田島さんは朝日新聞社で、危機管理の最前線に立った(写真:筆者撮影)

2020年春、朝日新聞社の管理職だった田島幸治さん(54)は会社の希望退職募集に応じて退社した。52歳で転職したのは、アメリカの規制で窮地にあった中国の通信機器大手ファーウェイの日本法人「ファーウェイ・ジャパン」だった。

バブル期に朝日新聞社に入社し、経済記者としてキャリアを積んだ田島さんは2014年、「慰安婦報道の記事取り消し」「池上コラム不掲載」「吉田調書報道の記事取り消し」で大炎上した同社の広報部代理として、危機管理の前線に立った。一連の問題を受けて当時の社長は辞任し、朝日新聞社は窮地に陥った。

【2021年12月27日17時追記】初出時の肩書の表記を一部修正いたします。

「外部からの批判を押し戻すのも広報の手腕と思っていたが、間違いだった」と反省した田島さんは、不祥事の後始末が一段落した後に広報のスキルを一から学び、次第にセカンドキャリアを意識するようになったという。

記者から広報に

田島さんは慶応大学を卒業後、1992年に朝日新聞社に入社。記者時代は経済畑を歩み、バブル崩壊や、ライブドアと楽天の放送局買収騒動を取材した。

【2021年12月27日17時追記】初出時の表記を一部修正いたします。

新聞記者は40代で「デスク」と呼ばれる管理職に就き、取材現場を離れるのが一般的だ。その後、一部が総局長・支局長と呼ばれる地方拠点のトップや本社の部長に昇格し、50歳前後で多くが関連会社も含めた編集以外のポストに移っていく。田島さんは福岡でのデスクを経て、佐賀総局長を務めた後、2014年4月に47歳で広報部次長に就任した。

「総局長までやったし、まずまずの会社員人生だと受け止めていました」と田島さん。広報経験はなかったが、新聞記者は企業や行政の広報担当者との付き合いが多く、「そこまで忙しくない部署だし、私も会社も、見よう見まねでできると考えていました」

しかしそれは大きな間違いだった。

2014年、朝日新聞社では不祥事が噴出する。同紙は8月に慰安婦問題に関する検証記事を掲載し、1980年代から1990年代に掲載した16本を取り消した。ただ謝罪などはなく、週刊誌や他紙からバッシングを受けた。

同紙で連載を持っていたジャーナリストの池上彰さんは「間違いを認めるなら謝罪すべき。訂正は遅きに失した」と批判するコラムを執筆したが、社長が難色を示し、掲載は見送りとなった。ところが、この対応にも、他メディアからの批判が続出。同紙は方針転換して池上さんのコラムを掲載したが、時すでに遅しで、炎上はさらに激しくなった。

問題はさらに続く。朝日新聞社は5月に、2011年の東日本大震災発生時の東京電力福島第一原子力発電所所長・吉田昌郎氏(故人)に対する政府の事故調査・検証委員会の聴取記録「吉田調書」を基に、スクープを報じた。だがその後、記述を巡って他紙から次々に反論され、記事取り消しに追い込まれた。

9月11日、朝日新聞社の木村伊量社長(当時)は記者会見を開き、吉田調書の記事を取り消すとともに、慰安婦報道と池上コラム不掲載について謝罪し、責任者の処分を発表した。この日から2015年1月5日までの4カ月足らずで、3つの問題に関して計5回の記者会見が開かれ、田島さんら広報部のメンバーは記者会見の準備、取材対応、そして経営陣との調整に翻弄されることになった。

記者会見には参加者が殺到

朝日新聞社で開いた9月11日の会見は、予想より多くの参加者が殺到した。会場に入れなかった記者やカメラマンの怒号が飛び交った末、会見を中継する第2会場も設けられた。その後の会見は基本的に社外で行うことにし、広報部は会場を探したが、警備上の問題から軒並み断られ、最終的に要人受け入れに実績があるホテルオークラが受け入れてくれたという。

当時の記者会見の写真を見ると、司会の隣や報道陣の後方に小さく田島さんが写っている。

「混乱に備えて正面玄関以外の出入り口や通路をチェックしたり、テレビ中継のためのアンテナを調整したり、取材で記者会見は何度も出たけど、裏方は初めての経験ばかりでした」

一連の問題で、朝日新聞社は第三者機関に検証を委ねた。委員会の聞き取りや会議は広報部の隣の部屋で行われ、田島さんも広報対応について委員から聞き取りを受けた。

吉田調書を検証した報道と人権委員会(PRC)、慰安婦報道を検証した第三者委員会は、その後まとめた見解や報告書で、経営陣だけでなく、経営陣の誤った判断を止められなかった組織の責任も大きいと指摘した。

「当時の朝日新聞は、自社媒体で検証することで説明責任を果たしたと考えていました。私たち広報も、外部からの取材は押し戻すものという感覚で、誠実に対応したとは言えませんでした。私は自分がだめな広報であることにも気づけていませんでした」

