遥かなるツール・ド・フランス 〜片山右京とTeamUKYOの挑戦〜
【連載・第12回】

 片山右京が3年後の参戦を目標としている「ツール・ド・フランス」が今年も幕を開けた。世界中のロードレーサーが夢見るその大舞台に初めて参戦したのが、TeamUKYOのテクニカルアドバイザーを務める今中大介だ。今中は、片山右京の挑戦をどう感じているのか――。

 7月5日、世界最高峰のサイクルロードレース、ツール・ド・フランスが開幕。101回目となる今年のツールは、イギリスのリーズからスタートした。

 初日は比較的平坦な190.5キロのコースを走るステージだったが、2日目は、9カ所の山岳ポイントが盛り込まれた起伏の激しい201キロを走破。そして3日目の7月7日は、ケンブリッジからロンドンまでの155キロを一気に駆け抜け、8日からはいよいよ舞台をフランスへ移す。22チーム・198名の選手たちは、7月27日の最終ステージ、パリ・シャンゼリゼのゴールを目指して、3週間に及ぶ苛酷な戦いを繰り広げる。

 この選手たちの中に、日本人の新城幸也(29歳/チーム・ユーロップカー)がいる。新城は今年5回目の参戦で、この世界最高峰のレースを日本人選手が走ることは、もはや当たり前のように受け止められつつもある。だが、もちろんそれは当然のことではない。新城がロードレーサーとして世界トップクラスの突出した能力を備えており、しかも、欧州の自転車ロードレース社会を生き抜いてゆく努力と強靱な精神、そして卓越したコミュニケーション能力を備えているからこその、プロツアーチーム所属であり、グランツール参戦である。

 彼のような日本人選手がツール・ド・フランスに参戦し、レースの本場で活躍する礎(いしずえ)を築いたのは、現在、TeamUKYOのテクニカルアドバイザーを務める今中大介だ。

 今中は、近代ツール・ド・フランスに参戦を果たした最初の日本人だ(厳密には、現代のように競技が整備されていなかった時代の1926年と1927年に川室競が参戦している)。片山右京と同じ1963年生まれの今中は、1994年に単身渡欧し、イタリアの名門プロチーム「チーム・ポルティ」に所属。その当時、片山はティレルからF1に参戦していた。偶然にも、ともにレースの本場である欧州で活動をしていたわけだが、当然ながらこのときはまだ両者の間に面識はない。

「右京さんも最初にヨーロッパに渡ったときは手探りで、その日の気分で期待と不安が出たり入ったりする精神状態だったと思うんですが、僕の場合は、まったくの不安だらけでした」

 と、今中は当時の自分を振り返る。

「当時所属していたシマノの社長に、ヨーロッパに行かせてくれと直談判して、『そこまで言うならやってみろ』とゴーサインを出してもらったんですが、それにしたって片道切符です。自転車も向こうでは用意されない可能性があるので、自分で抱えて持って行きました。最初のころ、ポルティのチーム監督はロクに話もしてくれないような状態で、レースにも出してもらえないし、『このまま日本に帰されるのかな......』とも思ったんですが、不安を抱えてばかりいても仕方ないので、毎日の練習の様子を書いて監督に提出していました。たとえ、彼が昼寝をしている時間でも必ず行って、『また来たのか』と言われながらも、とにかく自分を見てもらおうと日参しました」

 このとき、今中はすでに31歳。アスリートとしての選手寿命を考えると、けっして早い年齢での挑戦ではない。

「今の時代ならネットでたくさんの情報が分かるから、あらかじめ調べて、挑戦が可能かどうかという予測を立てることもできるけれど、僕らの時代にはそんなものは何もありませんでしたから。右も左も、何もかも分からない尽くしだったからこそ、挑戦できたんだと思います。右京さんも、おそらくそうだったんじゃないでしょうか。『今、やれ』と言われても、絶対にできないですね(笑)」

 その努力が認められて、今中は少しずつチーム内での信頼を得るようになっていった。1995年には、ジロ・デ・イタリアに、そして1996年にはついに、ツール・ド・フランスへ出場する。

 日本人選手が世界最高峰のサイクルロードレースを事実上初めて走ったという意味で、この参戦は間違いなく快挙であった。だが、今中は最終ステージまで完走を果たすことはできなかった。体調不良や故障などが重なり、第14ステージでリタイアを余儀なくされた。

 その後、翌1997年のシーズン終了をもって、選手活動を引退。現在は、現役時代に蓄積した人脈を活かして自転車輸入商社のインターマックスを運営し、様々なメディアを通じてサイクルロードレースの普及啓蒙活動にも精力的に取り組んでいる。それらの活動の中で片山右京と出会い、TeamUKYOの設立時からテクニカルアドバイザーに就いていることは、この連載の初期にも触れたとおりだ。

 その今中を、もう一度、ツール・ド・フランスの舞台に連れて行きたい――。最終ステージのゴール、シャンゼリゼに立たせてやりたいという思いを、片山右京は胸に抱いている。

 この話題に触れると、今中はややうつむき加減になった。そして、込み上げるものをしばし抑え込むようにしたあと、面を上げて照れたように訥々(とつとつ)と口を開いた。

「右京さんがそう思ってくれているのは、ありがたいですね......。まるで映画のような、夢のような話です。僕自身、みなさんのためにと思って今まで様々な活動をしてきましたけれど、逆に自分のために何か、ということは言われたことがないので......。そう言ってもらうたびに、自分も何かしなきゃ、右京さんが頑張りやすい状況を作らなきゃ、と思います」

 そこまで献身的な思いを抱くのは、競技ジャンルは違えども、偶然にも同時代に世界の頂点を目指してレースの本場欧州で活動をしてきたという、強い相互理解があるからだ。さらに、片山が現在のサイクルロードレース界に果たした貢献の大きさにも報いたい、と今中は言う。

「僕らの時代はドロップハンドルの自転車で走っていると、『競輪選手?』とか、『トライアスロンやってるの?』と言われる状態で、公道を走ってトレーニングをしていてもクルマに幅寄せをされたりして、肩身の狭い思いをしてきたんです。近年のロードバイク人気の高まりには様々な要因があるだろうけど、右京さんはそれに間違いなく加速をつけてくれた。特に、競技に特化していたこともあって、日本の自転車ロードレースにとっては救世主のような存在です。だから、右京さんがツールを夢見ているのであれば、なんとかしてその力になりたいですね」

 そのためにも、来年が勝負の年になる、と今中は言う。

「スピードが命です。楽観的でばかりもいられないのですが、各方面の人材を増やして層を厚くし、選手やスタッフ、右京さんの思いがうまく回っていくようにしっかりと順序立てて取り組み、運営していくことが必要でしょうね。モータースポーツのTeamUKYOがうまくチームを運営できているように、それと同じレベルのものを自転車チームでもきっと達成してくれると思います」

 101回目のツール・ド・フランスは、イギリスからドーバー海峡を越えて、フランスへと舞台を移す。選手たちの大集団は、最終ゴール地点のシャンゼリゼに向かって走り続けている。今はまだ、遥か遠くの極東の地にいるTeamUKYOも、数年後のシャンゼリゼを目指し、ひたすらペダルを踏み続けている。

(次回に続く)

西村章●構成・文 text by Nishimura Akira