埼玉から世界へ!子どもたちを虜にする85歳、「消しゴム」にかけた夢
消しゴムなのに、消したくない─そんな不思議な消しゴムがある。
野菜や果物、お菓子、お寿司、ケーキ、動物、乗り物などの形を模した消しゴム。いくつかの部品からできていて、組み立てながら遊べる、「おもしろ消しゴム」である。精巧なつくりのフィギュアではなく、まるっこくて、やさしい造形が特徴だ。
ホームセンターやバラエティーショップ、100円ショップ、ドライブインや空港などでよく売られている。最近は外国人観光客にも人気だ。
年間で6000万個製造
その消しゴムを発明したのが、『株式会社イワコー』の創業者である岩沢善和さん、御年85歳。まあるい体形で、どことなく消しゴムで作ったパンダと重なる。
そんな岩沢さんが大切にしているのが工場見学。創業者がたったひとりで直々に行う人気の見学会で、いつも予約は2か月待ちだという。
12月のある土曜日、見学会に訪れた。場所は、本社工場がある埼玉県南部の八潮市。参加者は幼稚園から小学生までの子どもが15人ほどと、20代から60代ぐらいの両親と祖父母とおぼしき大人が20人ほど。横浜からわざわざ来たという親子もいた。
「工場には3億円分の機械があります。3億円というと、200万円の車が150台あるのと同じだよ」
岩沢さんは、子どもにもわかりやすいように、身近なものにたとえて説明する。
消しゴムのアイデアができたら、職人が蝋で形を作り、形が決まったら、それを金型にし、その金型を機械に装着して、自動で生産する。
機械は24時間稼働し、1日20万から25万個、年間で6000万個製造している。そのうち2割強は海外約20か国に輸出される。現在、中国でいちばん売れているが、岩沢さんは困った話も浮上していると打ち明ける。
「イワコーの商品そっくりなものを、中国がコピーして売ってしまうんだね。アメリカでは3分の1とか4分の1の値段で中国産の消しゴムが売られているんだそうです」
おもしろ消しゴムを200個持っていて、オリジナルの「町」を作って遊ぶという小学2年生の男の子は「意外と作るのが難しいんだなと思った」と神妙な表情を浮かべる。
見学は1時間なのだが、機械音に負けないように大きな声で話すため、体力を使う。だが、岩沢さんのテンションはまったく下がらない。見学会の後半は、畳の部屋に移動して岩沢さんの苦労続きの生い立ちが紹介される。その話をうなずきながら聞いていたのは子どもたちに付き添ってきた両親や祖父母のみなさんだった。
女性なしでは成り立たない
この工場見学は、30年前、岩沢さんが社長時代からずっと続けている。最近はやや減らしたが、それでも、毎土曜日に3回開催。夏休み中には毎日1日3回やるのだという。年間1万人が訪れる。
「それだけやっても6割以上断らなきゃいけなくて。来たいと思っている人に対して断るというのは申し訳ないでしょ。会社がつぶれそうになったとき、いろんな人に支えられて今があるわけでね。恩返しができたらと思ってやっているんです」
見学の合間に社内を見ると、女性スタッフの多さに気づく。
聞けばアルバイトを含めた従業員70人中50人が女性だという。しかも消しゴムを組み立てるのは内職の方で、近隣の約300軒に協力してもらっている。この体制は創業間もなくから始まっているそうで、女性なしでは成り立たないのがイワコーなのである。営業の福島由香さん(47)が「女の園なんです!」と言っていたが、この表現、あながち嘘ではないのだ。
12月ということもあって、通路の一角におもしろ消しゴムでクリスマスの飾り付けがされていた。それを見つけた岩沢さん、作った女性スタッフを呼んでこう言った。
「これ可愛いね。可愛い人は可愛いものを作れるよね」
「やめてくださいよ〜、この調子でみんなに同じこと言うんだから!」
