日本サッカー史研究会例会
(4月15日 JFAハウス会議室)

★臼杵ツアーの報告
 日本サッカー史研究会の4月例会は「竹腰重丸を語る」シンポジウム(3月23日)の報告だった。
 竹腰重丸は戦前から戦後にかけて、プレーヤーとして、コーチとして、そして協会の役員として大きな功績を残した日本サッカー史上の偉大な功労者である。シンポジウムの開かれた大分県の臼杵は竹腰重丸が生まれ育った町である。
 シンポジウムでは、日本サッカー協会顧問の浅見俊雄さんが竹腰重丸の生い立ちと業績について報告をした。その内容は前月の研究会で事前に検討済みだったのだが、実際に現地に行って見ると、また新たな事実や見方が出てきた。「百聞は一見に如(し)かず」である。
 臼杵市の教育委員会は小学校卒業のときの成績表を探し出してくれていた。「全甲」(全科目が最高の評価)である。
 「偉い仕事をする人は子どものときから優秀なんだ」と感心した。

★上級武士の地域に育つ
 シンポジウム翌日、市の教育委員会,郷土史研究者などの方々が、臼杵市内を案内してくださった。
 竹腰重丸が生まれ育った家の跡にも案内された。いまはアパートが建っていた。
 シンポジウムの実行委員長を務めてくださった市会議員の方がご一緒だった。その方がびっくり仰天した。竹腰家の跡地の隣が、その市会議員の実家の跡地だった。あまりの「偶然」に、ほかの人たちも驚いた。
 しかし「偶然」には違いないが、極めて稀な確率の偶然ではない。
 そこは旧臼杵藩の上級武士の屋敷のあった地域である。その地域に育った人びとが中等以上の教育を受けて地域の指導者になったのだろう。少数の上級武士の社会から指導者層が生まれていたのである。

★涙を洗った川
 竹腰重丸のお母さんは臼杵藩の家老の娘だった。子どもたちを「武家のしきたり」で厳しく躾(しつ)けたという。
 友だちと喧嘩して泣いて帰ると「男の子が涙を見せるものではない」と叱った。それで重丸は家の近くの小川で顔を洗ってから帰った。その小川もちゃんと残っていた。
 竹腰重丸は臼杵ではサッカーをしていない。サッカーを知ったのは、中学2年で大連(現在の中国遼寧省)に移ってからである。
 現在は、ほとんどの子どもたちが小学生のころからボールを蹴り始めている。そのおかげでボール・テクニックは非常に巧い。しかし、すぐれたプレーヤーになるには技術が巧いだけでなく心が強くなければならない。その心の強さは、生まれ育った地域と家庭が育てるものだろうと思った。
 研究会では、スライドショーで臼杵ツアーの様子を見てもらいながら、そのことが報告された。