関西人の私が、 東京 に足しげく通い出したのは20歳になるかならないかの時分からだった。三遊亭円丈師の「実験落語」に共鳴して、東京の公演に行ったのがきっかけだった。

楽屋にも押しかけたり、若手噺家の家に泊めてもらったりした。そういうときは、おおっぴらに関西弁で話したが、電車に乗っているときや、外食をしているときは、極力抑えるようにしていた。関西弁で話すことが恥ずかしいとは思っていなかったが、周囲の人が振り返るのが煩わしかったのだ。

しかし昨今は、そういうことはない。新宿でも、恵比寿でも、池袋でも、関西弁をおおっぴらに話す人に出会う。時代は変わったとつくづく思う。中には、生粋の東京人で、関西弁をイントネーションまで正確に話すことが出来る人がいる。

関西弁は、もはや流行ではなく、あたかも多言語文化の一つのような形で、首都圏に定着したように思う。

この変化を推進したのは、間違いなく一私企業だ。言わずと知れた吉本興業である。

今年、創業100年を迎えた吉本興業は、大阪の寄席興行界の覇権を握ると、大正末期には東京に進出した。以来、現在に至るまで、不凍港を求めて南下するロシアのような熱意で、何度も東京でのビジネスを展開したが、うまくいかなかった。

初期には、東京の人気寄席芸人だった柳家金語楼、柳家三亀松、新興のボードビリアンの川田義雄などと専属契約し、生え抜き芸人とともに売り出した。

また、佐々十郎、藤田まこと、大村昆、江利チエミなど他のプロダクションに所属するタレントを、吉本が制作したり、パッケージングした舞台や、映画、番組で売り出したこともあった。

しかし、所詮は借り物での商売であり、長続きはしなかった。吉本生え抜きの芸人を東京で売り出すことができない限り、本格的な東京進出は実現したとはいえなかったのだ。

この宿望がかなえられたのは、1970年代後半の漫才ブームである。これは吉本興業が仕掛けたわけではなく、テレビ局が漫才を全国的なコンテンツとして売り出したものだった。
ただし、このブームの仕掛け人の一人には、50〜60年代に「てなもんや三度笠」で全国を席巻したディレクター、プロデューサーの澤田隆治がいた。吉本系をはじめとする関西の芸人を売り出そうという熱意を、吉本と共有していたのではないか。

すでに60年代にはテレビメディアの重要性を認識していた吉本は、在阪放送局と共同出資で番組制作会社を設立していたが、この時期からはキー局との関係を深めていった。吉本は、ダウンタウンを筆頭とする生え抜きの芸人を東京キー局の番組に送り込んでいった。

同時に吉本は、2本社制とし、東京に再度拠点を設置、95年にはフジテレビを追われた「ひょうきん族」の横沢彪を常務(のちに専務)東京本部長に据えた。

「漫才ブーム」が去ってからも、お笑い芸人のテレビでの重用は続いた。ゴールデンタイムの番組の多くがバラエティになり、「笑い」こそが番組の価値を決定する「通貨」となったことで、吉本のメディアにおけるステイタスは急上昇した。そして東京の番組に、大阪の芸人がレギュラーで出演し、関西弁でしゃべりまくることが当たり前になった。

吉本は、時代の潮流に乗るとともに、商品力、営業力、企画力のすべてを「東京進出」という一点に注入し、巨大市場を獲得したのだ。

私がすごいと思うのは、「関西の芸人」という「既存商品」を、東京という「新市場」に売る一方で、関西圏以外の出身の芸人=「新規商品」も育成し、関西を含む「既存市場」に販売したことだ。

関西弁をしゃべる吉本芸人が、キー局のバラエティを席巻するとともに、加藤浩次、オリエンタルラジオ、タカアンドトシ、博多華丸・大吉、ガレッジセールなど、関西弁をしゃべらない吉本芸人も出現して、関西を含む全国に名前を売って行ったのだ。