羊かんやアイスだけでなく豆腐、こんにゃくも作ります!

甘味だけじゃない、精肉加工もできた「間宮」

 1924(大正13)年の7月15日は、旧日本海軍の給糧艦「間宮」が竣工した日です。給糧艦とは、洋上にいる艦艇や前線の基地などへ食糧を補給するための支援艦で、現代では補給艦と呼ばれることもあります。

「間宮」は大正12年度の艦艇補充計画で建造が計画され、川崎造船所(現在の川崎重工神戸造船所)で1922(大正11)年10月25日に起工、翌1923(大正12)年10月26日に進水しています。

 そして冒頭に記したように1924(大正13)年7月15日に竣工すると連合艦隊へと編入され、太平洋戦争後半に戦没するまで海軍の補助艦として運用され続けました。


1941年9月20日に撮影された、呉海軍工廠で最終艤装中だった戦艦「大和」の有名な1枚。第三主砲の奥に本記事の主役、給糧艦「間宮」が見える。(画像:アメリカ海軍)。

「間宮」の艦内には、冷凍品や生鮮品を運ぶための冷凍庫や冷蔵庫が完備されていたほか、屠殺(とさつ)設備もあり、寄港先で牛や馬を生きたまま調達し、洋上で精肉に加工することもできたほど。ゆえに、野菜や魚、肉など、その備蓄量は1万8000名を3週間養えるほどであったといわれています。

 また同艦の特徴というと、なんといっても艦内に多数の加工品製造ラインを持っていた点です。パンだけでなく、豆腐、油揚げ、麩、こんにゃくなどの日本食材、モナカや羊かん、大福餅、饅頭、ラムネ、アイスクリームなどの嗜好品も大量に作ることができました。

 たとえば、1日あたりの生産量は、パン菓子約1万個、モナカ約6万個、大福餅約1万個、焼き饅頭約2万個、飴約1200kg、アイスクリーム約5000個など。これらを作るために「間宮」には、民間で働いていた職人たちが軍属として乗り込んでいたことから、戦艦など比較的充実した調理設備を備えた軍艦と比べても、一部の嗜好品などは味が良かったといわれています。

食材製造以外にも、間宮の知られざる能力

 ほかにも「間宮」は1日305tの製氷能力を有していたほか、病院船としての役割も担えるほどの充実した医務関連施設を備えていました。また強力な無線通信設備を有していたことで無線監査艦の役目を務めたこともあったほか、演習ではアメリカ戦艦に扮したこともあったそうです。

 ただ戦闘艦艇ではないため速力が遅く、艦隊に随伴せずに単艦での行動が多かったといわれています。駆逐艦などの護衛が付くこともあったようですが、アメリカ側の攻撃でたびたび被害を被っており、最後は1944(昭和19)年12月20日、南シナ海の海南島沖で、アメリカ海軍の潜水艦「シーライオン」の魚雷攻撃を受け、翌21日未明に沈没しました。


1940(昭和15)年に発刊された『日本軍艦集:2600年版』(海軍研究社)掲載の「間宮」。運送艦に分類されており特に給糧艦としての紹介はない(国立国会図書館蔵)。

 旧日本海軍は太平洋戦争時、複数の給糧艦を運用していましたが、そのほとんどは冷凍品や生鮮品の運搬が可能なように艦内に冷凍庫や冷蔵庫を備えただけで、「間宮」のように各種食材を内製できる設備を持った艦は、ほかに「伊良湖」があるのみでした。

 そのため、「間宮」と「伊良湖」の2艦は将兵の士気を維持するために欠かせない貴重な艦として終始重用され続けたのです。