そう言って笑う女性に、
「思ったことしか言えないからね。明日も頑張ってね!」
岩沢さんはこうしたねぎらいの言葉を、折に触れてよく口にするという。
「岩沢さんは、若くてきれいな女性が来るとデレデレする」、などと福島さんにイジられても、どこか楽しんでニコニコしている。
8年前に社長を息子に譲り、役員などにはならず、一社員として毎日タイムカードを押して6時50分に出勤する。いまでも消しゴムの企画を考えるのが楽しいという岩沢さんとは、どんな人なのだろう。
人と話すのが苦手だった
岩沢さんは、1934(昭和9)年3月、東京・江戸川区で生まれた。父親はプレス工場に勤務。5人きょうだいの2番目だったが、小学校4年の夏休み、現在の千葉県旭市の叔父の家に預けられる。
「あのころはみんな貧しかったから、悲しいとか寂しいという思いはなかったです」
当時は戦争の真っただ中。敗戦間際は小学校の校舎が兵隊の宿舎となっていたため、授業はお寺や神社でわずかな時間行われた。
「預けられた家には年上の従姉妹がいてね。彼女が両親に“善和は頭が悪いから学校で恥ずかしい”と話している会話を聞いちゃった。それでなにくそ、と思って勉強するうちに、中学3年生のときには成績が1番になったんです」
中学卒業後、東京・浅草の文房具卸・小笠原産業に就職する。従業員は20人ほど。
当時、クリップのような文書ばさみや、ガラス製のペン先などがよく売れていたが、それらを木箱に詰めて、リヤカーに積み、卸に配達する仕事をした。先輩が自転車をこいで引っ張り、岩沢さんが後ろから押した。
浅草から麻布、新宿、池袋など遠くまで配達した。歩きっぱなしでお腹はぺこぺこ。
「お昼ご飯用に会社が30円くれたかな。それで1個10円のコッペパンを買うんだけど、ジャムをつけると5円、それだと2個しか食べられないから、何もつけずに3個買って道端に座って食べてました」
夕方へとへとになって帰ってくるのだが、新人には自転車磨きが待っていた。その後キャリアを積み、営業の担当になる。
「ところが僕は人と話すのが苦手でね。青森、福島、神戸、山口などに出張に行きましたが、苦痛でしたね」
その弱点はずっと克服することができなかった。勤続20年を目前に、岩沢さんは会社を辞めることを決心する。
1968年、千葉県松戸市の6畳2間のアパートで創業。
その数か月前の5月、小笠原産業と取引があり旧知の仲だった上村喜松さん(故人)に自分のアイデアを打診してみた。
「上村さんはプラスチック製品を作っているから、会社に文具部門をつくって、私を雇ってもらえないでしょうか」
するとハッパをかけられた。
「20年近く、大きな会社で仕事をしてきたんだろ。独立して自分でやりなさい」
「そう言われましても、貯金がありませんから、電話一本引けません。無理です」
当時は電話を設置するのに20万円もかかった。消極的な岩沢さんに上村さんは、力強くこう語りかけた。
「大丈夫だ。いいか、10円でノートを買ってきなさい。うちの会社の電話番号を君の会社の連絡先として使っていいよ。君あての電話を、うちの事務員に聞かせて、用件や相手の電話番号をノートにメモしておくよ。それをもとに君が折り返し電話をすればいい。1年間、いくら電話を使ってもいいからな。頑張れ!」
上村さんの弟・健吉さん(86)によると、会社の3畳ほどを岩沢さんに貸したという。
「兄は、まじめな性格の岩沢さんが好きだったんです。のちに、うちの工場の敷地が空いているので、プレハブを建てたらとすすめた。それがいまのイワコーのスタートです」
当時のノートをいまも大事にしている岩沢さんが、興奮ぎみにこう語る。
「上村さんがいなければ、いまのイワコーはなかったです。恩人です。“受けた恩は石に刻め、かけた情けは水に流せ”。これを学びました」
