『くちびるに歌を』中田永一/小学館

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いよいよ明日に迫った第8回本屋大賞結果発表。今年も候補作を全作読んで、自分なりに評価もつけてみました。昨年の全作レビューはこちらからどうぞ。まずは作者の名前順に、前半5作をご紹介します。

『ピエタ』大島真寿美
(内容紹介)
小説の舞台は18世紀のヴェネツィア共和国だ。そこに存在した孤児たちを養育するピエタ慈善院には音楽院の性格も備わっており、孤児たちの中で才能に秀でた者が行う合奏・合唱が院の主要な収入源になっていた。ある日、ピエタで暮らす女性の1人、エミーリアは、かつて院で音楽の指導を受けたことがある貴族の娘、ヴェロニカから奇妙な提案を持ちかけられた。旅の地で客死したばかりの作曲家アントニオ・ヴィヴァルディに教えを受けたとき、彼女はその楽譜に自作の詩を書きつけたというのだ。もしその楽譜が見つかれば財政難に苦しむピエタに巨額の寄付を行ってもいいというヴェロニカの申し出に魅力を感じ、エミーリアは楽譜の行方を捜し始める。その道筋で彼女が出会ったのは、ヴィヴァルディが生前に交友を持った高級娼婦、クラウディアだった。
(評価)
脳裏に200年以上のヴェネツィアの情景が浮かんでくる。その鮮やかさにまず感嘆させられた作品だった。ヴェネツィアではカーニバルが盛大に行われる。誰もが仮面で顔を隠しながら往来するのだが、その慣習は見事にプロットに活かされているのである。また、娼婦であるクラウディアが社会批判の眼差しを持っていることにより、小説は縦のふくらみも備えることになった。歴史小説としてはほぼ完璧な質感を備えている。
小説のはじめのほうでエミーリアが、家であり故郷でもあるピエタに感謝を捧げる場面がある。少女時代を懐かしむ言葉ともとれるのだが、それにとどまるものではない。恩寵のような優しい時間は人生のところどころで不意に訪れるものであることを、エミーリアはその身をもって体験することになるからだ。小説中でもっとも美しい個所の1つは、孤児であるエミーリア、貴族の娘ヴェロニカ、そして高級娼婦のクラウディアが一堂に会し、「ぽっかりと時の流れに浮かんでいるような」一夜を過ごす場面である。決して長くは続かない、そうした時間のきらめきを美しく切り取ってみせる小説なのだ。

『人質の朗読会』小川洋子
(内容紹介)
日本から見れば地球の裏側に当たる場所で、反政府ゲリラが日本人観光客ら8名を人質にとって立て籠もるという事件が起きた。軍と警察によって行われた突入作戦は失敗し、人質は全員が死亡してしまう。後に公開された盗聴記録から、彼らが自分の思い出を文章にして朗読しあうことで長期間にわたる監禁生活の無聊を慰めていたことが判明した。『人質の朗読会』は、それらの朗読を採録したという想定の短篇集なのである。
収められた短篇は9つ。8人の人質たちの朗読と、彼らの朗読を傍受していたことによって触発を受けた現地の兵士が行った追加の1つである。家の向かいにあった鉄工所の工員が公園で怪我をした場面に出くわしたという子供のころの出来事を語る「杖」、勤めていた菓子工場から持ち帰った不良品がきっかけで偏屈で知られた大家の女性との交流ができたという過去の「やまびこビスケット」など、人生の断章がひそやかに語られていく。
(評価)
「やまびこビスケット」で登場する工場はビスケットの形にこだわり、バリエーションも動物なら原生動物や腔腸動物まで網羅していたという。ありえない話だ。こうした形で作者は、人質たちの「過去」が現実そのままではないというシグナルを出しているのだろう。また収録作の1つ「B談話室」は、とある公民館の一室で行われる集まりに顔を出し続ける〈僕〉の話だ。そこでは危機言語を救う友の会やお米にシェークスピアを書く集いなど、毎回テーマの違う会合が行われる。どの場合でも〈僕〉は会員の資格を満たしていないのに、まったく違和感なく溶け込むことができた。存在は偽りでありながら、そこに参加している間に感じる充実感は偽りのないものだったのだ。虚構=フィクションはそうした性格を持っている。最後の1話が人質ではない兵士の語ったものであることにも意味がある。物語は消えず、とどまらず、地続きに拡散していく。そのことを作者は書きとめておきたかったのだと私は考えている。1つ1つの物語から、読者も何かを受け取るはずだ。


