■最後までもたなかったオランダ戦
破天荒な目標を達成するには、確かに破天荒なプランが必要なのかもしれない。20世紀の五輪史を振り返っても、日本に金メダルをもたらしたのは常識を覆す斬新なアイデアだった。バレーも体操も次々に新しい技を編み出し、水泳でも新しい泳法を開発して世界を驚かせた。だから岡田監督がW杯でベスト4を目指す以上、世界の常識に照らし合わせて不可能なことに挑戦しようとするのは理解できないこともない。

だが現実的に、岡田イズムを刷り込まれた日本代表が、60分間飛ばしに飛ばしてもオランダは驚かなかった。もちろんオランダの主力選手たちに戸惑いはあった。もっと楽に試合を主導できると考えていた彼らは、最初は想定外のプレッシャーに苛立った。ロッベンもスナイデルも、日本の二重三重の包囲網にかかり、思い通りに笛を吹かないレフェリーに対し不満のポーズをとった。

だが彼らは早々と日本の限界も見切っている。ペース配分を度外視して走りまくるサッカーが最後まで持たないと読み、実際に日本の選手たちの足が止まり始めた65分過ぎからボール回しのペースを上げた。結局、闘莉王のエリアへのプレゼントパスを契機に、オランダは面白いようにチャンスを築き上げ、瞬く間に3点差をつけてしまう。逆に前半全ての局面において数的優位で挟み込みをかけていた日本は、ラスト20分を切るとボール保持者に体を寄せることもできなくなっていた。

それでも岡田監督は繰り返す。
「方向性は間違っていない。これを90分間もたせなければ戦えない」
しかしサッカーとは相対的な競技である。これ以上走る量ばかりに活路を求めて良い結果が得られるとは思えない。

■ただ走るだけでは相手は疲れない
NHKのドキュメント番組が示したデータに基づけば、昨年のユーロで決勝を争ったスペイン代表とドイツ代表のフィールドプレイヤーの1人平均の走行距離は10km前後なのに、日本は約12km。これだけ動きの量で上回りながらパフォーマンスで引けをとるのは、それ以上に質で負けているという論理になる。

日本は65分間走りまくってオランダを自陣に押し込めながら、肝心なゴールを奪えなかった。もしそれが90分間続いたとしても、今度は質の低下が懸念される。例えば最前線から間断なくボールをチェイスする岡崎に、あと9か月で質量ともに30%アップを望むのは不可能だし、それがベテランになればさらに夢物語になる。

一方で気になるのが、これだけの労働量を追求しながら、すっかりメンバーを固定してしまっている点だ。量が必要なら余計に分担する必要があるのに、出てくるスタメンは不変で、サブも滅多に使われない。固定メンバーで熟成を図るばかりでは、W杯どころか未来の日本サッカーにも陰を落とすことになる。

サッカーは陸上や水泳のように、自分のパフォーマンスを上げれば、そのまま結果に繋がるというものではない。つまり自分たちの走行距離が伸びても、必ずしも相手が疲れるとは限らないのだ。スペインやバルセロナは、ボールを走らせることで相手を疲弊させる。そのせいか、僕の周りにも「バルサに比べると、日本の選手たちは全然走っていない」という印象を持つ人が数多く存在する。
オランダ戦からも同じような教訓を得ることができたはずだ。前半彼らはじっくりと見て、終盤日本が疲れるとともに攻撃力を爆発させた。

今、岡田監督がやろうとしているのは、決められた11人で90分間一糸乱れぬ攻守の連動を貫くことだ。しかしこれでは世界との差が縮まるとも、日本の総合力が高まるとも思えない。むしろ非常に危険な方向に進んでいるように見える。(了)


加部究(かべ きわむ)
スポーツライター。ワールドカップは1986年大会から6大会連続して取材。近著に「大和魂のモダンサッカー」(双葉社)「忠成〜生まれ育った日本のために」(ゴマブックス)など。