『BRUTUS特別編集 合本・今日の糸井重里』マガジンハウスムック
雑誌「ブルータス」の特集「今日の糸井重里」(2011年4月15日号。同年の「雑誌大賞」受賞)、「ほぼ日と作った、吉本隆明特集」(2010年2月15日号)および「カーサ・ブルータス」2011年9月号の「ニッポン再生の参考書。」に掲載されたものを再編集し、増補改訂したもの。ただしそのタイトルどおり、やはりメインは糸井さんという構成になっている。

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3月16日、評論家の吉本隆明が亡くなった。くしくもその前日には、雑誌「ブルータス」での「ほぼ日と作った、吉本隆明特集」(2010年2月15日号)の内容を再録したムック『合本 今日の糸井重里』が発売されたばかりだ。その生前に出た最後の本が、糸井重里とのコラボレーションだったというのは、吉本隆明という人の一貫したスタンスを考えると、ぼくには何だか象徴的なことのように思われる。

明治以降の日本に登場した思想家のなかでも、吉本隆明がかなり異色の存在であったことはすでにいろんな人が指摘している。たとえば、どこの大学の先生にもならず生涯、在野で言論活動を続けたということ。いや、在野の思想家なら、ほかにも何人か名前が浮かばないわけではない。しかしそのほとんどは経済的にも文化的な資産にも恵まれた家で育った人だったりする。そのなかにあって、東京・月島の船大工の息子として生まれ、東京工業大学卒業後はインキ工場や特許事務所に勤務した経験を持つ吉本は、やはりきわめて異色だといえる。

あるいは、それまで思想家や哲学者と呼ばれる人たちがまともに論じなかったような、テレビ番組やマンガ、ポピュラー音楽などいわゆるサブカルチャーについて積極的にとりあげたことも、吉本の異色さとしてあげられるだろう(いまでこそ、そういうことは珍しいことではなくなったけれども)。とりわけ1980年代に、遠藤ミチロウ率いるパンクバンド、ザ・スターリンのライブに出かけたり、坂本龍一との共著『音楽機械論』で坂本の手ほどきを受けつつ楽曲をつくったことなどはいまでもよく語られるところだ。

だが、サブカル的なものへの言及はかなり早い時期より始まっている。たとえば1970年に発表された「芸能の論理」(『吉本隆明全著作集(続)10』所収)という文章は、芸能人と政治の関係などについて論じたものだ。この論考において吉本は、青島幸男・前田武彦・永六輔・野末陳平・大橋巨泉・野坂昭如という当時人気のあった5人のタレントを「インテリまやかしの芸能人」と批判、さらには「馬鹿さ加減」「つまらなさ加減」「毒性」「芸人的才能」などいくつかの基準でランクづけしている。「女ったらし」のランキングで巨泉が1位にされていたのには思わず吹き出してしまったが。ともあれ、吉本のテレビ好きはそうとうなものだったのだと、この論考からもうかがえる。

……と、ここまで書いてからあらためて、ここ数日のうちにネットや新聞などに掲載された追悼文を読んでみたところ、思った以上に吉本を気さくな人というか好々爺のように書いているものが目立ち、ちょっと意外な気がした。意外というのは、吉本隆明という人は、いろんな人に論争というかケンカをふっかけながら地位を確立してきた人じゃなかったっけ? と思ったからだ。

1982年、文学者たちの反核運動に対し異論を唱えた著書『「反核」異論』が出たあたりから、吉本にふたたび脚光が集まるとともに、その“功罪”をあらためて検討しようという動きが出てくる。たとえば、1986年にドイツ文学者の好村冨士彦が著した『真昼の決闘 花田清輝・吉本隆明論争』は、吉本がブレイクするきっかけとなった1950年代における評論家・花田清輝との論争を、その歴史的な背景とともに再考した本だ。

あるいは、社会学者・桜井哲夫の『思想としての60年代』に収められた「〈幻想〉としての吉本隆明――『共同幻想論』再読」という一文は、吉本の代表作である『共同幻想論』をめぐって起きた文化人類学者・山口昌男との論争を一例として、吉本の論争術というかケンカのしかたについて考察している。その文中の次のような指摘を読むと、吉本という人を敵には回したくないなーとつくづく思わされる。

