井浦新

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 新型コロナウィルスの感染拡大に伴い発令された緊急事態宣言が解除され、現在全国の映画館は、少しずつ営業を再開しているが長期の休業が続いた経営規模の小さなミニシアターでは閉館せざるを得ない可能性もある危機が続いている。今だからこそ、ミニシアターの存在意義について、今の日本映画界を担う映画人たちに聞いてみた。

 先日終了したミニシアター・エイド基金の活動を監督主導から俳優部が主導で引き継ぐ形で新たにキャンペーンのプラットフォーム「#mini theater park(ミニシアターパーク)」を斎藤工や渡辺真紀子らとともに立ち上げた井浦新は、子供時代を映画とともに過ごした。子供の頃の映画体験は、八王子の松竹系映画館でのアニメ映画シリーズ。井浦が生まれ育った西東京には、まだ多摩市のドライブインシアターがあり、映画『ネバーエンディング・ストーリー』(1984)を観た思い出は今も忘れられないそう。「当時の感覚的な記憶は、作品の内容よりもカーステレオから聞こえてくる音声と目の前のスクリーンでファルコンが飛んでいる姿。周りを見れば他の車が見えたり、妹と家族4人で話しながら映画を観た楽しい記憶を思い出す。空間そのものがエンターテインメントでした」と井浦は振り返る。

 10代になるとインディペンデント映画の面白さに出会い、役者になる前からシネマライズに作品を観に行っていたという井浦。「音楽も映画もアートも、インディペンデントの持つ個性、そしてその力強さにすごく惹かれました。あの頃、携帯もなかった時代だからこそ、自分の足で探して、映画を観にいくことが楽しくて。それは、今も続いている習慣です」

 「当時は映画館がたくさんあって、手書きの映画看板が乱立していました。もちろん大手配給の映画もたくさん観ていましたが、そこでは出会えない、自分で撮りたくて仕方がなかったであろう監督の情熱とか、熱量の強い作品と出会える場所がミニシアターでした。自分の知らない世界と出会わせてくれた場所です。家を出てからミニシアターで時間を過ごして、観終わって、映画館を後にする。その瞬間から帰り道の景色はすごく違って見えた。すぐに答えは見つけらなくても、心を動かすきっかけをもらえるので、次の日の背中を押す力になったりしている。井浦自身、忘れられない夜があった。1994年、新宿のシネマアルゴ新宿にあがた森魚監督の『オートバイ少女』(1994)を大学の仲間たちと一緒に観に行った時のことだ。

 あがたさんの音楽が好きな、音楽やカルチャーを語り合える仲間と映画を観て、鑑賞後、仲間たちと一緒に熱く語り合った。「その日の夜ごと覚えているんです。みんなで感じたことを共有する熱。映画の答えを導き出そうとしても出せなかったりすることを楽しむ感覚です。そしてその数年後に、『ワンダフルライフ』(1998)で初めて映画製作に参加して、その現場で『オートバイ少女』の主演を務めた方にお会いできた。なんだか夢みたいだったし、夢を与えてくれました」

 『ワンダフルライフ』の上映が決まったのは、その1年後。渋谷のシネマライズで始まった。「自分の姿が、行き慣れた映画館のスクリーンに映っている。不思議な感覚でしたね。デビュー作の『ワンダフルライフ』と、その後の『シェイディー・グローヴ』(1999)は、『DISTANCE/ディスタンス』(2001)、『ピンポン』(2002)は全てシネマライズで上映されました。デビュー当初は、シネマライズ俳優だったんです」とシネマライズとの縁を語った。

 デビューから20年以上が経ち、井浦は作品とともに全国のミニシアターを精力的に訪れている。「最初の作品で出会った是枝裕和監督は、その頃からティーチインをすごく大事にされていました。当時の自分は役者になりたくてなったのではなくて、気づいたら役者になっていた。そこから育っていった感じなので、当時、舞台挨拶の大切さは自分の中に全くなかった。自分の映画を自分で届けるという大切さがわかっておらず、今は人間が大好きだから役者が続けられているけれど、当時はとにかく人前で話すことが嫌だったし、恥ずかしかったんです。そんな中、是枝監督が突然電話をくれて、シネマライズで映画を観終わったお客さんたちとティーチインで一緒に話すことになったんです。でもティーチインはものすごく楽しく感じられた。映画の舞台挨拶って本当に苦手で何を話せばいいかもわからなかったんですが、お客さんが理解を深めるためにいろんな質問をしてきてくれてすごく有意義で豊かな時間でした」
 