業績のアップダウンは家計を直撃
上村さんに背中を押される形で立ち上げた「岩沢工業」は、さっそく動き始める。
'60年代に《ゾウが踏んでも壊れない》というキャッチコピーで、プラスチック筆箱が大ブームとなったが、'68年当時も人気は衰えていなかった。岩沢さんはそれにあやかるように、プラスチック筆箱を企画。生産設備はないため、外部の工場に発注して作ってもらった。
これが売れた。しかしブームに陰りはつきもの。2年後には売れなくなり、ビニール製でファスナーやマグネットを使ったペンケースにかわってしまうのである。
次なる商品を考えなければ……と思っていたとき、スーパーの店先を借りて営業する文具店で、ある商品が目にとまった。
「シャープペンのノック部分に消しゴムがついていたんです。これだ、と思ったわけ。“プラスチック製の鉛筆キャップを作って、そこに消しゴムをつけたらどうだろう”と。そうして消しゴム付き鉛筆キャップができたんです」
岩沢さんと消しゴムとの出会いである。
'75年に発売されると、1日6万本作っても、店頭に並べる先から売れていった。ところが5年後にはまた売れなくなる。生き馬の目を抜く社会の常だが、同じ物を作るライバル会社が現れたのだ。
イワコーの歴史をたどると、新製品ができてしばらくは売れても飽きられる、あるいは他社にまねされて売れなくなる─ということを繰り返した。鉛筆キャップから消しゴムだけ取り出して売ったり、おみくじ付きの鉛筆キャップを販売したりもしたが、どれもやがて売れなくなった。
業績のアップダウンは、岩沢家の家計を直撃した。
イワコーの現社長で、長男の岩沢努さん(53)は、「ずっとお金がないと言われていたので、そういうもんだと思い込んでいた」と言う。
「外食はほとんどしなかったし、2〜3日に1回行く銭湯で月に1回買ってもらうコーヒー牛乳がぜいたくでした」
趣味はなく、酒も飲まず、仕事ひと筋。時間があれば職場の掃除をするキレイ好き。努社長によれば、父親は家で仕事の話はするものの、業績が悪くなったときも表情に出さなかった。
大ヒット商品「消しゴム付き鉛筆キャップ」が売れなくなった衝撃は大きく、会社が傾きそうになる。そこには取引先の裏切りもあったという。
「消しゴム付き鉛筆キャップのプラチック部品の製作を頼んでいた協力工場が、同じような商品を作って、イワコーよりも大きな会社に売ってしまったんですよ。ふざけるなと思ってね。それで、自分の工場をつくらなければと考えたわけです」
分割払いで機械を買ったが、使ってみると、そこは初心者の哀しさ、うまく使いこなせない。最初の1年は不良品の山ができた。それでも「なにくそ!」と発奮し、次なる商品を死にもの狂いで考えた。そんな中で生まれたのが、野菜の消しゴムだった。'88年のことだ。
「消しゴムメーカーは当時10社以上あったんですが、四角いものばかり。うちのような後発メーカーが同じものを作っても勝負にならない。ふとひらめいたのが野菜でした。子どものとき住んだ千葉の親戚は農家だったし、野菜なら誰でも食べると思ったからね」
約10年間の寝袋生活
しかし、どの卸にも見向きもされなかった。イワコーの消しゴムは合成ゴム製で87・7%消える正真正銘の消しゴムなのだが、「消えない消しゴムはいらない」と門前払い。
原因は、少し前から流行っていたキャラクターフィギュア。もともと消しゴムではないのだが、やわらかい素材だったことから“消しゴム”という認識が広まり、“複雑な形をした消しゴムは消えない”と、とばっちりを受けたのだ。
定規などの文具を作りながら急場をしのでいたら、'93年、ある問屋から、
「以前作っていた野菜消しゴムの金型あるでしょ。あれでもう1度作ってよ」
と言われた。
「5年前、大きな失敗をしたからやめたほうがいい」
