マルク=アントワーヌ・マチュー『3秒』 光のズームで展開する眩暈のバンドデシネ、大傑作です。

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マルク=アントワーヌ・マチュー『3秒』!

今年読んだマンガの中で最大の衝撃だった。

1コマ目、闇。次のコマも闇。そして、小さな光。
じょじょに大きくなる光。
窓。
窓に近づく→窓の向こうに男の顔→男の顔→もっと男の顔に近づく→男の顔→顔面→眼のまわり→眼→もっと眼→虹彩と黒目→黒目→もっと黒目→黒目に映るスマートフォン(男がスマートフォンを手に持って観ているのだ)→もっと黒目の中のスマートフォンに接近→スマートフォンの画面→画面、メッセージ受信のマーク→もっとスマートフォンに近づく→スマートフォンのカメラレンズ→カメラレンズに映るスマートフォンを持つ男(さっきの男だ)→もっと近づいて男の顔→男の後ろにピストルを構えている男が!→もっと近づくとその後ろに鏡→男の肩とピストルと鏡→鏡には、ふたりの男の背中(もちろん最初の男とピストルを構える男だ)→!→!→!→!→!→!→!
というふうに、まったくセリフなしで、正方形の本に3×3、9コマのモノクロのグラフィックがずらーっとならぶ。
視点は、光だ。
67ページ、全603コマで、ものすごいスピードで光のカメラが直進し、反射する。
光のラインに従って、高速のズームで、接近する。
反射するたびに視点が反転し、眩暈おぼえる映像を、読者は自らスピード調整しながら読み進めていく。
死角で見えなかったモノが見え、関連性が判明する。別の視点から見える事象は、さっきまでの想像を裏切る。
まったくありえない体験(ふつうに生きていたら体験することは不可能な体験)を、投げつけられる。
いや、ただの実験的なマンガではない。
なぜ、男はピストルで狙われているのか。何が起ころうとしているのか。たった3秒の出来事から、読者はそれを組み立てることが可能になっている。
ミステリー作品なのである。
(アマゾンの『3秒』ページで少し中を見ることができる、ぜひ)

光のカメラは、優勝カップで反射し、女が落としたコンパクトミラーで反射し、監視カメラのレンズで反射し、おっさんの金歯で反射し、道路を走るバイクのバックミラーに反射する(もっとすごい反射体験もあるが、それは読んで驚いてくれ)。反射しまくって、また最初の部屋にもどってくる。
状況は、ほんの少しだけ進んでいる。
セリフはないが、読者には状況がすこしずつ見えてくる。
新聞の見出し、テレビに映るサッカーの試合(その決定的瞬間!)、男の部屋にある書類、上空を飛ぶ飛行機、雑誌記事の見出し……。
サッカー界でうごめく陰謀? 最初に登場する男は、コンパクトを落とした女は、ピストルをもつ男は、誰で、どういう役割を担っているのか?
登場人物は、実在のフランス人サッカー選手のアナグラムになっていて、実際のフランス・サッカー界の騒動と関連している(っても、知らなくてもだいじょうぶ)。
バラバラに提示される状況が脳裡でバチバチと結びつく快楽と、ものすごいスピードでズームする視点と反射の連続の眩暈的快楽でくらりくらりとなりながら、体験したことのない読書の中に没入する。
読んでいる実時間はもちろん3秒ではない。だが、なんというか、息を止めて体感している自分の内的状況は、まさに3秒。
ものすごく長い3秒を体験できる!

ぷはーって読み終わると、大きく息を吸い込んで、もういちど読む。読まざるをえない。
何しろ、一度では謎の輪郭はぼんやりと見えるだけだ。
二度目は、細部まで読み込む。ぼんやりと分かった状況のさらなる検分だ。
完全に名探偵の気分(本についているIDとパスワードで、訳者原正人の詳細な解説と、デジタル映像版「3秒」がある特設サイトにもぐりこめる)。
怖ろしく緻密に構築さられた3秒に驚く再読。

著者は、マルク=アントワーヌ・マチュー。1991年アングレーム国際マンガ祭で部門賞、2010年『Dieu en personne』でバンドデシネ批評家ジャーナリスト協会賞グランプリを受賞。
ルーヴル美術館BDプロジェクト第2弾『レヴォリュ美術館の地下 ある専門家の日記より』では、美術館の巨大な地下迷宮をめぐる旅を描いた。ここでも入れ子構造の眩暈を呼び起こす仕掛けがいくつも組み込まれていた。
そのマルク=アントワーヌ・マチューが仕掛けた『3秒』、超弩級アイデアと構築力と眩暈と推理の興奮を、ぜひ体験してほしい。(米光一成)