東京・池袋で乗用車が暴走し、母子2人が亡くなった。この事件をめぐり車を運転していた男性に対し、「現行犯逮捕されなかったのは、”上級国民”だからだ」という憶測が出回っている。その理由について、文筆家の御田寺圭氏は「この社会には"不公平感"というマグマが蓄積しているのではないか」と分析する――。
2019年4月19日、東京・池袋の事故現場。乗用車(右奥)が歩行者をはねた事故現場を調べる警察官。(手前)は普通車と衝突したごみ収集車=東京都豊島区(写真=時事通信フォト)

■「ハイパーエリート」だから逮捕されないという憶測

母子2人が死亡し、8人の重軽傷者を出した池袋自動車暴走事故。犠牲となった母子の遺族が記者会見を開き、憔悴しきった様子でその胸中を吐露する様子は、正視に堪えないほど悲痛で切実なものだった。

事故を起こした無職の男性は東京大学を卒業して官僚となり、企業の重役を務め、さらには勲章受賞者でもある、いわゆる「ハイパーエリート」だったことが判明しており、そのことが現行犯逮捕されなかったことに影響しているのではないかという憶測が事故の直後から急速に広まっている。上記男性の経歴自体は真実だが、あたかも「超法規的な不逮捕特権(刑罰回避特権)」が存在するかのように断じられているのはいささか飛躍している。

■「上級国民」というワードはどこから来たか

事故直後に本人の働きかけによってフェイスブックが削除されたとか、携帯電話が解約されたとか、いわゆる「逆SEO(検索にヒットしにくくする工作)」がかけられたなど、証拠隠滅の工作を行ったのではないかという未確認情報がネット上には大量に出回っている。これらはあくまで未確認情報であり、現時点では真偽のほどは不明である。

それにもかかわらず、これらを事故直後には早々に真実であると断定して「ほらみろ、証拠隠滅に動いているじゃないか(それなのに逮捕されないのはおかしい、罰せられるべきだ)」と憤る人びとの数は日に日に膨れ上がり、男性が過去に勤めていた会社は異例のコメントを発表するまでに至っている。ついにはハッシュタグが登場して本人へのバッシングが大勢によって繰りひろげられたり、厳罰を求めるネット署名活動が展開されたり、その過程で個人情報が特定され家族や親族にまで累が及んでいる。その様子はまさに「正義の炎に燃える大衆」の恐ろしさをひしひしと感じさせるものだ。

事故を起こした男性のことを「上級国民」と多くの人が呼ぶようになっているが、もともと「上級国民」とは匿名掲示板「2ch(現:5ch)」のなかにある「嫌儲板」の人びとが、自分たちとはかけ離れた人生を送っている富裕層やエリートたちを侮蔑して(また身分の差はないとする社会の前提を嘲笑する向きも含めて)用いたのが発祥だった。今回の事件に際して、多くの人が当たり前のように「上級国民」というワードを使用しているさまには驚きを禁じ得ない。社会に不満を持つ層が集まるインターネット・コミュニティの片隅で局所的に用いられてきたにすぎなかったことばがここまで浸透力を持つとは予想だにしていなかったからだ。

■この社会に蓄積する「不公平感」というマグマ

「上級国民」という、身分差別を彷彿とさせるような語が抵抗なく広がっていること、またこのことばがある種の「私的制裁の正当化の方便」として用いられていることから、この社会には音をたてずに「不公平感」というマグマが蓄積しているのではないかと考えさせられる。

なんらかの理由で暴走した自動車が無辜の市民を死傷する事故はこれまでに何度もあったが、今回ほどの「正義の群衆」をつくりだしてはいなかった。加害者がエリートであったこと、犠牲者が無辜の市民であり、命を落としたのが幸せな暮らしを送る母子であったこと、そしてそのエリートが他の事故とは異なって逮捕されなかったように見えたこと、そのすべてがこの「不公平感のマグマ」を爆発させる起爆剤として作用したように思えた。たとえば被害者が幸せな母子ではなくて身寄りのない高齢男性などであったならば、おそらくこれほどの反応は惹起されなかったはずだ。

■「特別な彼らと、何者でもない私たち」

「今回はただ偶然に炎上案件となっただけ」だとはとても思えない。「エリートはズルをして地位も富も名誉も手に入れている」という感覚をおそらく多くの人が暗黙裡に内面化しており、その認識と整合的なストーリーラインが池袋自動車暴走事故で再現されてしまったように見える。エリートはズルをしている。それはカネや権力の話だけではない。こうしてなにか罪を犯したときにだって特別扱いされているのがなによりの証拠だ――と。それはまさに「特別な彼らと、何者でもない私たち」という対比構造にフィットする様相だった。

「上級国民」というワードをすんなり受け入れてしまったからといって、社会が分断され、階級闘争的になっていると結論づけることはできないが、エリートたちがカネも権力も、そしてなにより「ただしさ」もほしいままにしてしまい、非エリートたちは(直接にそういわれなくても)自分たちは劣っていて、弱く、そして間違っているかのような感覚が広まっていることは否定できないようにも思える。

■罵声を浴びせて「自分は無力な存在ではない」と肯定する

「正義の心に燃える群衆」の多くはこの平和で安全な社会で堅実に暮らしていて、自分たちは「よい市民」として暮らしているはずなのに、自分の傍らには、なぜかその暮らしが報われていないような感覚がつきまとっている。「自分は“ただしい行い”をしているのではなくて、ただ“間違っていない”だけ。“失敗していない”のではなくて、“成功していない”だけ」であると。否定はされてないがしかし肯定もされないような、「中空の存在」として生きることを余儀なくされている――そんな感覚があるのではないだろうか。

私たちは日々一切を穏やかに暮らしていくため、平和で安全な社会を一致団結して作り上げてきたはずだが、同時に「悪の帰還」を知らず知らずのうちに待ち望むようになったのではないだろうか。平和で安全な暮らしは、自分が「まとも」かどうか、「ただしい」かどうかの相対的な立ち位置を見失わせるが、わかりやすい絶対的な悪は、私たち一般市民に「まともさ」「ただしさ」を確認させてくれるからだ。

大勢の人がこぞってバッシングに加わり、怒号や罵声を浴びせる――その列に自分も参加することで、「自分はいまもただしい側にいるのだ」と再確認することができる。平時の自分ではとてもかなわない相手を糾し打倒することで、「自分はけっして無力な存在ではないし、ただしい行いもできる」と肯定される。

いま苛烈を極めている「上級国民バッシング」は、殺人事件による死者も自殺者も減少し、自動車事故の死者数も年々減少する平和で安全で穏やかな社会のなかで「ただしさの不在」におびえる人びとの反動として吹き荒んでいるのではないだろうか。

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御田寺 圭(みたてら・けい)
文筆家・ラジオパーソナリティー
会社員として働くかたわら、「テラケイ」「白饅頭」名義でインターネットを中心に、家族・労働・人間関係などをはじめとする広範な社会問題についての言論活動を行う。「SYNODOS(シノドス)」などに寄稿。「note」での連載をまとめた初の著作『矛盾社会序説』を2018年11月に刊行。Twitter:@terrakei07。「白饅頭note」はこちら。

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(文筆家・ラジオパーソナリティー 御田寺 圭 写真=時事通信フォト)