と忠告するが、大丈夫だと言う。そこまで言うのならと、失敗してもダメージが少ない量を生産してみた。すると驚くほどの注文が舞い込んだ。結果、'97年には6億円強の売り上げを記録。イワコーは息を吹き返したのである。
ところが、である。売れるようになるとすぐに競合会社が現れ、いつものつぶし合いが始まる。競合の2社は倒産し、イワコーもダメかという観測が広がった。
ただ、売れなくなったとはいえ、ニーズがなくなったわけではなかった。作る会社はイワコー1社になったので、24時間態勢で機械を稼働させることに。夜中、機械が正常に動いているかが心配なので、岩沢さんは工場に泊まり込む生活を強いられた。
「機械がわからないアルバイトの人だと対応できないから、私自身が寝袋を持ち込んで、ピピッと警報音が鳴るとすぐ起きて対応するわけです。1か月のうち半分は寝袋生活。それが約10年続きました」
そうして危機を脱出。経営は徐々に上向いていく。
何度もピンチを迎えては、そのたびにそれを切り抜けてきた。たくさんの人の支援があったからなのだが、その呼び水となったのが、「正直さ」だったという。
上手な嘘より下手な正直
それを痛感したのは、'91年、主力の取引先が倒産したとき。イワコーも損害をかぶることになったのだ。
「人を介して、うちの取引先が倒産したことがほかの取引先に伝わると、“イワコーは大丈夫か”などといらぬ憶測を生む可能性があるし、印象が悪いでしょ。だったら、事前に自分の口からありのままを話したほうが、誤解がなくていい。そう思って税理士さんに相談したら大反対された。“誰も相手にしてくれなくなるよ”と。“仕事をやりたいからこれをやるんです”と食い下がったら、税理士さん、“定期預金がいくらあるかを書くから、これ持って行きなさい”と言ってくれてね」
10社の取引先を回ったところ、大成功だった。
「9社は頑張れと言ってくれました。材料の調達でお世話になっている社長から、“お金は半年待つよ。必要な材料は持っていけ”と言って励ましてくれました。そのとき痛感したんです。“上手な嘘より下手な正直”だと」
そうした骨のある経営者の背中を見て学んだせいだろう、利益のみにこだわらず、信義を大切にするところがある。
文具の企画・製作などを行う東京画鋲製作所の中尾貴信社長が、野菜消しゴムを使った文房具製作の相談を持ちかけたことがあった。野菜消しゴムにマグネットをつけた商品である。その申し出を岩沢さんは承諾した。
その際、中尾社長は、「他社から同様の製品を作りたいという業者が現れても売らないでほしい」とお願いした。中尾社長は振り返る。
「特許権、知的財産権などからまない案件ですから、あくまで口約束。うちより好条件を提示する業者が出てくれば売り上げも増えたはずです。実際にそういう話はあったようです。しかし岩沢さんは義理堅い方。一切排除してくださった。尊敬できる方です」
会社の経営が少し安定したからといって、安心はできない。野菜消しゴムに加え、どんな新商品を開発すべきかを絶えず考えていた。そんなとき思いついたのが動物シリーズ。ヒントはアメリカの代理店が送ってくれた1枚の写真だった。努社長が回想する。
「イワコーの商品がおもちゃ屋さんに並んでいますよということを知らせる写真だったのですが、ショーウインドーに動物のぬいぐるみが置いてあるのを、父が見つけた。それで“動物の消しゴムだ”と思いついたようです。その写真を見てひらめく直感力、これはかなわないですね」
そうして徐々に、消しゴムの種類を増やし、経営は安定していった。2008年に起きたリーマンショック後の不景気にも、イワコーはさほど影響を受けなかった。それどころか同年、国土交通省主催の「日本のおみやげコンテスト」で金賞を受賞。海外のおもちゃショーにも出展するほど事業は展開した。岩沢さんは言う。
