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フジテレビのスポーツ番組などで活躍した田中大貴アナウンサー(40)。主任という中間管理職となり、順調な会社員生活をたどっていたが、現場で活動したいという思いから2018年に退職。

現在はスポーツのインターネット配信中継や番組を中心にMC・実況者として活躍している。

その活動はアナウンスメントにとどまらず、スポーツマーケティング会社の執行役員として、会社経営者として、さまざまなスポーツビジネスにチャレンジしている。フリーランスとしての生存戦略を聞いた。(編集部・塚田賢慎)

田中アナのインタビュー前編はこちら。

●「記念受験」から始まった局アナ人生

ーー2003年入社のフジテレビアナを志望した理由は?

慶應義塾大学の体育会野球部で、プロ野球選手を目指していました。3年生のときに、就職活動が早く始まるフジテレビのアナウンサー職を部員みんなで記念受験したんです。

3年生の1月、たまたま内定をもらったという感覚が強かったかもしれません。実は4年生の秋まで、野球か、アナウンサーか悩みました。

野球をやめるのは怖くもありました。言葉は関西弁で、野球部の声の出し方や、体育会敬語しか知らない。自分ではアナウンサーに向いているとは思えなかった。

一方でフジのアナウンサーになった慶應大学野球部、東京六大学の出身者はいませんでした。「初めてという言葉に勝てるバリューはない」と常々思っていたので、魅力的な挑戦でもありました。

ーー志望者の多くが「アナウンススクール」出身。劣等感はなかったですか?

だいぶビハインドだなと思っていました。実際、2年間くらいは毎日辞めるべきと思って、お台場の海に飛び込もうかなと思っていました(笑い)。

ーーつらい時期に考えたことは

自分の売りを考えました。他の人と一緒だと、番組に使ってもらえないんです。そのうえで、基本的なスキルを早く身につけることを目指しました。

僕はプロになっていませんが、第一線を目指してやってきたので、身近にプロ野球選手がたくさんいましたし、スポーツ選手の内面を理解する力には自信がありました。たとえば、このオフに斎藤佑樹選手がなにを考えているのかとか。

しかし、基本スキルが平均点になるまでは、「プロを目指して野球をやっていました」とは言いませんでした。コネを早いうちに使っても、基礎がないから苦労する。平均点まで到達すれば、過去や実績は自然と乗っかってくるだろうと考えていました。

ーーいつ、解禁したんですか

入社7〜8年後に、メジャーリーグに挑戦するホークスの和田毅くんと対談したときです。僕は慶應の4番打者で、彼は同学年の早稲田のエース投手。とても意識したライバルでした。

和田くんが「そろそろ六大学で野球やっていたことを前面に出して、僕らスポーツ選手を救う側にまわるのでもいいんじゃない?」と話してくれて、オープンにするようになりました。

●会社を辞めた理由

ーー人気番組の総合司会など順風満帆なキャリアながら、入社15年で辞めた理由は?

日本シリーズのメイン実況、五輪の番組キャスターを2度経験し、朝の「とくダネ!」と夜の「すぽると」という番組のスポーツキャスターを務めました。

マスに向けてやりたかったことを、早い段階で経験できたけど、クオリティーを上げて、もう一周できるかというと、自信も興味もなかった。35歳で会社を辞めようと考えていました。

35歳になった2015年前後は、ネットでの野球中継が始まり出した頃です。フジのヤクルト戦は「DAZN」で流され、パ・リーグの試合は「パ・リーグTV」や「楽天TV」から配信されるようになりました。

それから3年間、ネットのことを勉強して、2018年に辞めました。インターネットの世界に行く局アナ、特に30代でメインキャスターを経験した男性はいなかった。初めてに勝るバリューはない。できるだけ早い段階で足を踏みいれようと考えました。

ーーテレビとネットはどう違う?

地上波とネット配信では実況の仕方も変わってくるんです。ネットは隙間時間に視聴されるので、短い時間に情報を詰め込まなくてはいけない。今も勉強しながらやっています。

いずれ、インターネット配信事業者がテレビを助けるというか、もう一度、お客さんがテレビ側に戻る時代がくると考えています。それに向けて準備している。テレビを裏切るのではなく、新しい世界で学ぶことが恩返しになると思っています。

●管理職よりも、メディア変遷のど真ん中にいたかった

ーー管理職の道を進むということは考えなかったんですか?

