駆逐艦とともにマニラ湾を出港した「島風」に、300機を超えるアメリカ軍機が襲来します。“武器”だった俊足も空からの猛攻に対しては活かすことができず、航行不能に陥った末に爆発。ついにオルモック湾に没しました。

 竣工から1年6か月。旧海軍が当初想定した戦闘は最後まで行われませんでしたが、すでに「島風」が誕生したころには、海戦のあり方そのものが変化していたのでした。