『石子順造的世界 美術発・マンガ経由・キッチュ行』美術出版社
東京の府中市美術館で開催中の同名の展覧会(会期は2012年2月26日まで)の公式カタログ。美術評論家・石子順造に関する品々の図版とともに、彼の遺したキッチュ論、マンガ論などのダイジェストも多数収録。表紙写真には、つげ義春の代表作『ねじ式』の扉の原画が使われているが、主人公の顔がいったん描いたものの上から別の紙を貼りつけ修正されていたりと、これだけで興味深い。

写真拡大

きのうの記事で、“サブカルのパイオニア”として今和次郎をとりあげた。その際、彼の仕事におけるエポックとして、関東大震災(1923年)直後の「バラック装飾社」の活動にも触れた。復興途上の東京のあちこちで今和次郎や仲間たちが建物にペンキで装飾をほどこしていたのとちょうど同時期、銭湯の浴場の背景にペンキ絵を描くことが流行し始める。浴場背景画は、震災前の1912年(いまからちょうど100年前)、東京・神田猿楽町の銭湯「機械湯」で、川越広四郎という画家に依頼して描いてもらったのが最初の例だという。それが震災により多くの銭湯が建て替えを迫られた機会に、一気に広まったというわけである。

美術評論家・石子順造(1929〜77)の『ガラクタ百科』には、銭湯の浴場背景画のほか、大漁旗、マッチラベル、食品模型、おもちゃのお金(模造通貨)、絵葉書、ピンアップ、リングコスチューム、消しゴム、盆栽などなど、「ガラクタ」「まがいもの」「にせもの」などと呼ばれるモノの数々が、その概要やルーツなどを記した短い解説文と、たくさんの写真とともに紹介されている。

『ガラクタ百科』は石子の没後の1978年に、彼が生前書いた文章に図版を加えてまとめたものだ。石子はこのようなガラクタたちを、ドイツ語でまがいもの、俗悪なものを意味するキッチュという言葉を用いて論じた人物として知られる。手短に説明するなら、石子はキッチュという言葉を手がかりに、いかに現代人のモノの見方や考え方が様々な制度にとらわれているかあきらかにしようとしたのだ。たとえば、わたしたちは浴場背景画を芸術作品として見ることはほとんどない。石子の考えにしたがえば、それは浴場背景画を、芸術という制度の枠外に置いているから、ということになる。

いきなり話が小難しくなってしまったが、石子順造の文章自体、けっして読みやすいものではない。その石子について、展覧会が開かれると知ったときはちょっと驚いたものだ。だが、石子が伝えようとしたものは、実際に彼が研究対象とした品々――それは先にあげたガラクタ群のほか、同時代を生きた美術家、マンガ家たちの作品など多岐にわたる――を集め並べることによってこそ理解が深められるのかもしれない。残念ながら地方在住のぼくは、府中市美術館で開催中の「石子順造的世界 美術発・マンガ経由・キッチュ行」展(会期は2月26日まで)には行けそうにないのだが、同展のカタログは市販されており入手することができた。

個人的に石子順造には20代の頃にハマり、前出の『ガラクタ百科』やその著作集(『キッチュ論』『イメージ論』『コミック論』の全3巻)などは、原稿のネタ本として大いに使わせてもらったものだ(スパゲッティ型のUSBケーブルを紹介したこの文章などはとくに顕著だ)。今回の展覧会のカタログの完成度もなかなかで、単行本未収録のものも含む石子によるさまざまな論考をダイジェストで収めるほか、巻末には著作案内や関連するキーワードを解説した小辞典も付され格好の入門書となっている。石子が高く評価したつげ義春の『ねじ式』の原画を撮った写真も載っているのもうれしい。

小辞典の項目にあがっていたひとつ「丙午(ひのえうま)」などは、石子の言説のなかでもとくにぼくの印象に残っているものだ。これは、十干十二支でいうところの丙午の年に生まれた女性は、気性が激しく夫の命を縮めるといった迷信なのだが、江戸を中心に信じられ、明治以降も丙午の年のたび出生率の減少が見られた。石子は、明治の丙午(1906年)以上に、次の丙午である1966年に極端な減少が生じたことに着目、その原因として、教育の普及やメディアの発達といったことが逆に作用したためではないかと考えた。すなわち《マスコミが「丙午迷信」を迷信として周知させればさせるほど、受胎調整にかんする法律や技術に助けられて迷信は迷信でなくなろうとしたというわけである》(「俗信と文明」、『キッチュ論 石子順造著作集第1巻』所収)。ネットなどで迷信やデマがまことしやかに流れているのを見るたび、ふとこの石子の論考を思い出してしまう。

展覧会開催とあわせてか、昨年末には『マンガ/キッチュ――石子順造サブカルチャー論集成』という本も刊行されている。単行本未収録の論考をまとめた同書の巻末には、つげ義春をはじめ評論家の川本三郎などがエッセイを寄せているのだが、意外だったのは小説家の姫野カオルコが寄稿していたことだ。これを読んで初めて知ったのだが、姫野は高校時代、新聞で石子のことを知り手紙を送って以来、文通や電話で交流していたという。石子が彼女に電話で語ったという次のような話など、地方在住のサブカル系の女子高生にとってはたまらなかったのではないだろうか。

《「手塚治虫と大喧嘩になったことがあってね……。手塚さんの才能は尊敬してるし、悪口を言ったつもりは全然なくてさ、作品について語ったつもりなんだけどね……、なんだか喧嘩みたいになっちゃってね……」
 この話のときは、高校生の私が相手なのに、ぼりぼり頭をかくように、「いやぁ、悪かったなあ」と恐縮しているような声だった》

手塚との論争は、石子が雑誌に載せた記事を発端に1967年から翌年にかけて交わされたものである。なお、姫野が東京の大学に進学するのとほぼ時期を同じくして石子は急逝したため、2人は直接会うことはなかったようだ。最近講談社文庫から出た姫野の『ああ、懐かしの少女漫画』は、高校時代に石子に宛てた手紙が下敷きになっているという。

1956年から8年ほど病気療養を兼ねて出身地である東京を離れ、静岡でサラリーマン生活を送っていた石子は、地元の画家たちと創作グループを結成している。東京に戻ってからも自分より10歳近く若い評論家たちとマンガ評論の同人活動を行なったほか、前出のつげ義春とは一時期同居していたこともあるという。常に興味の趣くままに動き、いろんな人たちと交流を持つことで独自のネットワークを拡大していった石子は、多くの論考を執筆したものの集大成的な大著は残すことなく、1977年に48歳の若さで亡くなった。

それでも、こういう言い方は不謹慎かもしれないが、その仕事を完成させなかったからこそ、石子の死後を生きるぼくらには、彼の論考を補足したり、想像をふくらませたりする余地が残されたともいえるかもしれない。たとえば、みうらじゅんの「ムカエマ」や「カスハガ」などといった多種多様なコレクションや、大竹伸朗が手がけた直島の銭湯などは、キッチュの進化型ともいえる。これらを石子が見たらどう論評したことだろう。あるいは、晩年の石子は、道祖神として日本各地に祀られている丸石に関心を抱いていたというが、そんな彼がかつての同居人であるつげ義春の『無能の人』を読むことがあったのなら一体どんな感想を抱いたのか、気になってしかたがない。(近藤正高)