退職前の約3年、主任という役職に就きました。メディアに出ない時間は、中間管理職として、部下のアナウンサーたちの査定や人事考課、研修・試験官をやるようになった。プレイングマネジャーになるのですが、正直言えば、自分は表に出るよりも、管理職に向いていると感じました。

ですが、人を育てる側に回るのは早いとも思っていました。会社に残れば、もうすぐ副部長、部長という道が見える中でしたが、それでも、メディアがドラスティックに変遷する現場の中心にいたかったんです。

ーー安定雇用より、稼げる道を選んだのでしょうか

フリーが稼げるとは考えていません。自分がメディア出演にアサインされないと仕事がないので水物です。

でも、フリーになるにあたって、不安や後悔はなかった。ボクシングの村田諒太くんがリベンジマッチで世界王者になる前に、インタビューでこんなことを言っていたんです。

「1回負けた相手に挑むのは怖いが、踏み出すかどうか悩んでいるときが一番怖かった。踏み出してしまえば、目標設定ができるので、恐怖や不安は削ぎ落されていく」

なるほどなと。僕はプラス思考ではないけど、やりたいことがたくさんあるタイプ。辞めるデメリットは考えたことがなかった。不安を抱えながら辞める人は、フリーには向いていないかもしれませんね。

●アナだけでなく、「メディアのこと全部やりたい」

ーーフリーになって、どういう仕事をしようと思ったんですか?

僕はメディアに出るだけじゃなくて、制作からプロモーション、ターゲッティング、運営まで全部やりたい。実際に、メディアを作ってきましたし、これからもたくさん作ろうと思って動いています。

テレビ業界が持つノウハウは日本一です。映像編集のしかた、台本の書き方、見せ方、プロモーション、ブランディング。インターネット事業者とたくさん仲良くして、最高峰のノウハウを新しいメディアに浸透させていこうと考えていた。

実際にテレビの世界で切磋琢磨してきた人がYouTubeに来て、その世界を占領しつつある。元からいたYouTuberのみなさんとの勢力構図も変わってきていますよね。

ーー今後、どんなキャリアを考えていますか?

僕はもう自分のことをアナウンサーとしては考えていないんです。独立した1人のビジネスマンというか、メディアマンなのかな。「フリーアナウンサーです」と大々的に言いたくないですし、言えないと思っています。

大学からフジテレビに入って、「昔野球やってたんですか?」と思わせたのと同じで、いつか「昔フジテレビでアナウンサーやってんたんですか」と言われたら勝ちで、フジを辞めてよかったと思う日になるでしょう。

●スポーツ選手のセカンドキャリアを応援したい

ーー独立して、まさに何もかもが「自由」になりましたが、心がけていることは?

フリーになってから受ける仕事のなかには、魅力的な報酬のものや、アドバイザー的な契約ももちろんあります。数字や立場に目が向きそうになりますけど、一回、それは立ち止まって考えます。

僕のルールは、困っている相手がいて、自分の持っているリソースによって、その人や、団体・会社を助けられるのであれば、助けられると思うかどうかという判断基準を優先します。

ご一緒して、縁ができて、仕事が回るのです。利益はいずれ後からついてきます。マネジメント会社(アスリート・マーケティング社)としては、「この仕事引き受けてくださいよ」と思うところもあるでしょうが、今はそのようなルールで仕事をしています。

ーースポーツ選手に向けたセカンドキャリア講師なども務めています

スポーツから得られる「努力する力」や「自分と向き合う力」は、社会や仕事に転換できます。セカンドキャリアが難しいと言われますが、彼らを助けたいと考えている企業はたくさんある。東京の上場企業だけでなく、地方の企業と、選手を結びつけるプラットホームを作ろうと考えています。

セカンドキャリアやデュアルキャリアがあれば、学力などの下支えも必要ではありますが、安心して子どもをスポーツに打ち込ませられる。勉強かスポーツかではなく、両軸で考えられる親御さんを増やしたい。

コロナ禍になって、スポーツは生活を支えるエンターテインメントだと改めて感じました。この状況で、多くのお客さんを集められたのはスポーツでした。スポーツは全く軽いものではなく、社会を導く文化です。その文化に貢献するため、活動していきたいんです。

【プロフィール】田中 大貴(たなか だいき)。1980年、兵庫県生まれ。慶應大の野球部に所属し、春の東京六大学リーグでホームラン王を獲得。2003年、フジテレビ入社。「とくダネ!」や「すぽると」など情報番組、スポーツ番組などのリポーターや総合司会を担当。2018年、退社。スポーツアンカー、フリーアナとして活動。また、スポーツチーム・団体・企業とのビジネスコーディネーション、YouTube事業、メディア制作、CSR活動イベントの企画・運営にも取り組む。