《思えば、彼の論敵に対する批判は、たいてい「チンピラ」だの「ブタ」だのという口汚いののしりのなかで開始されていることに気づく。相手の論理が稚拙で反論する必要もないものなら黙っていればいいのだ。おそらく吉本はどんなつまらない雑文やコラムにも目を通し、自分に関わることについては反応しなければ気がすまないものらしい》

スルーすればいいものを、エゴサーチまでかけて自分への言及を見つけ出し、いちいち反応してみせる……。って、これ、ネットでちょくちょく見かける光景ではありませんか。さらにいえば、吉本は1961年に「試行」という雑誌を谷川雁や村上一郎とともに創刊、64年からは個人誌として30年以上にわたって刊行し続けた。これって、いま多くの著名な書き手たちがおのおのメルマガを出していることと、どこか似てはいないだろうか。

思えば、個人としてダイレクトに発信を続けるということは、吉本が後身たちに与えた影響のなかでももっとも大きなものではなかったか。「ほぼ日刊イトイ新聞」(略称「ほぼ日」)の糸井重里にしろロッキンオンの渋谷陽一にしろ、それから本本堂という出版社を運営していた坂本龍一といい、“吉本信者”で自前のメディアを立ち上げた人は少なくない。

上記のうち糸井重里はここ10年あまり、「ほぼ日」をベースにインタビューの掲載やイベント開催、さらには講演をまとめたCD全集を売り出すなど、吉本の言葉を広める熱心な伝道者の役割を担ってきた。冒頭で触れた「ブルータス」での特集もその一環であったことはいうまでもない。

今回のムックにはくだんの特集から、吉本と糸井の対談のほか、私たちの抱える悩みについて、それを解決するヒントを吉本の言葉から見出そうという企画が再録されている。なかでもぼくの印象に残ったのはこの言葉。

《文学芸術に関する限り、問題の本質は手仕事をやるかやらないかということで決まるのです。手仕事というのは、毎日のように机の前に原稿用紙をおいて、ペンを持って、机の前に座って、なんかやるということです。何も書くことがなく、気分ものらなくても、やっぱり原稿用紙を前において、ペンをとって、そこに座って、「さて」ということでやろうということです》

これはもともと、吉本が1967年に学生相手の講演会で発言したものだという。気になって原典(「詩人としての高村光太郎と夏目漱石」、『情況への発言――吉本隆明講演集』所収)にもあたってみたところ、前出の文章のあと次のように続いていて、さらに心を打たれた。

《われわれが、アマチュアというやつとプロというやつを区別する唯一のメルクマールはなにかというと、それをやれるかやれないかということだけなんです。つまり、おれは書きたいときだけ書くんだというやつは、アマチュアなわけなんですよ。プロというのはなにかというと、書きたくなくったって、やっぱり書くんだということ、いやだって書くんだ、(中略)それはもうどうしたってやるんだということです。(中略)その書いたもので金が手にはいるかはいらないかということは、アマチュアとプロを区別するものではありません》

考えてみたら、これって矢沢永吉の「やるやつはやる」という言葉(「矢沢永吉 やるやつはやる」と検索をかけると発言時の動画が出てくるはず)にも通じるものがありそうだ。永ちゃんの『成りあがり』のリライターでもある糸井重里が、吉本の例の文章から言葉を引っ張ってきたのはしごく納得がゆく。

そんな発見もあった今回のムックだけれども、吉本隆明特集から再録されたページが思いのほか少ないのがいささか不満である。もとの特集号では、先述のような名言集の導入部としてAKB48によるガールズトークなどが掲載されていたほか、「はじめての、吉本隆明」と題して、実の娘であるよしもとばななへのインタビューや詳細な年表、また鹿島茂による『共同幻想論』の解説などを収めたミニ入門書が綴じ込み付録としてついていた。吉本隆明に興味を持った人はぜひ、当該の号を古本屋や図書館ででも探して読んでほしい。(近藤正高)