「景気よりも、意識すべきなのは経営なんですよ。経営とは、新製品を作ることです」
イワコーの「おもしろ消しゴム」の品目数は全部で約700あり、以前はすべて岩沢さんが考えていた。しかし今は「4対6」で4が岩沢さんに対し、6が努社長という比率になる。
岩沢さんは野菜、果物、和菓子、寿司、料理セットといったものを企画することが多いのに対し、努社長は、トレーラーや水族館、恐竜、カメラ、モデルガンなどが多い。営業の福島さんはこう言う。
「岩沢さんはまあるい感じで可愛いものが多くて、社長はシャープな感じの男の子っぽいものが多い印象です」
リアル感を求めて
では、どのようにして消しゴムのアイデアがひらめくのだろう。岩沢さんに聞くと、かなり現場主義のようだ。
日曜日には、街に繰り出し、何が売れているかを見て歩く。近場では、つくばエクスプレス線の南流山や柏エリア。東京にも行くという。例えば浅草のサンリオショップや銀座の博品館などだ。“いいな”“参考になるな”と思う商品は必ず買って帰るようにしているが、苦い思い出もあるようだ。
「可愛い包装をした商品があったのでレジに持っていったら、“それ、ティッシュペーパーじゃありません”と言われたんです。生理用品だったんだけど、私はこれが欲しいとまじめに言っても、店長を呼ばれてしまいました。きっとヘンなおじさんだと思われたんでしょう。そのときジャンパーを着ていたんです。帰って娘に言われました。“背広を着ていったほうがいいよ”と。以来ずっと背広姿で見て歩くようになりました」
1人で行くのを躊躇(ちゅうちょ)するような場所には、娘や孫に助けを求めた。新宿に同行した長女の美華さん(54)は言う。
「ファンシーな雑貨屋を何軒も回りましたね。じっくり見て“この色、可愛いな”とか“このケース可愛いな”と言いながら、マスカラなどの化粧品を買っちゃうんです(笑)。もちろん支払うのは私なんですけどね」
孫と一緒に原宿の竹下通りにも何回も行っているのだという。当然だが、パンダを作るときは上野動物園に通い、富士山を企画した際には、実際にふもとまで足を運んだ。
「富士山を近くで見ると全体のシルエットがわからないことに気づいてね。少し後悔しました(笑)」
企画を固めていくときにはリアル感を大切にする。
美華さんは、マクドナルドのハンバーガーを買ってくるように頼まれた日のことをよく覚えている。いくつか買って帰ると、表面についているゴマの数を数えさせられた。
「おそらく、ハンバーガーの大きさとゴマのバランスをつかみたかったのだと思いますが、実際のものを常に観察する姿勢は一貫していますね」
こうした姿勢が魅力的な商品作りにつながるのだろう。
例えば鯛焼きには、皮の間からあんこがはみ出している様子が表現されている。それによって思わずゴックンとなる。形状にひと手間ふた手間かける。それはコストに跳ね返るのだが、その手間を惜しまない。職人肌の岩沢さんらしいところだ。
寿司は孫のダメ出しで改良が加えられた。
「最初、まな板にお寿司をのっけたのを作ったんですけど、孫に指摘されたんです。“おじいちゃんの作るお寿司はおかしい。いまのお寿司はぐるぐる回っているよ”と。それで回転寿司の形にしました」
最近は、注文の際にタッチパネルの端末が使われることを知り、タッチパネルも作った。善は急げ、と複数人の社員とともに1日に何軒も実際のお店を梯子したという。
遠慮せず、忖度もしない社員
ただ、際限なく、作りたい消しゴムを作るわけではない。たくさんの企画の中から絞っていくのだ。なぜなら、消しゴムを生産する際に必要な蝋や金型などを作るには、1個あたり合計2000万円を要することが珍しくないからだ。
よく「くまモンやふなっしーは作らないのか」と聞かれるが、手をつけないわけがある。
