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工藤恭孝氏

本屋さんにはなりたくなかった」

本好きの間では有名な話だが「ジュンク堂」という書店名は工藤氏の父・工藤淳さんの名前をひっくり返してできたもの。

「神戸には有名なパン屋さんでフロイン堂というのがありましたから、ジュンク堂?パン屋さんか?と、よう言われましたね」と、やさしいトーンの関西弁で語り始める工藤氏。

「でも、父はこの名前が気に入ってくれたようで、そのおかげで応援してもらえました。物心ついたときには父は本屋さんをやっていました。そのうち問屋も始めたりして、倉庫には本がいつでも山積み。本が当たり前のようにすぐ身近にいつもありました」

子どもの頃、店番をしながら雑誌を読んだりもしていたという。だが「本が大好きだったんですね」という質問には、苦笑する工藤氏。

「好きというより、その頃は『本はもうええわ!』って思ってましたね」

本屋さんはとにかく忙しくて、朝から晩まで働いている。年中ほとんど休めない。忙しそうな父親の姿を見ていたので「本屋さんになりたいなんて、これっぽっちも思っていなかった」という。

当時、街の本屋さんは年末は大晦日の除夜の鐘が鳴る直前まで開いているのが当たり前だった。

「紅白歌合戦を見た後で、付録に楽譜が載っている雑誌を買いにくる方も多かったですね」

週刊誌や月刊誌がドカンと納品されると、子どもたちも駆り出されて荷解きを手伝ったりもした。「父は働きづくめの一生でした。ああにはなりたくないなぁってずっと思っていたんですけど…」と、一瞬の間をおいてこう続けた。

「運命やったんでしょうね」

工藤氏は、実は理工系の科目が得意な高校生だった。ところが、高校一年生の体育祭で大けがをして意識不明の重体で、一時は生死をさまようくらいの状態に。

「たまたま運が良かったから助かったんだ、と周りの人から言われました」

ケガのせいで2学期は授業を受けることができず、成績はガタ落ち。理系に行くなら落第と言われ、それでも「明日死ぬかもしれないと思うと、無駄なことに時間は使いたくないな」と思い、文系に進むことを選んだ。

「あの時ケガをしなかったら、今ごろは順調に理系に行ってSEにでもなってたかもしれません。何が幸せなのか不幸なのか、わかりませんね」

「権限移譲」で赤字脱出!

神戸は山と海に挟まれた、いわば「ウナギみたいに細長い街なんです」。そんな街では、大型書店は流行らないというのが業界の常識であったという。

「そんな中で、300坪を超える大きな本屋さんを三宮に開くという計画でしょ。みんな大反対」

そんな逆境の中で、工藤氏の書店経営はスタートした。

「で、開けてみたらどうだったんですか?」とワクワクしながらタケが聞くと「案の定、大赤字が3年続きました」と、小さく笑う。「大型書店のことがなんにもわかってなかったんです」と語る工藤氏。

でも、本屋さんは子供の頃からずっと見てきた商売のはず。なぜ?と尋ねると「街の小さな本屋さんと大型書店では求められているものが全く違うんです。確実に売れるはずだと読んで仕入れた200冊の週刊誌が、たった1冊しか売れなかったなんていう失敗もありました」。

大型店については素人だった、と当時を振り返る。スタート時の大きな挫折を、その後どうやって乗り越えていったのか?

「私はいまだに自分ではレジも打てないし、お客さんの探されている本を棚から見つけ出してくることもできないという、現場では役に立たない社長なんです」

突然のそんな告白に「え?」と驚くタケだが、「だからこそ…」と工藤氏は続ける。

「最初のスタートに失敗したこともあって、本の仕入れについてはジャンル別に担当者を決めて、勝手に仕入れて勝手に本をそろえてくれよって言ったんです」

思い切った権限移譲を行ったわけだ。

「これが功を奏して、徐々に品ぞろえがよくなっていってお客さんからの評価もいただけるようになったんです」

勝手に本をそろえてくれと言われた社員たちも、自分が考えて自分が選んだ本で売り場の棚を作り、その棚から本が売れていくという体験を積み重ねていくことで「本屋の面白さ」を肌でリアルに感じることができたのだろう。それぞれの棚の担当者は、お客さんたちからの要望にも積極的に耳を傾けた。

