宮崎市内から国道220号線を南へ60キロ。ほとんどが一車線の海沿いの道を車で約一時間半、たらたらと走るこのドライブは、ライオンズが南郷でキャンプを行なうようになってからいったい何度目のことだろう。700万年前の水成岩が白波に洗われ続けた結果、固い砂岩層だけが板の如く積み重なった波状岩、通称”鬼の洗濯板”が印象的なこの日南フェニックスロードはある時期、自分にとって”正月”の風物詩だった。

 2月1日は野球人にとっての”正月”だと言われる。キャンプが始まるこの日を正月だとするならば、1年の計は元旦にありの言葉どおり、2月1日にどの選手を取材するのかということはフリーランスの野球記者には書初めのようなものなのかもしれない。キャンプ初日、誰を取材するのかを自分の意志で決めることができるからだ。


キャンプ初日に笑顔を見せる松坂大輔

 松、坂、大、輔。

 令和最初の”正月”に記したのはこの4文字、平成の怪物の名前だった。

 2020年2月1日、第2回WBC(2009年)に向けた調整をするために訪れて以来、11年ぶりとなる南郷に、松坂が帰ってきた。ファンから掛かる声は「お帰り」「お帰りなさい」。松坂はそんな言葉を耳にするたび、照れ臭そうに笑っている。

 ピッチャーが練習するサブグラウンドへの135段の階段を降りてきた松坂は、「これ、帰り、やだなぁ」と呟いた。その昔、階段の手すりに乗って滑り台のように滑り降りた無邪気な20代の松坂はもういない。

 39歳になった時、「3と9でサンキューな1年だね」と、わけのわからないことを口走ってしまったら、「感謝しながらってことですね」とオトナの対応で返してくれたナイスガイ──チーム最年長の松坂は、キャッチボールでは当たり前のように一番手前の親分の位置で投げ始めた。

 相手を務めたのは年下のピッチャーではなくブルペンキャッチャーだ。周りからの見られ方は否応なく、若手とは距離がある超大物、若手のドラフト1位たちに挑むかつてのドラフト1位、といったふうになる。実際、初日の練習を終えた松坂と報道陣との質疑応答でもこんな質問が相次いだ。

「ブルペンで30分あまり、他のピッチャーのピッチングを見ていましたが、どのピッチャーが気になりましたか」

「若い、ドラフト1位のピッチャー(今井達也、高橋光成、齊藤大将、松本航、宮川哲)についてはどういう印象を持ちましたか」

「若手へのアドバイスは、まだ様子を見ている感じですか」

「ブルペンの若い選手たちを見て、自分の初年度を思い出したりしましたか」

「若いピッチャーのことはライバルになるという目線で見ていたんですか」

“若くない”松坂に、若いピッチャーはどうか、若いピッチャーをどう見たか、と矢継ぎ早に質問が飛ぶ。そして松坂はその一つひとつを丁寧に答えた。

「単純に人の投げているボールを見るのが好きなので、興味を持って見ていただけです。知ってる選手が少ししかいないので、知りたいなぁと思って……若い子が多いですし、期待されているんだろうなと思いながら見ていました」

「ドラ1の子が投げているのを見て、彼ら一人ひとりにチームを支えてほしいんだなという球団としての感じ(意図)は伝わってきました。それだけのポテンシャルはみんな持っているとブルペンを見て思いました」

「まだ最初なんで、投げているのを見て気になることがあっても、別に僕から言ったりはしないです。聞かれたら答えますけどね。他愛もない話から話しやすい環境をつくっていければいいかなという感じです」

「みんな、力が入っているなと思って見ていました。僕の1年目は東尾(修、当時の監督)さんに強制的にセーブさせられていたので、最初は立ち投げから入っていますし、変化球もカーブしか投げなかった。今は実戦練習に入るのも早いですし、昔とは違うと思うので、みんな2月1日にはそれなりの状態で来ているんだなと思いましたね」

「競争のなかでローテーションなり、開幕一軍のメンバーを勝ち取っていかなきゃいけないと思いました」

 持っている引き出しが多い松坂は、マウンドに立って投げられさえすれば、勝つための技術をいくらでも引っ張り出せる。だから、体調に不安がある分、慎重にはなるが、自らのピッチングにはずっと自信を持ち続けている。松坂はこう言っていた。

「自分が満足だと思えるボールを投げていれば普通に抑えられると思います。そりゃ、昔のボールとは見た目や質は変わっているかもしれませんけど、手応えがあるボールに関しては今も変わらず、それがあるときは抑えられる。自分の求めるレベルは何も変わってないと思っています」

 思えば5年前、日本球界への復帰を決意した松坂は、ホークス、ベイスターズ、ジャイアンツからオファーをもらって、ホークスへ入団した。2018年、ドラゴンズのユニフォームを着た時も、古巣のライオンズからオファーが届くことはなかった。松坂がそう言っているのを聞いたことはないが、おそらく寂しかったのではないかと想像していた。

 野球人生、古巣に戻って最後の一勝負に挑むのは野球人の多くが思い描く最期のイメージだからだ。

 レジー・ジャクソンは古巣のアスレチックスでプレーして引退、ケン・グリフィー・ジュニアはマリナーズで、サミー・ソーサもデビューしたレンジャーズに戻って引退した。神戸を本拠地とした古巣のオリックス・ブルーウェーブを失ったイチローはマリナーズに戻って引退、黒田博樹や新井貴浩はカープで、佐々木主浩はベイスターズで、かつての西本聖、去年の上原浩治も最後はジャイアンツで戦って引退した。そして工藤公康、松井稼頭央はライオンズに戻って引退している。

 だから松坂にしてみれば、ライオンズへの復帰を果たしたことが嬉しくないはずはない。それはホークスでもドラゴンズでも「死に場所を探しに来たわけではない」と言い切っていた松坂が、ライオンズへの復帰に際しては「現役の最後はここなのかな」と言ったことからも垣間見える。

 もちろん同時に、あと30勝の200勝をあきらめずに目指すとも言っているのだから、今シーズンを最後と決めているわけではない。

 古巣のライオンズに戻ることが叶った松坂は、そのことを「家に帰ってきた感覚」だと表現した。

「使っている施設もそんなに変わってないし、使いやすさも変わっていない。キャンプのなかでの動きはそれぞれ時代によって違うので、今日はわからないことも多かったですけど、やりやすい環境というのは久しぶりだなと思いました」

 ひとりだけ、白のユニフォームを着ることなく、初日のメニューを終えた松坂。千両役者というのはそういうものだ。

 そのことを本人に問うと、「あんまり練習の時に着るのが好きじゃないので」と照れ笑いを浮かべていたが、ライオンズに、そしてライオンズのユニフォームに誰よりも強い想いを抱く松坂にとって、白のユニフォームに袖を通す時にはそれなりの理由が必要なのだろう。その日は程なくやってくるはずだ。松坂は去年、ライオンズに戻るにあたって、こんなふうに話している。

「自分は野球が好きなんだなと思いますし、その気持ちだけではこのプロの世界でやれるわけではないので、またこの野球が好きだという気持ちを表現するための場を与えてくれたライオンズに本当に感謝しています。今、持っている気持ちを、本当に燃え尽きて辞める時まで持ち続けて、やっていきたいと思っています」

 39歳になった平成の怪物は、野球と添い遂げるためにライオンズへ帰ってきた。サンキューの想いとともに──。