豊臣秀吉の痕跡をあとかたもなく消し去れ!墓も神社も破壊した徳川家康の執念 【前篇】

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今川・織田・豊臣に臣従するという試練を乗り越えて、江戸幕府を開府した徳川家康。

しかし、そこには先の天下人・豊臣家の脅威がありました。家康は、豊臣家を滅ぼすとともに、秀吉の墓と神社を破壊し、京都からその痕跡を消し去ります。

何が、家康をそんな行動に駆り立てたのでしょうか。

「豊国乃大明神」という神になった豊臣秀吉

1598(慶長3)年8月18日、天下人・豊臣秀吉は、伏見城で63歳の生涯を閉じました。

その後、秀吉の遺骸は、京都の方広寺東方にある阿弥陀ヶ嶽山頂に葬られ、中腹には秀吉を祀る豊国神社が建立されたのです。

秀吉は朝廷から「豊国乃大明神」の神号が与えられ、神となりました。

権威確立のため朝廷を大切にした豊臣秀吉は、死後神号を得て神となった。(写真:Wikipedia)

秀吉を祀る豊国神社。江戸初期に破却された後、明治になり再建された。(写真:TERUAKI.T)

関ケ原合戦で豊臣家の軍事力を削る

関ケ原合戦を描いた関ケ原屏風。勝利を得た徳川家康は江戸幕府を開府した。 (写真:関ケ原町歴史民俗資料館)

秀吉の死後、豊臣家の家督は秀頼が継ぎ、五大老・五奉行が秀頼を補佐する体制が合意されます。

しかし、五大老の筆頭である徳川家康は、この重臣合議制を公然と無視し、大名間の婚姻関係を認めるなど、諸大名に対し影響力を強めていきました。

これに対し、危惧を抱いた石田三成らが家康に宣戦を布告、1600(慶長5)年に関ケ原合戦が勃発します。

勝利を得た家康は、1603(慶長8)年に征夷大将軍に任ぜられ、以降260年にわたる江戸幕府を開きました。

豊臣家が拠点とした大坂城。秀吉・秀頼時代の大坂城は現在の城地の地下に眠っている。(写真:TERUAKI.T)

一方、豊臣秀頼は関ケ原合戦の戦後処理により、摂津・河内・和泉の直轄地のみを領する一大名に没落していまいました。豊臣家は、所領を220万石から85万石に減封されてしまったのです。

大名の軍事力を考える時、一般に1万石に付き500人の兵隊を動員できるとされます。豊臣家は総勢11万の軍勢から、わずか4万の軍勢しか動員できないことになってしまいました。

家康は関ケ原の戦いにより、豊臣家の軍事的脅威を大幅に減らすことに成功したのです。

豊臣家に健在する摂関家の権力と名声

豊臣秀頼。小柄であったと伝わる秀吉の子でありながら190cmを越える威風堂々とした武者振りであったという。(写真:Wikipedia)

徳川家康は将軍在位わずか2年で、将軍職を三男の秀忠に譲り、大御所として政治を後見します。

これは、江戸幕府の将軍職は徳川氏の世襲であることを示すとともに、朝廷や大名に天下を修める武家の棟梁は徳川氏であることを認めさせることでした。

しかし、そうした家康の意図と反するように、豊臣家の権力と名声は健在でした。

それは、豊臣家が依然として「摂関家」という高い家格を有しており、公武に君臨できる唯一の家柄と、朝廷や公家から認知されていたからなのです。

「もし、秀頼が自分の死後に関白職に就任したら、秀忠や幕閣は豊臣摂関家に対抗できるだろうか…」

晩年を迎えた家康の脳裏には、絶えずそうした自問自答が繰り返されたことでしょう。

死しても、衰えない秀吉の人気

秀吉忌に斎行された豊国祭。大名・武士・公家・庶民と身分を問わず大勢の人々で賑わった。秀吉の人気が察せられる。(写真:Wikipedia)

秀頼の関白就任に対する家康の不安に拍車をかけたのが、全く衰えることのない秀吉の人気でした。

豊国神社では、毎年8月18日の秀吉忌に「豊国祭」が盛大に催され、秀吉を慕い、大名や公家だけでなく、多くの町衆も押し寄せたといいます。

秀吉の京都での人気は朝野を問わず絶大なものであったのです。

この状況に家康は、自分が生きている間に豊臣家を滅ぼさなければ、江戸幕府の未来に安泰が訪れないとの考えにいたったのでしょう。

大坂城の明け渡し要求や方広寺銘鐘事件など、様々な難問を秀頼とその母淀殿に投げかけて豊臣家の暴発を待ちました。

方広寺に残る銘鐘。鐘に書かれた「国家安泰」の文字が、家康を二つに割いたとの難癖をつけ、豊臣家を大坂の陣へと追い込んだ。(写真:TERUAKI.T)

そして、1614(慶長19)年の大坂冬の陣、さらに翌年の大坂夏の陣で、秀頼と淀君を自害に追い込み、豊臣家を滅亡させたのです。

しかし、家康の豊臣家に対する仕打ちはそれだけにとどまらなかったのです。

大坂夏の陣を描いた『大坂夏の陣屏風』。江戸幕府の未来に禍根となる豊臣家を滅亡させた。(写真:Wikipedia)

【後編】に続く……