 ティーチインの素晴らしさは分かっていても、デビューしてから10年くらいは行動が伴わなかったという井浦に、自分が主演を務めた映画を自分で持っていくという気持ちを、改めて教えたのが若松孝二監督だった。「『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)』(2007)は名古屋のシネマスコーレで初日を迎えたんですが、その時も監督から連絡があって、俳優部が車で東京から名古屋のスコーレに向かって、舞台挨拶をしました。その時もやはり有意義な時間だった。晩年の若松監督は、ご自身の映画を持って全国を飛び回っていたんです。上映初日に東京のミニシアターが満席にならないと、若松監督がすごく悔しがっていたんです。そのとき、若松監督に「映画館をいっぱいにできる役者さんになりなさいと言われて以来、俳優として映画館を満席にできるまで頑張り続けるしかないと決意しました」と生前、親睦が深かった故・若松監督への思いを語った。

 「ミニシアターは、夢を叶える場所でもある」という井浦は、主演を務めた『11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち』(2012)、『千年の愉楽』(2012)では自分が中心となり率先して全国を飛び回り、様々なミニシアターを訪れた。「若松監督と2人で全国のミニシアターでティーチインをさせてもらって、自分で作った映画を自分で持って行って、届けに行くという姿を若松監督に見せてもらい、身をもって経験できたことは大きかったです。そこから映画館は、支配人や館長さん、スタッフさんに出会わせてもらえる場所になり、人との出会いも意識していった。「次、他の映画でもまた来てね」という声が本当に嬉しくて。映画がきっかけとなって人間同士が繋がっていく。これは俳優にとって宝物だと思っています」

 緊急事態宣言は解除され、全国の映画館は営業を再開し始めた。だが、どの映画館も客足が完璧に戻ったわけではない。井浦はこの現状に対して「映画館に来る観客の皆さんも、仕事が止まったり、お金を稼ぐことが困難になっている。みんなが大変な状態。日々の生活は絶対に苦しいと思います。でもそんな辛い時だからこそ、僕は心の支えになるものは映画だと信じたいんです。たとえ今まだ映画館に行けなくて、映画館のスクリーンで映画を観ることができなくても、少しでも心を潤して、何かを考えて、きっかけとする時間を忘れないためにも映画館に足を運んで欲しい。「仮設の映画館」や、「アップリンク・クラウド」などオンラインの映画館は、今だから生まれました。まだ映画館に行けないという方は、今は、そういった手段で映画を観て、日々の栄養にして欲しい。そこから希望を持ったり頑張れる気持ちが生まれているので」

 ネット配信などの新しい試みはもちろん素晴らしい。だが、井浦の願いはやはり「映画館で」。

 「スクリーンで観る映画体験は全然違うので。映画体験があるからこそ得られる体験というものは必ずかけがえのない思い出になる。人が人間らしい心を潤すための文化施設を守って欲しい。それは、支配人の方々がどんな時でもプライドを持っていつも開けてくれていた場所で、悩んでいるときには2時間だけ逃げられる避難場所でもあるんです」

 人の心を動かすことができる文化施設を守るために、井浦が伝えたいこと、それは地域の映画館を大切にするということ。「それぞれの地域の方々は、自分たちの地元のシアターに心を配っていただけたら本当に嬉しいですし、その現場を1人でも多くの方に知っていただきたい。きっとまだまだ始まったばかりの状況なので、ここからどうなって行くかが選択が迫られてしまう。映画館が開いたとしても、取り戻すのはすごく長い時間がかかる。映画館が再開したからオッケーではなく、映画館で映画を観ることを忘れないで欲しいし、足を運んでいただけるように、頑張ります」と熱い想いを伝えた。(森田真帆)