あの本が無いのはおかしい、と言われれば「それどこに売ってますか?」と尋ねて遠くまで探しに行ったり、「この先生の本とこっちの先生の本は学説が違うのに、並べて置いたらあかん」なんてことを教えてもらったりもしたという。

「カリスマ書店員と呼ばれるような人がたくさん生まれてくるきっかけになったと思います」

書店員が自分の担当の棚に責任を持ち、お客さんからは品ぞろえを期待されるようになり、今度はその期待に応えようと勝手にどんどん注文し、それがまたお客さんの信頼につながり…と、「どんどん良くなるサイクル」ができていった。

この三宮の一号店は、5年目にようやく黒字化を果たしている。

パンや水と同じくらい、本は人間に必要なもの

業界の常識をかえりみずに神戸に大型書店を開くような決断をし、その経営に際しては大胆な権限移譲をして結果的に成功を導いた工藤氏だが、その縛られない自由な発想はどこから生まれるのだろうか?

「いろんな本から少しずつ、頭にモノが貯まってくるというのはありますね。本屋の役得です」と笑う。

「本を読んでいると、ハッと何か思いつくことがある。そう言えばあの件、こうしたらええな、というような解決のヒントをもらったりしますね」

直接的に何か知識を得ようと思って本を読む場合もなくはないが、ほとんどの場合は「行間とか、単語やフレーズが、その時に思っていたことや考えていたことと結びついてくれるんです」と嬉しそうに語る。

進路を変える一つの大きなきっかけとなった高校生の頃の大けがのおかげで「細かいことにクヨクヨしてもしょうがないと思えるようになった」という工藤氏は、人生においてもう一つの大きな事件に遭遇する。

1995年1月17日、阪神淡路大震災である。

「その夜は家族そろって自宅にいました。すごく揺れて家の中はぐちゃぐちゃになりましたが、外の様子はわからなくて、そんなに大きな被害だとは思っていなかった」と当時を振り返る。とはいえ家の中ではタンスはひっくり返る、ピアノは動く、本棚は一度倒れてまた起き上がっていたというような有様。

ガラスの破片が散らかった暗い部屋を歩くのも危険なので、布団にくるまって夜明けを待った。朝になって、まず弟が飛び込んできて「外が大変なことになっている」と教えてくれた。慌てて単車を引っ張り出して三宮本店に向かったが、その途中で電柱やビル、高速道路の倒壊を目の当たりにして心底恐れおののいた。

「本店に着いたら、ビルが全壊してました」

ただ、二号店と呼んでいるサンパル店が入っている建物は無事だった。

「無事と言っても、中はぐちゃぐちゃです。本棚も折れているし、水道管が破裂しているのに水道が復活したから、天井から水が降ってきて本は全滅」。

そんな状況であったが、どうしても営業を再開しなければならない理由が工藤氏にはあった。

「店を開かないと社員に給料が払えない。その時は、そういう会社の都合で営業再開を急がせたんです」。

営業再開の日を2月3日と決めた。震災の日から二週間余りでの復旧。

「三宮という地域を人が誰も歩いてない、そんな中でお店を開いたわけです」

果たしてこれでよかったのか?と内心では不安を抱えながらの開店当日、シャッターをガラガラっと開けて驚いた。

「ものすごいたくさんの人がどっと流れ込んでいらっしゃいました」

その時、はっきりと気づいたことがある。
「パンや水と同じくらい、本も非常時に必要とされるものなんだ」

この時の経験を通じて、人間にとってとても大事なものを扱っているんだということが社員にも自然な形で浸透していった。
「後に起こった東日本大震災の時にも、この経験が生きました」。

震災後、本屋に入ってくるお客さんたちが口々に「ありがとう」と言ってくれる。

本屋冥利に尽きるなぁと思いました。本屋なんて休みも少ないし、重いものばっかり扱うから腰も悪くするし…と思ってきたけれど、本屋をやってて本当によかったなと初めて思ったのがこの日です」


文化放送『The News Masters TOKYO』のタケ小山がインタビュアーとなり、社長・経営者・リーダー・マネージャー・監督など、いわゆる「リーダー」や「キーマン」を紹介するマスターズインタビュー。音声で聞くには podcastで。
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パーソナリティ:タケ小山 アシスタント:小尾渚沙(文化放送アナウンサー)
「マスターズインタビュー」コーナー(月〜金 8:40頃〜)

【転載元】
リーダーズオンライン(専門家による経営者のための情報サイト)
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