2016年最高に心震えた。森絵都の描く波乱万丈学習塾小説『みかづき』
学習塾がこれほど波乱万丈とは!
森絵都の新作『みかづき』は、2016年に読んだ本の中で、もっともグイグイ読まされてしまった大長編小説だ。
2016年9月10日のテレビ「王様のブランチ」BOOKコーナーでも大プッシュ。
北上次郎「圧倒された」、阿川佐和子「唸る」と絶賛。
「勉強がわからない」と泣きつかれた小学校用務員の大島吾郎が、用務員室で勉強を見てやったのが事の始まり。
みるみるうちに子供が増え、「大島教室」と呼ばれるようになっていく。
そして、大島吾郎の指導力を見込んだ赤坂千明が、彼とともに学習塾を立ち上げるのだ。
いやあ、波乱万丈である(二回言いました)。
「塾なんて、そんなものがうまくいくんでしょうか。本当にそんな時代が来るのでしょうか」
ここから、吾郎と千明の学習塾奮闘記がはじまるのだが、一筋縄ではいかぬ。
アンチ文部省で塾を大きくしようとする千明、それには乗り切れない吾郎。
教育観の対立あり、人と人の思いが乱れ、時代の流れがそれを翻弄する。
そして、娘や孫も、教育に携わることになっていくことによって、物語は、学習塾大河ドラマとして怒濤の展開を見せるのである。
大島吾郎のキャラクターがいい。
ひょうひょうとして、ツボに入るとひとりでいつまでも笑ってしまうタイプ。
で、誘惑に弱い。
というか、押しの強い女性にグイグイこられると、すぐにひょろひょろーっとそっちに行ってしまう。
それが悪い方向に出ちゃうと、“学童の母親との密通”なんてことになって、破廉恥だと密告されてしまう。
だけど、その弱さのおかげで、彼は、赤坂千明と共に塾をはじめ、教育の道に進むことになるのだ。
森絵都の小説には、極悪人や、ものすごい善人は出てこない。
弱さを持つ人間が登場する。
そういった人たちが、共感したり、傷つけ合ったりしながら、影響を与えあって、未来に進んでいく。
娘の蕗子が父にこう言うシーンがある。
「お父さん。お勉強や、いろいろなことを教わるっていうのは、脳を受けつぐってことでしょう?」
さらに、こう言うのだ。
「ね、お父さん。脳を受けつぐって、いいことだけど、ちょっと怖いね」
三代記であるから、同時代の横のつながりだけではなく、時代を超えて受けつがれていく縦のつながりが描かれる。
全八章。467ページと分厚いが、リーダビリティめちゃ高いので、ずんずん読める。
読み終わって圧倒される。
教育業界の歴史が、綿密に組み込まれている。
各章の間の時間がポンと飛んで、読み手に、あれこれ想像させるテンポのいい展開もすばらしい。
第一章
昭和36年。
「ジュク、それは何ですか?」「近ごろじゃ勉強教室のことをそう呼んだりもするそうで」という時代。
吾郎が千明に押し切られて、学習塾をはじめる。
千明27歳、吾郎22歳である。
第二章
昭和39年。
「そこから生じた教育のゆがみが、なぜだかすべて塾の非のようにされている」
塾が急増し、学習塾バッシングが起こった時代。
吾郎27歳。
第三章 青い嵐
昭和46年。
“学校教員の教科書を選ぶ権利が奪われ、教育委員会の手に渡っていた。教育現場の自由がまた一つ制限されたのである”
スパルタ塾ブームの流れ。吾郎の青春時代である。
吾郎32歳。
第四章 星々が沈む時間
昭和54年。
“二十年来、詰めこみ教育で子どもたちの尻を叩きつづけてきた文部省が、ここへ来て初めて方向を転換。「ゆとり志向」による学習内容の一割減を好評したのである”
塾ブームの絶頂期の四年後。「詰め込み教育」の是正がはじまる。
吾郎40歳。
第五章 津田沼戦争
昭和59年。
“エリート教育を要請しつづけて早三十年の経済界。いかなる教育政策にも反対する日教組。いかなる教育問題も選挙に利用しようとする政治家たち。単純に文部省のみを糾弾していた時代が懐かしいほどに、日本の「教育周辺」は今や混沌とした様相を呈していた”
血を血で洗う塾抗争の時代。
吾郎45歳。
第六章 最後の夢
平成3年。
「バカ野郎、宣戦布告だぞ、こりゃ。塾と業者テストを毛嫌いしている奴さんが文相になったときから、俺はヤバイと思ってたんだ。あっちがやるってんなら、受けてたとうじゃねえか」
文部省と塾の対立の時代。業者テスト追放へ。
千明58歳。
第七章 赤坂の血を継ぐ女たち
平成12年。
「学習内容は三割削減。これで落ちこぼれはいなくなるなんて、文部省は正気なのかな」
ゆとり教育の時代。
千明66歳。次女、蘭35歳。
第八章 新月
平成20年。
「素質もやる気もあるのに、家に金がないってだけで、同級生に遅れをとってる子もいる。この国はそんな子も切り捨てるのか」
教育格差の問題が浮上してきた時代。
千明73歳 吾郎69歳。
本格学習塾小説でありながら、ズシリと手渡されるのは、教育への思い、家族の在り方。
大島吾郎と千明の家族を軸にした教育に関わる人達の物語だ。
「学校教育が太陽だとしたら、塾は月のような存在になると思うんです。太陽の光を十分に吸収できない子どもたちを、暗がりの中で静かに照らす月。今はまだ儚げな三日月にすぎないけれど、かならず、満ちていきますわ」
47年に渡る群像劇を読み終わった後、ふたたびページをぱらぱらめくりながら、登場人物の生き方に思いを馳せる至福の時間を味わってほしい。
