市原悦子さん、“樹木葬”の墓碑に本名の《塩見悦子》と彫らなかった理由
女優・市原悦子さん(享年82)が亡くなったのは、’19年1月12日。あれから1年が過ぎた。市原さんのお墓は、千葉・房総半島の山中にある。18cm角の黒い石の板が墓碑で、’14年に亡くなった夫の塩見哲(しおみ・てつ)さんの名前と並んで《市原悦子》と刻まれているのみ。その近くには4〜5mほどの若い木が植えてある。
「市原さんは生前、見学にいらしたとき、墓の近くに立つこの木をとても気に入られました。エノキという落葉樹で、2度目の見学でお墓の契約をされました」
そう教えてくれたのは、墓を管理している千葉県袖ケ浦市の『真光寺』の職員。小高い丘の中腹にある墓は、周りが木々に囲まれ、自然の中で静かに佇(たたず)む。長年、家政婦役を演じてきた市原さんは、ここで澄み渡る冬空に向かって枝を伸ばす、若い木に生まれ変わっていた──。
ベッドでナレーション収録に臨んでいた
市原さんが亡くなった6日後、東京・青山葬儀所で行われた告別式には、約500人が参列し、名女優との別れを惜しんだ。
「緑が好きだった市原さんのために、モンステラなどの10数種類の観葉植物で囲まれた、緑いっぱいの祭壇は“森の中で眠っているイメージ”を再現したそうです。淡い緑色の棺(ひつぎ)に、台本を読むときに使っていた眼鏡や、市原さんの写真集と著書も納められました。市原さんが歌う『年老いた女役者の歌』が流れる中で出棺し、無宗教のため戒名はないと報じられました」(ワイドショースタッフ)
最愛の夫に先立たれた市原さんは、’16年に自己免疫性脊髄(せきずい)炎という難病に侵された。
「決まっていた大河ドラマのナレーションを放送前に降板しました。それでもリハビリを続け、’18年にNHKの深夜バラエティー番組のナレーションで復帰しました。自宅マンションのベッドで収録に臨むという異例の方法で、仕事への強い思いを見せました」(テレビ局関係者)
市原さんの終(つい)の棲家(すみか)となった自宅マンションは、築50年以上だが、皇居近くの超都心にある。市原さんが住んでいた部屋と同じぐらいの広さの別の部屋が9000万円以上で売りに出されていた。
「もともと住んでいた部屋があり、その真上の部屋も追加で購入して、2戸をメゾネットに改築したそうです。ひと部屋は稽古場としても使い、よく俳優仲間も来ていたそうですよ。亡くなって、妹さんが相続したと聞いています」(同じマンションの住人)
義弟が明かす市原さんの素顔
塩見さんが元気なころは、夫婦で仲よく出かける姿が見られたという。
「この時期で思い出すのは初詣。“あなた、どこにお参りしているの? 靖国神社なんか行っちゃダメよ。せめて神田明神にしなさい”って、あの調子で説き伏せてくるのよ(笑)」(別の住人女性)
この都心マンションを相続した市原さんの実妹を訪ねた。話をしてくれたのは妹の夫、市原さんにとっての義弟だ。
「マンションを相続したのは、姉の遺言です。売ったり、貸したりしたらと言われますが、今のところは考えておりません。マンションには毎週行って、掃除をして、何日か泊まったりして管理しています。遺品は整理していません。これからどうするか考えます」
市原さんが近所にある靖国神社を避けていたことには理由があった。
「旦那の塩見さんが、とにかく戦争を嫌っていました。その影響で、姉も反戦だったんですよ」(義弟、以下同)
市原さんは’14年、安倍政権が集団的自衛権を閣議決定した際、すぐに反対の姿勢を表明。著書の中でも《戦争をなくすこと、世界の問題と関わることも、女優の大事な仕事》と記した。
「“マージャン好き”とよく報道されていましたが、月に2回ぐらいやる程度でした。まだ駆け出しだったころにテレビに出ると“どうだった?”と、私によく感想を聞いてきました。舞台にも呼んでくれて何度も見に行きました。そのときも感想を聞いてきました。同業者やファンよりも、遠慮しない親族の意見を求めていましたね。でも普段、私たちといるときは、お仕事の話はいっさいしませんでした。仕事に対して忠実でしたが、プライベートも大切にする人で。両親が亡くなってからも、お正月は会っていました」
土に還る“樹木葬”を選んだ
前述の『真光寺』が管理するお墓にも、妹夫婦は5〜6回は足を運んだという。千葉市内から車で1時間ほどの場所にある。市原さんが選んだのは“樹木葬”だった。
「ご主人が亡くなったとき、千葉県にある墓地を探し回られたそうで、その中でこちらを選んでいただきました」
というのは、生前の市原さんに会ったという、前出の職員。遺灰を海にまく『散骨』と違い、樹木葬は墓碑を置くので、お墓参りができる。
「骨壺はなく、骨をそのまま土に埋葬するのです。市原さんは里山の雰囲気が気に入り、“土に還る”という理念もお気に召していただきました」(真光寺の職員、以下同)
もともと竹やぶだった地区を伐採し、桜や桃やサルスベリなどの木々を1本ずつ植えている。そのため、春から夏には、いつも花が咲く。
市原さんはエノキが気に入り、この木の下で土に還り、樹木という新たな命に生まれ変わることを望んだという。
「ご夫婦で緑がお好きだったようで、自宅でも『カポック』という観葉植物を大事にしていると話していました。ご主人の葬儀では、最後に参列者と歌って別れを惜しんでいましたよ。お墓参りには、ミッキー吉野さん夫妻が一緒でした。いつもミッキー吉野さんが、市原さんのお世話をしていた感じでしたね」
年配の女性ファンが数多くお墓を訪れる
今では市原さんを偲(しの)んでファンがお墓を訪れている。
「今年に入ってからも、命日が近いということで、さっそく来られていましたよ。ご年配の女性が多いですね。ご家族のお墓参りに来た方も“市原さんのお墓はどこですか?”と、よく聞かれます」
墓碑に本名の《塩見悦子》と彫らなかったのは、市原さん自身が「それじゃあ、ファンの方がいらしてもわかんないわね」ということで、旧姓の《市原悦子》にしたのだそう。
1年前に報道されたことと、違う点もあった。
「真光寺は、曹洞宗という宗派ですから、こちらでお墓をつくるということは、曹洞宗の信徒になっていただくことが前提です。無宗教だからという方はお断りしています。この場所がとても気に入ったけど、クリスチャンだから泣く泣く諦めたという方もいらっしゃいます。そういう方のためには、NPOがやっている樹木葬もあります。宗教に興味がない方は、そちらを選ぶこともあります」
真光寺の樹木葬は、三十三回忌までの永代供養が約束されている。
「お子様がいなくても法事は行えます。市原さんもお子様がいないので、誰にも面倒はかけたくないから、こちらにしたということもあったようです。その後は、骨が残っていたら合葬させていただくことになります」
寺の中には、位牌(いはい)を置いている牌堂がある。市原さんの位牌を見せてもらうと《遊戯悦楽信女(ゆうぎえつらくしんにょ》という戒名が記されていた。豊かな緑の森の中で、きっと喜びと楽しみを感じていることだろう。