学生の窓口編集部

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悪いことをすると街じゅうに張り出される「手配写真」。そのシステムを作り出した江藤新平(えとうしんぺい)こそが、日本で最初に「指名手配」された人物なのはご存じでしょうか? 日本の司法制度の祖とも呼べる江藤新平は、現在の法務大臣や最高裁判所長官にあたる初代司法卿(しほう)を務め、日本の近代化に尽力した人物。江戸時代からおこなわれていた「人相書き」を「手配写真」に変え、警察の近代化もこのひとの功績です。ところが政府とは意見が合わず反乱に加担……こともあろうか自分の「手配写真」が出回り、日本発の「指名手配犯」になってしまったのです。■罪を憎んでひとを憎まず

明治維新の立役者のひとりである江藤新平は、1834年に佐賀藩の武士の長男として誕生した。16歳になると藩校である弘道館で学び、やがては政治結社・義祭(ぎさい)同盟のメンバーとなり、大隈重信らと行動を共にします。23歳になると「開国してもっと強い国になるべき」とした意見書・図海策(ずかいさく)を作成。先見の明がある! と評価され、これを機に脚光を浴びるようになりました。

28歳のときに脱藩し京都で活動、桂小五郎や伊藤博文など明治初期に活躍した人物らと交流を持つように。当時の「脱藩」は重罪で、江藤も捕まり佐賀に連れ戻されてしまいます。通常なら死刑にあるところを藩主・鍋島直正(なべしま なおまさ)の温情によって無期限謹慎に減刑されました。33歳になると、政権が朝廷に返上される「大政奉還」がおこなわれ、これを機に謹慎が解除され、江藤は佐賀藩の代表として政治デビューを果たしました。

それからの江藤は「法律こそ近代国家の根底」と考え、法律と司法制度の整備に尽力します。1872年・39歳のときに初代・司法卿(しほうきょう)に就任、現在なら法務大臣、最高裁判所長官などに相当する重職なので、活躍ぶりがうかがえよう。その後は「人民の権利を保護する」をキャッチフレーズに司法制度の土台を確立、悪人を取り締まるのと同時に「罪を憎んで人を憎まず」の精神から「監獄則および監獄図式」を発令。いまでいう刑務所での規則にあたり、

・まじめに作業した者には工銭(=給料)を支払う

・刑務所内に病院を新設する

と人間味あふれる内容もあれば、

・逃亡したらすぐに捕まえられるように、あらかじめ写真を撮っておく

と、性善説?性悪説?の両面を備えていた。この写真こそが、日本の元祖・手配写真である。

■法に守られなかった「法の番人」

順調に思えた江藤の人生は、1873年に一変する。よりにもよって政府相手に暴動を起こしてしまうのです。江戸幕府から切り替わったばかりの明治政府は文字通り混乱の毎日で、激しい意見の対立など朝飯前、意見が通らなかった江藤は、西郷隆盛らとともに職を辞し佐賀に戻りました。ところが、江藤を待ち受けていたのは不満をもった士族たちで、最初はなだめていたものの引っ込みがつかなくなり、ついに反乱へと発展します。これが1874年の佐賀の役である。

悪い流れは変わらないもので、1ヶ月ほどで敗退……応援を請うため江藤は薩摩や土佐を巡るがこれも空振り。今の高知県で捕まってしまいました。このとき、決め手になったのが「手配書」で、つまりは自分の作ったシステムによって、逮捕されてしまったのです。

東京で裁判にかけられることを望んだが、ろくな審議もされずその日のうちに死刑が言い渡され、江藤はその生涯を閉じる。彼が作り出した「手配写真」は機能したようだが、肝心の「法」はどこ吹く風か。江藤の理想は先進的すぎたようです。

■まとめ

 ・「手配写真」を作り出したのは、江藤新平

 ・39歳で司法卿(しほうきょう)に就任。日本の「法」の祖と呼べる人物

 ・意見の対立を理由に辞職、佐賀に戻って暴動を起こす

 ・手配書によって逮捕された、日本初の指名手配犯でもある…