森絵都『みかづき』、傑作です。(米光一成)
森絵都の新作『みかづき』は、2016年に読んだ本の中で、もっともグイグイ読まされてしまった大長編小説だ。
2016年9月10日のテレビ「王様のブランチ」BOOKコーナーでも大プッシュ。
北上次郎「圧倒された」、阿川佐和子「唸る」と絶賛。
「勉強がわからない」と泣きつかれた小学校用務員の大島吾郎が、用務員室で勉強を見てやったのが事の始まり。
みるみるうちに子供が増え、「大島教室」と呼ばれるようになっていく。
そして、大島吾郎の指導力を見込んだ赤坂千明が、彼とともに学習塾を立ち上げるのだ。
「塾なんて、そんなものがうまくいくんでしょうか。本当にそんな時代が来るのでしょうか」
ここから、吾郎と千明の学習塾奮闘記がはじまるのだが、一筋縄ではいかぬ。
アンチ文部省で塾を大きくしようとする千明、それには乗り切れない吾郎。
教育観の対立あり、人と人の思いが乱れ、時代の流れがそれを翻弄する。
そして、娘や孫も、教育に携わることになっていくことによって、物語は、学習塾大河ドラマとして怒濤の展開を見せるのである。
大島吾郎のキャラクターがいい。
ひょうひょうとして、ツボに入るとひとりでいつまでも笑ってしまうタイプ。
で、誘惑に弱い。
というか、押しの強い女性にグイグイこられると、すぐにひょろひょろーっとそっちに行ってしまう。
それが悪い方向に出ちゃうと、“学童の母親との密通”なんてことになって、破廉恥だと密告されてしまう。
だけど、その弱さのおかげで、彼は、赤坂千明と共に塾をはじめ、教育の道に進むことになるのだ。
森絵都の小説には、極悪人や、ものすごい善人は出てこない。
弱さを持つ人間が登場する。
そういった人たちが、共感したり、傷つけ合ったりしながら、影響を与えあって、未来に進んでいく。
娘の蕗子が父にこう言うシーンがある。
「お父さん。お勉強や、いろいろなことを教わるっていうのは、脳を受けつぐってことでしょう?」
さらに、こう言うのだ。
「ね、お父さん。脳を受けつぐって、いいことだけど、ちょっと怖いね」
三代記であるから、同時代の横のつながりだけではなく、時代を超えて受けつがれていく縦のつながりが描かれる。
全八章。467ページと分厚いが、リーダビリティめちゃ高いので、ずんずん読める。
読み終わって圧倒される。
教育業界の歴史が、綿密に組み込まれている。
各章の間の時間がポンと飛んで、読み手に、あれこれ想像させるテンポのいい展開もすばらしい。
第一章
昭和36年。
「ジュク、それは何ですか?」「近ごろじゃ勉強教室のことをそう呼んだりもするそうで」という時代。
吾郎が千明に押し切られて、学習塾をはじめる。
千明27歳、吾郎22歳である。
第二章
昭和39年。
「そこから生じた教育のゆがみが、なぜだかすべて塾の非のようにされている」
塾が急増し、学習塾バッシングが起こった時代。
吾郎27歳。
第三章 青い嵐
昭和46年。
“学校教員の教科書を選ぶ権利が奪われ、教育委員会の手に渡っていた。教育現場の自由がまた一つ制限されたのである”
スパルタ塾ブームの流れ。吾郎の青春時代である。
吾郎32歳。
第四章 星々が沈む時間
昭和54年。
“二十年来、詰めこみ教育で子どもたちの尻を叩きつづけてきた文部省が、ここへ来て初めて方向を転換。「ゆとり志向」による学習内容の一割減を好評したのである”
塾ブームの絶頂期の四年後。「詰め込み教育」の是正がはじまる。
吾郎40歳。
第五章 津田沼戦争
昭和59年。
“エリート教育を要請しつづけて早三十年の経済界。いかなる教育政策にも反対する日教組。いかなる教育問題も選挙に利用しようとする政治家たち。単純に文部省のみを糾弾していた時代が懐かしいほどに、日本の「教育周辺」は今や混沌とした様相を呈していた”
血を血で洗う塾抗争の時代。
吾郎45歳。
第六章 最後の夢
平成3年。
「バカ野郎、宣戦布告だぞ、こりゃ。塾と業者テストを毛嫌いしている奴さんが文相になったときから、俺はヤバイと思ってたんだ。あっちがやるってんなら、受けてたとうじゃねえか」
文部省と塾の対立の時代。業者テスト追放へ。
千明58歳。
第七章 赤坂の血を継ぐ女たち
平成12年。
「学習内容は三割削減。これで落ちこぼれはいなくなるなんて、文部省は正気なのかな」
ゆとり教育の時代。
千明66歳。次女、蘭35歳。
第八章 新月
平成20年。
「素質もやる気もあるのに、家に金がないってだけで、同級生に遅れをとってる子もいる。この国はそんな子も切り捨てるのか」
教育格差の問題が浮上してきた時代。
千明73歳 吾郎69歳。
本格学習塾小説でありながら、ズシリと手渡されるのは、教育への思い、家族の在り方。
大島吾郎と千明の家族を軸にした教育に関わる人達の物語だ。
「学校教育が太陽だとしたら、塾は月のような存在になると思うんです。太陽の光を十分に吸収できない子どもたちを、暗がりの中で静かに照らす月。今はまだ儚げな三日月にすぎないけれど、かならず、満ちていきますわ」
47年に渡る群像劇を読み終わった後、ふたたびページをぱらぱらめくりながら、登場人物の生き方に思いを馳せる至福の時間を味わってほしい。
森絵都『みかづき』、傑作です。(米光一成)