「頂上を目指すなら、まず大将の懐に入ることだ。大将は権力そのもの、あらゆる第1級の情報が入る。大将以外には、ろくな情報は入らない。その第1級情報を分析すれば、おのずと自分がやるべきことの方向性が分かるということだ」

 後年、天下を取ったあとの田中角栄は、よく田中派の若手議員にこう言っていた。

 もとより学歴は尋常高等小学校卒、門閥、閨閥ともになく、世の泥水を口にしながら這い上がってきた田中にとって、政界でさらなる上昇気運に乗るために不可欠なのは、なんとかしてこの「大将」の懐に入ることだった。

 具体的には、時の最高権力者だった吉田茂の覚えをめでたくすることにほかならなかった。吉田のもとには、官僚の世界から池田勇人、佐藤栄作らの俊英が集まり、保守政治の「本流」として、この国の戦後復興と再建を目指す中核的グループを自認していたのだった。

 そうした吉田を頂点とする人材グループは、「吉田学校」と呼ばれた。「学校」の“優等生”だった池田や佐藤はやがて総理大臣となり、そこにもぐり込むことに成功した田中もまた、総理のイスに座ることになるのだった。

 なぜ、田中は吉田に接近することができたのか。また、田中が衆院初当選を飾った当初は、「どこの馬の骨か」と相手にしなかった吉田が、なぜ「学校」への“入校”を認めたのか。

 そこに触れる前に、当時の政治状況を簡略に解説しておく必要がある。田中が宿願を果たして国会に登場した頃の戦後間もなくの政党は、目まぐるしく離合集散を繰り返していた。こうした中で、田中は目先の利いた“俊敏”な動きを見せていく。

 昭和21(1946)年4月に行われた戦後初の総選挙で第1党を得たのは、鳩山一郎が結成した日本自由党であった。時の総理大臣は、旧憲法下(帝国憲法)で天皇による「大命」が下った幣原喜重郎だったが、自由党が過半数に及ばぬ第1党だったことにより幣原は欲が出たようで、「挙国連立内閣」での首班を目論んだのだった。幣原としては、それまで着手していた新憲法(日本国憲法)の成立、施行を自らの手でやりたかったようであった。

 しかし、翌22年4月の総選挙で初当選を果たしてくる田中の所属政党だった日本進歩党は、この時点、幣原を党総裁に迎えて内閣の継続を策したが、自由党はじめ各党の猛反対にあって、結局、幣原内閣は総辞職を余儀なくされた。

 ために、比較第1党である鳩山総裁の自由党が政権を担うことになったが、鳩山はその組閣作業中にGHQ(連合国軍総司令部)によるパージ(公職追放)に引っかかり、鳩山首班は幻となってしまうのである。当時、鳩山に近かった三木武吉、河野一郎(現外相の河野太郎の祖父)らも同様にパージとなり、鳩山に近い有力議員が不在となったことで、吉田茂を首班に担ぐことを容認せざるを得なくなったということだった。

 結局、吉田はそれまで幣原内閣で外相を務めていたが、自由党に入党、鳩山に代わって党総裁となり、幣原内閣総辞職から1カ月後の21年5月22日、第1次吉田内閣を発足させた。ちなみに、吉田は旧憲法下で選ばれた最後の総理大臣である。

★「チョビひげ野郎」の台頭

 当時からすれば、吉田はかなりのリベラリストであった。土佐(高知県)の自由党志士の子として生まれた吉田の岳父は、明治維新期の風雲児、大久保利通の次男で、外交官として活躍した牧野伸顕である。ためか、吉田も外交官の道を歩み、「親英米派」として軍部ににらまれ、憲兵隊に拘束されたこともあった。

 しかし、こうしたリベラル姿勢が逆に幸いして「戦犯」からはずれ、パージもまぬがれて総理の座が転がり込んできたのだから、世の中、何が幸いするか分からない。