「あれはね、今後10〜20年人気を保てるかわからないから。早々に人気がなくなると製作費が回収できなくなるからね」
それにしても、「企画提出者が創業者と社長ということになると、社員は異論を挟みづらいのではないか」と尋ねると、岩沢さんは笑って首を横に振る。
「遠慮なし、忖度なし。この福島さんは、言いたいこと、バンバン言ってくるから」
名指しされた営業の福島さんにダメ出しポイントを聞くと、2点あるという。
1つは取り合わせ。
「うちはセットで売ることが多いんです。ペットやケーキ、料理などのタイトルで、6〜8個を1つのパッケージにして売るんですけど、セット化しにくいものを単体で作られてもすぐに店頭に並べられない。すると金型などのコスト回収が難しくなるんですよね」
もう1つは、メインのお客様に向けた商品を中心に企画してほしいということ。
「うちのメインの購買層は、小学校2年生ぐらいまでのお子さん。そうした層に向けた、丸くて可愛い製品が欲しいんです。外国人向けや大人向けもいいんですけどね」
横で聞いていた岩沢さんは、
「ひと昔前なら、“俺は創業者だ、ふざけんな”と言えた時代もあったけど、いまは物が売れない時代だから、批判を受けても我慢して、もっといいもの作るぞと(笑)」
そう言いながら、ダメ出しされた試作品が入ったプラスチックケースを眺めながら、
「ここにさ、“悔しいぞ、福島!”と書きたいけど、気が弱いから書けないの(笑)」
福島さんは「ハハハ」と一笑に付しながら、「この間の鯉、可愛かったですよ」とさりげなくフォローする。
新商品開発で火花を散らす親子
実は、岩沢さん、女性陣にも新しい製品の企画をもっと出してほしいと思っている。
「失敗してもいいんだよ。失敗は仕事で取り返せばいいんだから。作って失敗したら僕の責任だからね」
新製品開発で、岩沢さんと激しい火花を散らしているのは、努社長である。この2人、親子でありながら性格がほぼ真逆であるらしい。
「創業者はせっかちで、何でもすぐやるのに対し、社長は締め切りギリギリまでアイデアを寝かせる」(福島さん)
共通するのは、相手のことを「独断で企画を通す」と主張するところだ。どちらの言い分が真実かはわからないが、2人がいいライバルであることは確か。努社長は姉にこう言っているという。
「父親は、僕の抵抗勢力だ。でも抵抗勢力がいないとダメなんだよね」
岩沢さんは、工場見学の最後に子どもたちに必ず話すことがある。
「夢は寝て見るものではない。書いて達成するまで毎日それを見なさい」
岩沢さんの職場の机には、目標を書いた10枚の紙が貼ってあった。例えば「お寿司クリップ磁石付」は「平成29年6月30日までに必ず作る」。それ以外にも目標達成の日付を明記。目標を書いた日付も記されていて、すべてに「○月吉日」と書かれているところに祈りのような気持ちが垣間見える。この目標は自宅の食卓にも貼ってあるらしい。
「1日3回、食卓で食事をすると3回見るでしょ。そうすると忘れない。そうして目標を達成して、小さいことでもいいから1番になろう。そうしたら、もっと自信がついて、今度はもっと大きな1番になれるよ。一生懸命やれば何でもできるよ」
《おもしろ消しゴムで世界の子どもを笑顔にする》
それがイワコーが目指す大きな夢だが、いちばん笑顔なのは岩沢さんなのかもしれない。娘の美華さんが言っていた。
「作り手が笑顔になるときに、いいものができるから」
工場を案内し、子どもたちに笑顔をもらうことで、岩沢さんはエネルギーをもらっているのかもしれない。
取材・文/西所正道(にしどころ・まさみち) 奈良県生まれ。人物取材が好きで、著書に東京五輪出場選手を描いた『五輪の十字架』(2月に改題して中公文庫として発売)中島潔氏の地獄絵への道のりを追ったノンフィクション『絵描き-中島潔 地獄絵一〇〇〇日』など