問題の検証が一区切りした2015年春、田島さんと広報部長は外部団体が実施する広報初心者向けの実務研修に参加した。参加者の多くは20〜30代で、部長が最年長、田島さんがその次だった。

「社内と社外の真ん中に立って、対話するのが広報担当者の役割との説明に、基本すら理解していなかったと痛感しました」

広報・PRの基本的な知識から実践的なスキルまで体系的な知識を認定する「PRプランナー」という資格があることを知った。「広報部を立て直すためにも、1人くらいは資格を取っておいたほうがいい」と考えた田島さんは、資格取得に向け勉強を始めた。

「1次試験は難なくクリアできたけど、2次試験、3次試験は、独学では難しく、講座を受けて準備しました。毎日始業より1時間早く出社して、勉強時間を確保しました」

2016年3月にPRプランナーの資格を取得した田島さんは、企業やメディア向けの事業説明会を企画するなど、朝日新聞社の信頼回復に取り組む中で、「定年まで複数の部署を転々とするよりは、広報を軸にキャリアを再構築したい」と考えるようになった。

朝日新聞社は2014年の不祥事によって、多くの読者を失った。だが、それがなくても新聞業界は部数、広告収入ともに苦境が続いている。2010年代以降、マスコミ各社は人員整理に着手し、朝日新聞社も2019年末、45歳以上の社員を対象に希望退職者の募集に踏み切った。広報部からオリンピック・パラリンピックスポーツ戦略室の次長に異動していた田島さんは、迷わず転職活動を始め、広報責任者を探していたファーウェイ・ジャパンに応募した。

ファーウェイに転職

ファーウェイは2018年冬に副会長の孟晩舟氏がカナダで拘束され、安全保障上のリスクから5Gの参入で国際的に排除の動きが加速していた。だが、田島さんは「朝日新聞での記者経験、そしてうまくできなかった広報経験の反省を生かして、大変な状況にある企業の危機管理に関わりたいとの思いがありました。ファーウェイは情報を盗んでいるとの疑惑もありましたが、自分でいろいろ調べてその心配はないと判断しました。」と気にしなかった。

2020年春、田島さんは約30年間勤務した朝日新聞社を52歳で退社し、ファーウェイ・ジャパンの広報部長に転じた。今は中国人3人、日本人2人のチームで、日本メディアへの情報発信を行っている。田島さんは「伝統的な日本企業に長くいたから、次は全然違う環境でやってみたい」と、外資とスタートアップを選んで応募していたが、「今思えば甘かったです」とも苦笑する。

「中国企業と日本企業ではKPI(業績評価指標)の考え方が全然違います。多くの日本企業は『言い訳をしたり手柄を自慢するのはみっともない』という価値観があるでしょうが、それは周囲が陰の努力を見て、察してくれるからです。ファーウェイでは自分が会社にどんな貢献をしたのか、わかるようにアピールしなければいけない。その環境はまだ慣れなくて、中国人の同僚にフォローしてもらっています」

一方、50代という年齢が転職のリスクやハンデになるとは思わないという。「新聞社の業績は右肩下がりでしたが、それでも世間で見れば給料は高かった。若い人から見たら50代なら逃げ切れるように見えるでしょう。しかしそれは定年が60歳だったら、の話です。65歳、70歳まで働く時代だと考えると、会社に居続けるほどリスクは高くなるし、あと20年あるなら、新しいことへの挑戦や、スキルを磨く時間は十分残っていると考えました」

中高年で転職するコツ

最近では、サントリーホールディングスの新浪剛史社長が9月に提唱した「45歳定年制」という言葉が、世間をにぎわせている。中高年での転職の注意点は何だろうか。

田島さんは、「培ったスキルを社外に伝えられるようにする」ことと、「早めの準備」を挙げた。どちらも、朝日新聞社の不祥事対応の教訓でもある。

「当時の朝日が社内の価値観に染まって、社会や社外との対話を軽視していたことは、第三者委員会の報告書でも『自社内部の危機に集中するあまり、外部環境を適切に識別する力を失っていった』と指摘されました。私、若いときは特ダネ記者で、何度も社会面トップの記事を書いたんですよ。でもその説明では社外に伝わらない。『外部への説明責任』を置き去りにしてはいけないと学び、自分のキャリアでも実践できるよう心掛けています」

田島さんはPRプランナーの資格取得の勉強を始めたとき、転職は考えていなかったという。だが、勉強している間にも希望退職の募集があり、「どのようなスキルがあれば、転職の強みになるか」を考えて英語学習にも着手した。2018年に受験したTOEICのスコアは845点、海外生活の経験はないがリスニングは満点だったという。これが外資系企業への応募に役立った。

「自分の強みやスキルを社外に評価してもらうのが転職活動で、わかりやすい形に変換したり、新しいスキルと掛け算して大きくしていく努力を続ければ、40〜50代でも遅くないと思っています」。田島さんは、中高年での転職のコツをそう語った。