『ジェノサイド』高野和明
(内容)
特殊部隊出身の傭兵ジョナサン・イェーガーは、肺胞上皮細胞硬化症という難病に苦しむ息子の治療費を稼ぐため、世界各国で過酷な任務を請け負っている男だ。あるとき彼は、戦争状態が続くコンゴのジャングルに潜入し、標的を討ち果たすように要求される。だが不可解なのは、想定される対象が子供だとしか思えないことだった。
 そのころ日本では、東京文理大学の大学院で創薬化学を専攻する学生・古賀研人が奇妙な事態に巻き込まれていた。急死した父・誠治からのものだと思われるメールが彼の元に届けられたのだ。そのメールの指示通りに行動を起こした研人は、500万円もの大金が入った銀行口座と、私設の実験施設が彼のために遺されていることを知る。そうまでして父が息子に託そうとしている使命とはいったい何なのかーー。
(評価)
「このミステリーがすごい!」他の年間ランキングで上位を総なめにし、第2回山田風太郎賞を受賞するなど、2011年エンターテインメント界最大の収穫として評価の定まった作品である。ジェノサイド=大量殺戮というタイトルは、地球上に存在するすべての生物の中で、唯一人間だけが自分と同じ種族のジェノサイドを行うものだという、ある作中人物の主張を受けたものだ。そこから予想されるように、小説の中盤では思わず目を背けたくなるような惨たらしい場面が展開される。それを描くことは、作者の重要な目的の1つであったはずだ。人間という種族の残酷な側面を直視しようという意志の表明として高く評価したい。これは、そうした心の痛みを経由せずに書くことはできない小説だろう。1つの使命、理想を複数の者たちが継承していくという描き方にも共感させられる。
 とにかく存在感に圧倒させられる作品だが、瑕もある。本書には2人の視点人物が存在する。その2本の線がどの時点で合流するのか、という関心が物語を牽引していくのだが、そこに「虚構の物語だから」では済まない偶然の連鎖があることが私には気になった。

『くちびるに歌を』中田永一
(内容)
長崎県五島列島のある中学校で小さな事件が起きた。合唱部の顧問も務めている松山ハルコ先生が出産と育児のため休職することになり、彼女の中学時代の同級生だという柏木先生が臨時の音楽教師として赴任してきたのだ。柏木先生の美貌につられ、女子しかいなかった合唱部には男子の入部希望者が殺到する。結晶のようにまとまっていた合唱に不協和音が混じることになり、男ぎらいの仲村ナズナは気分が悪くて仕方がないのである。
その迷惑な不協和音の1人に、桑原サトルがいた。それまでのサトルは、教室の中ではひたすら目立たないように努め、学校が終われば一目散に家に帰る地味な生徒だった。彼には自閉症の兄がいて、勤務する工場からの帰宅に付き添わなければならないという事情もあった。だが、偶然に耳にした合唱部の歌声が彼を変える。あそこに加わり、一緒に歌いたい。そんな気持ちに背中を押され、サトルは音楽室を訪ねる。
(評価)
「1つになろう」というメッセージが日本中で唱えられた2011年で、その言葉をもっとも美しく、さりげない形で表現したのが『くちびるに歌を』という作品だった。声が空間を満たし、人々の心の中に沁みこんでいくさまを、ごく自然な語彙を用いて中田は書く。開巻早々に描かれる、「声というよりも、あたたかい水」のような合唱が「校舎にはさまれた中庭に満ちていく」場面の静かな美しさに、読者は心を奪われるはずだ。「声がぴたりとかさなったとき」「永遠に、おわらなければいい」と願う合唱部員の気持ちに、自然と自分の気持ちもかさねたくなる。1つになりたい、ふらつかずに自分の足でしっかり立ちたい、という2つの気持ちが、合唱の奇跡を起こすのだ。
青春小説としてはほぼ完璧なプロットを備えた小説で、ナズナとサトル、2人の心の成長を描いただけでも十分なのに、長谷川コトミというもう1人のヒロインを巡る冒険まで加わる。サトルの兄を登場させるやり方も心にくいばかりだ。1人として無駄な登場人物がいない、素晴らしい小説である。

『ユリゴコロ』沼田まほかる
(内容)
次々に身の回りで起きた出来事により、〈僕〉こと亮介の世界は短時間に一変してしまっていた。恋人が失踪、父親が末期のすい臓がんと診断され、直後に母が交通事故で急逝と、悪趣味な神に弄ばれているかのように不幸が続いた。ある日亮介は、父親の不在中に上りこんだ実家で不審な4冊のノートを発見する。何者のものともわからない字体で記されたそれは、「ユリゴコロ」と題された手記だった。書き手である〈私〉は幼少のころに定期的に病院通いをしていたという。医師が〈私〉を指していつも言うのは「この子にはユリゴコロがない」ということだった。やがて〈私〉は、あることがきっかけで自身にもユリゴコロがあると気付く。事故に遭った友達を見殺しにしたとき、故意に人を死に追いやったとき、〈私〉はユリゴコロに満たされるのだーー。
おそるべき告白手記を前にして亮介は困惑する。この書き手は何者なのか。記された出来事は事実なのか。その謎を解く鍵は亮介の両親の過去にあった。
(評価)
手記という形で提示された過去の中に秘められた真実を探る物語だ。主人公である亮介は、幼少のころに母親が入れ替わったのではないかという妄想に取りつかれており、そのことと「ユリゴコロ」の手記との関係も検討される。
小説の序盤から中盤にかけては、読者は亮介と一体化して事態の推移を見守ることになる。そこで感じるのは自身の存在にまつわる根源的な不安だ。自分自身や、血を分けた肉親の中に得体の知れない化け物がいるのかもしれないという怖れに激しく心を揺さぶられるのである。だが後半部から覚えるようになるのは別の感情だ。手記の書き手である〈私〉は我が身を指して「人間のできそこない」と自嘲する。怪物であることを自認しながら生きなければならない者の哀しみが、次第に実感できるようになるのである。そうした形で「他者」の存在を意識させられた後に、余韻を残す結末が待ち受けている。(杉江松恋)
(後編につづく)