アディダスとプーマはいずれも世界的なスポーツメーカーとして知られていますが、それぞれの会社の創業者は兄弟同士でした。兄弟がそれぞれ別のスポーツメーカーを設立した背景には壮絶な「兄弟ゲンカ」があったとのことで、その歴史について解説するムービーがYouTubeで公開されています。

Adidas vs Puma - The Family Argument That Gave Rise to Sports Marketing - YouTube

アディダスとプーマは共に世界的なスポーツブランドですが……



それぞれの本社や生産拠点は小さな町の川を挟んだ両側にあります。アディダスかプーマに勤めている従業員は、ライバルの拠点である川を挟んだ反対側にはめったなことでは行かないそうです。



川の両サイドにはアディダスまたはプーマの従業員御用達のパン屋や……



バー



スポーツクラブが存在するとのこと。



町を二分する奇妙な状況は……



なんと兄弟ゲンカが発端になっているそうです。



アディダスとプーマの本社があるのは、ドイツのバイエルン州にある「ヘルツォーゲンアウラハ」という、人口はおよそ2万人の小さな町。



問題の発端は、この町でアドルフ・ダスラーとルドルフ・ダスラーの兄弟が事業を始めたことにさかのぼります。



ダスラー兄弟が事業を始めたのは、第一次世界大戦後のことでした。



第一次世界大戦で敗北したドイツは多額の賠償金を背負うこととなり、失業率は高くなり急激なインフレも進行しました。



そんな中、ダスラー兄弟の母親が経営していたランドリー店の一角で……



弟のアドルフ・ダスラーが靴の製造事業を始めます。



丈夫な靴を製造するアドルフの事業は3年ほどで規模を拡大し……



兄のルドルフ・ダスラーが経営に参画します。



アドルフが靴の製造を担当し、ルドルフが経営を担当するという役割分担で事業が行われました。



この頃の社名は「Gebrüder Dassler Schuhfabrik(ダスラー兄弟靴工場)」というものだったそうです。



特許を取得したダスラー兄弟のランニングシューズとフットボールシューズはアスリートの間で大きな人気となりましたが……



1932年にアドルフが実業家の娘であるケーテと結婚した時期から、ダスラー兄弟の仲に亀裂が生じ始めます。



ルドルフの回想でも、1933年ごろまでは兄弟の関係は完璧だったと述べられていますが……



当時16歳だったケーテが経営に携わりたいと望んだことをきっかけに、兄弟の仲は険悪なものになっていったとのこと。



そんな状態でも、ダスラー兄弟の事業は成長していきました。1936年のベルリンオリンピックもダスラー兄弟にとって追い風となります。



国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)が国民に運動を奨励したこともあり、スポーツメーカーは大きな恩恵を受けたとのこと。



また、ナチ党の一党独裁体制下で事業を継続するために、ダスラー兄弟は他の経営者らと同様にナチ党に加入したそうです。



ベルリンオリンピックの際、アドルフはアメリカの陸上競技選手であるジェシー・オーエンスに目をつけました。



オーエンスはヒトラーによる排外主義にさらされていたアフリカ系アメリカ人だったため、宣伝目的での起用には危険もあったそうですが……



アドルフは危険を承知でオーエンスと選手村で接触したとのこと。



アドルフが特別に製造したシューズを履くように依頼したところ、オーエンスは長いスパイクや丈夫な皮で作られたシューズを気に入り、履くことを承諾したそうです。



オーエンスは見事に4個の金メダルを獲得してオリンピックのスターとなり、ダスラー兄弟のシューズを大きくアピールすることに成功します。



その後に始まった第二次世界大戦でルドルフは徴兵されますが……



アドルフは軍需製品を生産するために徴兵されなかったとのこと。



ルドルフが戻ってくるとさらに兄弟の争いは激化します。



ルドルフは戦争中にアメリカ軍の捕虜となりましたが……



この際にアドルフとケーテが自分を追い出して会社の全権を握るため、アメリカ軍に不利な情報を流したと確信していました。



1948年、ついにダスラー兄弟の会社は解体され……



アドルフとケーテは、アドルフの愛称である「アディ(Adi)」から「アディダス(Adidas)」という企業を設立し、ルドルフは「プーマ」を設立しました。



それぞれの会社は川を挟んだ両側に分かれ、元の従業員らはどちらの側につくか選択を迫られたそうです。



こうして、同じ町の川を挟んだ場所に本社を構える、2つの世界的なスポーツメーカーが誕生したというわけ。



1954年にスイスで開催されたワールドカップでは……



参加選手の全員がアディダスのシューズを履いていました。これにより、アディダスは一気に人気を高めていきます。



元ドイツ代表のフォワードとして活躍したウーヴェ・ゼーラー氏は、アディダスは非常に親切であり、緊密な関係を築いていたと述べています。



アディダスは設立から20年でドイツ国内だけでなく世界的にも有名なスポーツメーカーに成長しました。



その有力な競合相手となるのは、川を挟んで本社を構えるプーマくらいのものでした。



お互いの位置が近いだけに、企業スパイの存在はお互いの主要な懸念事項だったとのこと。



1968年に開催されたメキシコシティーオリンピックでは……



アディダスやプーマが選手のスポンサーとなり、製品のアピールを行うようになります。



これにより、無料でアスリートに製品を提供するだけでなく、宣伝の見返りに報酬も支払う新たな形態が生まれたとのこと。



残念ながら、ダスラー兄弟が和解することは最後までなく……



争いは息子たちの代にまで引き継がれました。



1974年にルドルフが亡くなった際、アドルフは葬儀に出席しなかったとのことです。